(――掃除、完了っと…)
 部屋の中がざらざらしなくなっているのを、耳や足裏の感触などで確認し、一つ大きく溜息を吐く。良かった、今回も何とか間に合った。あとはイルカが帰ってくるのを待つだけだ。
 掃除という行為が家中のことをくまなく知ることの出来る、感覚をフルに使った作業であることに気付いたイルカは、最近オレにその任を任せてくれるようになっている。
 はたけカカシの自立を何より第一に考え、上忍だからといって甘やかすようなことをしなかったお陰で、オレは新たな世界との付き合い方を覚えることができていた。彼の正しい配慮には感謝してもしきれない。
 思えば最初にこの家を掃除したのはイルカだった。当時のオレは「天井を歩けばいい」などと言っては逃げることばかり考えていたというのに、変われば変わるものだ。
 そして彼でなかったら、自分にここまでの変化は起こらなかっただろう。

 柱時計が五回鳴り、そろそろイルカが帰ってくる頃合いであることを知らせている。
 今回もイルカは夜通しかかって仕上げた書類を携えて、アカデミーへと出掛けていた。最近持ち帰りの作業量が多くなり、彼の余力がいよいよ削られているとわかるだけに、掃除中も心穏やかでない。
(五代目…そのやり方は流石にどうかと思いますよ?)
 方法を改めるよう、忍犬を呼び出して言付けるか…などと巡らしていたときだった。
 鍵が開く音がして、いつ聞いても耳に心地良い男の声が、扉を開けて入ってきた。
「カカシさん、ただいま」
「お帰り」
 複数のスーパーの袋がガサガサと賑やかな音を立てている。だいぶ買い込んできたらしい。
「秋刀魚が安かったから、また買って来ましたよ。こないだの、脂が乗っててめちゃくちゃ美味かったですよね」
「ああ…」
 イルカがすぐ脇を通り過ぎていくと、新鮮な生の魚や旬の根菜の香りに混じって、彼の温かな匂いがふっと鼻腔をくすぐる。
「それとね、聞いて下さい。今日も五代目の所に寄ったんですけど、術の解読が急に進んだそうなんですよ」
(ぇ…)
「良かったですね、本当に!」
 と次の瞬間、暗闇で急に利き手を取られてはっとする。
「カカシさん、もうすぐですよ! きっともうすぐ、見えるようになりますよ!」
「――ふん、余計なお世話だ」
「ぇ?」
「聞こえなかったか? 余計なお世話だと言っている」
「ゃっ……ぇっ?」
「イルカのことを色々と調べ上げて、上手く会話を繋げたと思ってるんだろうがな。…あのとき秋刀魚を食べたのは、オレだけだ」
 あの日、上忍の体力を何より優先したイルカは、自分で作ったメイン料理を一口も食べないまま夕食を終えていた。気配から食べていないと気付いて「食べないのか」と聞いたが、「そのうち」と応えながら結局最後まで口にしなかった。
 と、それまでしっかりと利き手を握っていたはずの手が、何かに気付いたようにぱっと離れ――ようとするのを、逆に掴み上げる。
(掴まえたぞ)
 ようやく、掴まえた。
「…やっ…?! カカシさん、どうしちゃったんですか。はっ、離して下さいよ」
「アンタが、イルカならね?」
「なに言ってるんですか、イルカですよ。俺は正真正銘、うみのイルカです」
「フン、どこがよ」
 暗闇で吐き捨てるように放った。連日の長時間任務で疲弊している今のイルカはそんなに軽やかな足取りではないし、見えない者に対して「すぐ見えるようになる」などという気休めのようないい加減なことを言ったりもしない。
(疲れて弱ってきたイルカの警護の隙を狙ったつもりだろうが、相手が悪かったな)
 掴んだ手に力を入れながら、ここ最近自分でも驚くほど鋭くなったと思う感覚で、周囲の気配を慎重に探る。
(よりにもよって、イルカを真似ようなんざ…)
 そもそもイルカは一度フッた者に対し、そんなにベタベタと気安く触ってきたりしないのだ。何度髭を剃ってもその手付きはごく遠慮がちで、決してオレに無用の誤解をさせないよう、今でも警護者としての接し方を崩さないでいる男なのだ。
(里内での気さくで分け隔てのないイルカを見て、特徴を捉えたつもりだろうがな…)
 腹の底からふつふつと、いやぐつぐつと音を立てながら、湧き上がってくるものがある。
「――ッ、お前らァー!」
 相手を掴んだ手指に、一層力が入る。ここ暫くまともにチャクラを練っていなかったが、錆びつくどころか制御が困難なほどの湧出を感じる。
「ふざけるのも、いい加減にしろよ?」
 飛んで雷雲に入ってくるとはいい度胸だ。見えてはいないが、右手のみならず、髪の一本一本からも放電が始まっているのがわかる。室内はチリチリ、バリバリという音に満ちていて、その反響のしかたが他と僅かに違っている場所へと次々目を向ける。天井に一か所、窓際にもう一か所。
「…ヒっ?!」
 目の前に居るそいつと合わせ、全部で三か所から次々上がった悲鳴は、もはやイルカのものとは似ても似つかないものだ。
「おい、そこでイルカを担いでる奴」
 暗闇の一角…南にある窓のほうに向かって警告を放つ。例えチャクラが全く感じ取れなくても、人が人を担いでいることは、経験から音のシルエットではっきりと手に取るようにわかるようになっている。最近ではあえてこの左目を狙ってきやすいよう、わざとイルカの留守中も忍犬を出さずにオレ一人で過ごしていたというのに、なぜお前らはそういう余計なことをする?
「その人をそれ以上傷付けてみろ。犬の餌にもならないようにしてやる」
 もちろん、簡単に死なせたりなどしないが。
「感電して端のほうから消し炭になっていく気分がどんなものか、よく味わってみるんだな」
(オレを怒らせに来たんなら、相応の報いは受けて貰うぞ!)


