暗闇を探っていた手に、覚えのある手触りのものが触れた。ああ多分これが探していたものだと踏んで、丸みのあるそれを手前に引き、腰掛ける。恐らく何をするか事前に言われていなかったら、ここまでスムーズには席に着けなかったろう。けれど事前にお茶をすると言われていたお陰で、脳内に漠然とではあるもののイメージがわいて、俄然動けるようになっていた。何も知らされていない時との差に驚くが、それもこれも、得られる情報量からくる安心の差なのだろう。
「では今からメニューをご紹介しますね」
 サクラにイケボ認定された男性の一人が、メニューを読み上げていく。ボイスメニューのため、脳内の黒板に逐一書き付けていくことにする。
「まず飲み物ですが、ジュース類とアルコールがあります。ジュースはオレンジジュースと辛口のジンジャーエール。アルコールはベルギービールをご用意しています。
(へえ、ベルギービールとはまた洒落てるな)
 いつも国産を頼んでしまうため呑んだことはないが、国産にはない多様な味や種類が楽しめると聞いたことがある。思わず喉が鳴る。そういえば喉が渇いた。
「おやつのほうは、お菓子のセットと、ビールに合うおつまみのセットがありまして、どちらも三種類ずつついています」
「はーいはいはい! オレビールとおつまみセットな!」
「オレもだ」
「えぇ〜じゃあ私もビールにしちゃおっかな♪」
「ダーメだ! 姿が見えないからって、ここぞとばかりに呑もうとしてるんだろうがな。お前らまだ未成年だろうが。イケボは騙せても俺は騙せないぞ」
 ダメ元であわよくば…と思ったのかは知らないが、教師としてとても見すごすわけにはいかない。
(例え呑んでる姿が見えてなくてもな!)
「チッ、バレてたか」
「あぁーん、残念〜」
「ちぇー、イルカ先生厳しいってばよ〜」
 揃ってブーイングしている表情がテーブルの向こうに見えるようで、かわいい奴らだなとは思うが決まりは決まりだ。
「まぁ俺が言わなくても、ヒナタが言ってただろうけどな。学生料金で入ってるんだろ?」
「ああそっか、それがあったってばよ〜。まぁいいや、じゃあオレ、ジンジャーエールとお菓子な!」
「じゃあ私も同じの下さぁい」
「オレはジンジャーエールだけでいい」
「じゃオレはビールとつまみね。イルカ先生も、呑めるんでしょ?」
 すぐ隣から、カカシさんが尋ねてくる。やっぱりこの人の声、安心出来るタイプの声じゃないだろうか? …って、これも暗闇効果なのか?
「いや、俺はやめておきます。あの、ジンジャーエールとお菓子で、お願いします」
「あらま、呑めませんでしたか」
「いえ、好きですけど、ここで酔ったら外に出られる自信ないんで」
 呑みたい気持ちは山々だし、つい今しがたまでは呑む気満々だったが、直前になって気が変わっていた。
 なぜって、それはやっぱりこの暗闇を、最後までしらふのまま体験したいからだろう。たぶんお菓子も、食べないよりは食べたほうがきっと経験になるはずだし。
「随分慎重だねぇ。ベルギービール、色んなタイプの個性的なのがあるけどどれも旨いよ。もしも動けなくなったら、オレが負ぶって出してあげますよ」
「ええ〜それ余計に危ない気がするってばよ」
「さっきヒナタが『ここで怪我をする人はいない』って言ってたけど、きっと第一号ね。間違いないわ」
 そうなのだ。場内は一寸先も見えない闇なのだから、一見すると怪我人が続出してもおかしくないようにも思えるのだが、実際には皆無といっていいらしい。でもわかる気がする。内部が怪我をしないような作りになっているのは勿論だろうが、そもそも怪我をするほど動くことが出来ないのだ。
(酔った者同士でおんぶなんて、馬鹿なことを考える客は想定してないだろうしな?)