     * * *


 最初に感じたのは、両の頬を包む何かの感触。
(――ぁ……あったか…)
 続いてさらりとした肌触りのそれは、おずおずといった調子で額の上を動き、どこか遠慮がちに、けれど繰り返し頬や頭を撫でている。気持ちいい。父ほど強くもなく、母ほど小さくもないけれど、とても優しく温かなそれ。
「――ルカ、……カ、……イルカ!」
(?!)
「…っ?! ぁっ、…はっ、はいっ?!」
(しまった、任務中か?!) 
 突然頭の中の霧が晴れたような感覚に、わけもわからずがばりと跳ね起きる。数日前、警護中にチャクラが途切れそうになり、焦ったことがあった。それ以来、絶対に気を抜いてはいけないと、何度も言い聞かせていたのだが。
「ッ、カカシさん?! すみません俺っ、…いやえっ…? あれっ…?!」
 跳ね起きたのは気持ちだけで、実際には上忍の腕の中で少し頭を持ち上げただけだった。慌てて視線を巡らせると、リビングの片隅に一まとめにして縛り上げられている三人の男と、それを取り囲む八匹の忍犬が目に入り、一気に記憶が蘇ってくる。
(ぁ…っ!)
 自分はさっき、火影室からの帰り道でこの連中に突然襲われていた。最初に面識のないくノ一が声を掛けてきて、「カカシ上忍を最初に警護した者です」と切りだしてきた。そこから、「火影様からの指示で、私と警護を分担することになった」と聞かされたのだが、今思えばそのことに気を取られすぎていた。ちなみに彼女には、「確かに警護は二人体制の方がいいとは思います。でも俺一人でやれます。やりたいんです」と断ったのだが、その瞬間現れた二人の男に金縛りに遭い、羽交い締めにされた挙げ句鳩尾に重い一発を食らって今に至る、だ。色々面目ない。
(でも誰に何と言われても、守り通したかったんだよな…)
 俺が、この手で。
 どうやらその機会は、過ぎてしまったみたいだけれど。