 このカカシという人、ちょっと突拍子もないところがあるけど、なんだか憎めない人だ。
「そーおー? じゃこうしよっか。これが終わったら、その辺の店で呑みなおすってことで、どう?」
「ぇっ? あぁ…そういうことなら、はい」
(…って、約束、しちまったよ…)
 気付いた時には、会ってから一時間くらいしか経っていないどこの誰かも知らない人に、暗闇でOKしてしまっていた。姿を見た時間に至ってはまだ五分にも満たないような相手に、返事をした俺も俺なんだが。
(でもなんでかな…そんなの関係ないって、思えたんだよな)
 暗闇というのは不思議な場所だ。「警戒」と「安心」という、全く相反する要素を同時に併せ持っている。ほんのちょっとしたことで、簡単にどちらかに転がりそうにも思えるその両者の分かれ目って、どこにあるなんなんだろう?
 そんなことをつらつらと考えていた時だった。
「では続きまして、メニューの料金をご案内させて頂きますね」
(なるほど、ここで買い物というわけか)
 今までは感覚の刺激やゲームといった色合いが濃かったが、食事や買い物といった日常の行為は、違った意味で興味深い。
 ジュース類は300円、おやつが200円。ビールとつまみだと1200円ということだったが。
 前金制だと言われ、まずはカカシさんから預かっていた財布を、ウエストポーチから取り出して渡す。続いて自分が持ってきた小銭を探りだしたところで、はたと気がついていた。
「しっ、しまった…!」
 財布の中にどっさりあった小銭を、幾らかも数えないまま全て持ってきてしまっていた。
「どれが何円玉なのか、ぜんっぜんわからん…」
 時間ならあったのだから、せめて何が何枚くらいかは予め数えおくべきだった。何度も触り比べることで、辛うじて「1円玉とそれ以外」だけは何となく判別できたが、確かあったはずの穴あき玉がどれなのかもはっきりせず、10円と100円に至っては全く、これっぽっちも差がわからない。
「ふ、暗闇で使うんだ。500と千の二種類で事足りるだろうが」
 サスケは予めこの事態を想定して、上手く機転を利かせていたようだが、サクラは俺と同じ迷路にはまっているらしい。
「ああ〜ん私も失敗したわぁ〜。千円札一枚にしとけば良かった。ちょっと迷ったのよねぇ〜」
 しかもナルトに至っては、「あれ? オレ200円しか持ってきてねぇってばよ?」などとしれっと言っている。おいおい。
(そういや、カカシさんは…?)
 彼は遅れてきたせいで、財布ごと持ってきてしまっている。(でも中に何が幾ら入っているかさえ把握していれば、そのほうが楽に乗り切れそうだな)と思った時だった。
「――んーーそうねぇ。じゃここの支払い、全部まとめてオレのゴールドカードで宜しく〜」
「無理です」
 イケボがぴしゃりと答えると、すぐさまみんなからのお約束のツッコミだ。
「ぷっ、なによそれ〜。カッコつけたつもりかもしれないけど思いっきりスベってるし」
「ゴールドだ? フン、見えてないんだから何とでも言えるな」
「ぇなになに? カカシさんが奢ってくれんのか? ぃゃったぁ! ご馳走様だってばよ!」
 どうやらカカシさんも、普段から自分の財布の中身をあまり把握していないらしい。良かった、俺だけじゃなくて。
「いやナルト、カードはダメだよ。なんたってサインが出来ないからな。えぇっと…じゃあここは俺がナルトの分も払いますんで、二人で幾らになりますかね…って千円か…」
 そうして気がつけば、更に小銭の判定量を増やして支払いを難しくしてしまっている。が、こうなったらもうヤケだ。いややるしかない。再び全財産を入れたウエストポーチの、一番外側のポケットを探る、探る、探る。
「――ええっと…? …あっ、これが50円か? いや5円なのか? どっちだ??」
 ようやく指先に神経を集中することができるようになってきて、穴の開いたコインを二つ探し当てたものの、今度はそれが5円なのか50円なのかがわからない。表面は何度触り比べても、ごく僅かな凹凸があること以外は認識できず、何が刻印されているのかなんてとてもじゃないがわからない。日々色んなものを触っているはずの自分の指先の皮膚も、どうやらその程度のことしか判別できないらしい。
「皆さんは、いつもどうやってコインを見分けてるんですか? あ、触り分けてる、か?」
 サクラが質問している。
「ふふ、どうやってると思いますか?」
 イケボはなかなかヒントをくれない。出来るだけ自分達で解決しろということなのだろう。
「あぁそういやよ、50円玉のほうが、何となくだけどちっちゃかったんじゃねぇ?」
「フン、そんな微妙な差が触ってわかるようなら苦労はしない。この状況では二つをきれいに重ねて確認できるようにするだけでも至難の業だ」
「ほんとよぉー。いま50円の方には50って書いてあったはず…と思って触ってるけど、もうぜんっぜんわかんない。裏も表もほとんど似たような触感で、何となく差があることはわかるけど、それがどっちのコインかなんてとてもじゃないけど無理よこれ」
「あぁなるほど、数字か…。サクラ、よくそんなこと覚えてたな」
 もう何十年もの間、毎日のように目にしているはずの硬貨だが、改めてどんなデザインだったかと思い起こそうにもあやふやもいいところだ。それはどれほど見てはいても、覚えてはいないということで、年長者として少々面目ない。
「イルカ先生、コインの縁ですよ」
「は?」
(ふち?)
 どうも隣のカカシさんが助け船を出してくれているようなのだが、意味がわからない。
「50円には縁にギザギザがあって、5円にはないでしょ」
「え? そうでしたっけ?」
「カカシさん、その通りです」
 テーブルから少し離れた所から、ヒナタがタイミング良く答えている。
「…あ…? あぁほんとだ。爪で引っ掻くとわかりますね?」
 今の今まで穴あきのコインの縁に差があることに気付いてなかったが、言われて触ってみると確かに違う。爪の先に僅かだがガタガタとした引っかかりがあるものと、つるっとしていて何もないものがある。普段何気なく使っている小さなコインの中にも、視覚障がい者のために様々な工夫がなされているらしい。
「ということは、100円と10円もそれで見分ければいいわけだ?」
 穴の開いていないもので、縁にギザギザがあるのが100円、ないのが10円。その約束事については、何となく覚えがある。
「でもたまにギザ十とかあるってばよ?」
「もうっナルトっ、あんたイルカ先生に出して貰ってるんだから余計なこと言わないの!」
「うはっ、イルカ先生ごめんてば〜。オレ200円出すからよ。300円貸しといて。な?」
「おう、わかった。…よーし、待ってろ〜」
 そんなわけで残りの800円を俺が出すことになったが、何とか硬貨の区別は出来るようになったものの、今度はテーブルに何円玉を何枚出したかがあやふやになってくるという、新たな問題に直面していた。
「ん? …あれ? 俺いま10円玉何枚出してたっけ…? 8枚か…いや7枚だったかな? うーん…?」
 自分は普段、どれほど目に頼りきっていたというのだろう。そんな直前の簡単な記憶までが実は怖ろしく曖昧だったとは、正直ショックだ。
「あぁでもその感じ、私もわかるわぁ。コインを触る方にばっかり意識がいってるせいで、余計に数が覚えられないのかも」
 サクラも400円まではいったものの、あと100円分の所で迷っているらしい。
「10円は8枚だ。50円が2枚」
「えっ? ホントかサスケ?」
 向かい側から響いてきた声に、ほとんど無意識のうちにも声に出しながら数えていて良かったと思う。
「あと『100円玉はそんなになかったはずだから』って言って、500円を1枚出して、あと5円も1枚出してましたよね、確か」
「うはっ、カカシさんもよく聞いてましたね」
 先に支払いを済ませた人達に、記憶の補完をして貰う有様だが、助かっていた。今からまた一枚一枚、机の上に出したコインを確認しながら数えていくのでは、みんなを待たせすぎだ。




        TOP   文書庫   <<  >>