「おいカカシよ、コイツら、食ってもいいんじゃろう?」
 脇にいたパックンが、のんびりとした口調で尋ねてくる。
「ああ、人目につかない所に持っていって、新鮮なうちに食え。骨も残すなよ」
「なっ…?!」
 と、こちらに向き直ったカカシさんが、素早くウインクして見せて、出かけていた言葉を慌てて呑み込む。
「ぃやったー! こないだの肉は美味かったが、ちょっと量が少なかったからな!」
「イェー! 肉、散歩、肉、散歩〜!」
「ハイ、行ってらっしゃ〜い」
 『賊在中』と書かれた紙を貼られた巨大な麻袋が、八頭の犬に引かれて火影の待つ執務室へ向かうのを見送る。忍犬達はちぎれんばかりに尻尾をふり、それはそれは賑やかだ。中の連中は、まだとうぶんは生きた心地がしないだろう。
 季節外れのソリが遠ざかっていくと、必死で口を押さえていた手を離し、ブハッとひと息を付く。あぁ苦しかった。
「――もうっ、カカシさんたら趣味悪いんだから〜……ぷっ…ぷぷぷっ…」
 あぁダメだ。真面目な顔をしようと思っても、勝手に口元が弛んでしまう。
「そーお? そういうイルカも、ずいぶん楽しそうだけど〜?」
 二人で暫くの間、笑いあった。

 
「オレを殺るなら何日も様子なんて伺わずに、この家に来てすぐに実行すべきだったね」
 リビングに戻り、二人で散らかった部屋の片づけをはじめたところだ。床から天井にかけて雷が走ったような跡があり、それなりに派手だったらしい戦いの様子を偲ばせている。
「ええ、確かに」
 彼は見えなくなったが、耳と記憶から俺の体調まで察知することが出来るようになっていたのだ。その俺に変化してカカシさんの目を奪おうなんて、連中も間抜けなことを考えたものだ。
「おおかたオレを殺って左目を取ったあと、イルカを犯人に仕立てあげようとしてたんだろうけど」
 そう、相手が余りに悪かった。
「ああ、思いだしたらまた胸が悪くなった。クソッ」とブツブツ言っている男に、「まあまあ落ち着いて」と宥める。俺がいない間に、一体どんなやりとりがあったんだか。
「にしても、まさかこんな近くに背信者がいたとは…」
「ね」
 驚き以外、言葉も出ない。捕らえられた連中は数年前に赴任地から戻ってきた木ノ葉の戦忍のはずで、里でもそこそこ知られた顔だった。そんな者達が、カカシさんのアクシデントに乗じて左目を狙ってくるとは。
「オレも五代目に話を聞いてもずっと半信半疑だったけど、いやはや女の勘てのは怖ろしいもんだーねぇ」
 ハハーそうですね〜、と愛想笑いともつかないものを返す。俺からしてみれば、里を代表する上忍の目が見えなくなったという一大事を利用して、仲間内に潜む敵をあぶり出そうと考えた火影も火影なら、そんな任務を受理したカカシさんもカカシさんなのだが。
 そして俺はというと、二人の間ですっかりいいように使われた格好だが、彼らの間で結果として上手く動けたのなら良しとすべきなんだろう。あの量の事務仕事はとうぶん遠慮申し上げるが。


     * * *


「――あ、それよりカカシさん、五代目からの伝言ですが、術の全容が解明されたとのことで、『今夜中には解術用の巻物を送るから二人で解印するように』とのことです」
「へっ? そうなの?」
(なんとまぁ)
 急転直下の報せに、ずっと待ち侘びていたはずが面食らう。そういえばさっきの連中も『術の解読が急に進んだ』と言っていた。てっきりガセだと思い、イルカの分と合わせて五割増しの雷切を見舞ってしまったのだが、少々悪いことをしたかもしれない。
「カカシさんが森の中で倒したという忍の遺骸を回収して、多方面から情報収集をしていたそうです」
「そう…、みんなに手間掛けちゃったね」
「そんなことは気にしなくていいんですよ。もっと喜んで下さい。大切なことなんですから」
(ま、そうなんだけどね…)
 イルカには大きく頷いて見せている。けれど、いまひとつ心は晴れていかない。
 解術の巻物が届けられ、元通り見えるようになったなら、この隠れ家での生活も終わってしまう。そうすればまた二人は、「以前付き合ったことのある他人」に戻ってしまうのだ。何度すれ違っても、会釈を交わす程度の他人に。
「イルカ」
「ぁはい?」
 見えている時は、すぐ近くにいても何も言えなかった。眩しすぎて、口布と額当ての陰に隠れながら、ただただイルカから目を逸らし続けていた。
「見えてないうちに、言っておきたいことがあるんだ」





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