「えっ、ちょと、なんですか?」
 てっきり何か話でもするのかと思っていたが、背後に立って肩の辺りを触りだしたことでようやく理解していた。どうやら肩を揉んでくれようとしているらしいのだが、上忍が中忍の肩を揉むなど、聞いたことがない。
「あのっ、いいです。ぜんぜん凝ってないんで」
「いいから。黙って座ってて」
「でもっ」
「じっとしてて。悪いようにはしないから」
(いやすでに悪いですよ! 俺中忍なんすよ?!)
 唇まで出かかった言葉を、辛うじて呑み込む。相手の言葉を全て受け入れるというのも楽じゃない。
 だが、(仕方ない、五分だけ)と渋々椅子に腰掛けたところ、カカシさんは俺自身も気付いてなかった体の不調をあっという間に見つけ出していた。その間、わずかに両手の平で触りながら一往復しただけ。たったの数秒だ。
「なにこれ、右腕から背中にかけてだけ、なんか変」
「え…」
(ほっそい指してるくせに…、誰かの肩なんて揉んだことあるのか?)などと思っていた頭が上がる。振り向くと男が細い眉を寄せ、小首を傾げて何やら難しい顔をしている。
「しかも、肩や首や背中の感触と、右腕の感触が違う」
「ああ、それは…」
 右腕は、先日から毎日のように行っている例のひげ剃りだろう。オイルまみれのクナイを滑らせて取り落とさないよう、必要以上に緊張して強く握っているせいで、終わる頃になると疲労感がある。肩と首と背中については、ここ最近持ち帰ってきている事務作業ではないだろうか。にしても、チャクラの流れがわからないらしいのに、触っただけでよく違いがわかるなと感心する。いやむしろ、触ってるだけだからこそなのかもしれないが。
「――うぅぅ…、あぁぁー…ぁいタタタ…っ、ぅあぁ…けどっ、なん、か…っ、ほーーっ、気持ち、いぃィ…!」
 誰かに肩を揉んで貰うなど、一体何年ぶりだろう。本格的な揉みが始まるとすぐ、溜息とも呻き声ともつかないものが勝手に体の奥から溢れてきだした。一八〇の男にしては細い指先は、こういうとき驚くほど的確にツボのみを押してくる。気がつけば五分などとっくに過ぎていて、ヨダレすら垂らしかねない有様だ。
「はあぁぁ…っ、あぁそこそこっ、はいそこですっ。んんん〜〜〜っ、すーーっげぇイイです。はふううぅーー…カカシさん、肩揉みめちゃくちゃ上手いですねぇ…」
「ふふ、そうでしょ」
 彼の下積み期間である下忍中忍時代は極端に短かったはずなのに、こんな巧みな手業を一体どこで覚えたんだろう。もしかして按部…いや暗部か? まぁ写輪眼を持っている彼のことだ。人体の仕組みについては医療忍並に見慣れているのかもしれない。
 いずれにしても、周囲へのこういったサービスを欠かさない人が上忍になれるのだとしたら、その上忍にサービスさせてしまっている俺の出世が一層遠くなっていることは確かだ。くそう。気持ちいいけどくそう!
「ぐっはぁーー効っくうぅ〜〜、うわ、うわわぁぁー、なんすかそのぴりぴりしたの……ふぅぅーでもイタ気持ちイイ、たまらんんん…!」
「あぁこれね、雷切」
「ハァッ?!」
 瞬間、弾かれたように椅子を蹴立てて立ち上がった。
「ゃちょっと! やめて下さいよ!」
 流石暗部仕込み。肩揉みサービスと見せかけての攻撃か?!
「道理でビリビリして痛いとおも、――って…あれ? ん? んん? ――痛く、ない…?」
 ぶんぶんと腕を回し、何度も首と肩を動かす。と、さっきまで肩から背中にかけてを覆うように重く凝り固まっていた、あれは一体なんだったのかと言いたくなるほど、すっきりと軽くなっている。まるで憑きものが取れたみたいだ。あんたは祟りをお祓いする祈とう師か何かか?
「あはっ! なんだこれ、うそみたい?!」
 上半身がこんなに軽くなったのはいつぶりだろう。軽くなってみて初めて、自分はもう随分と長い間、肩凝りに悩まされていたのだとわかる。
「なんかもうすっかり当たり前になっちゃっててぜんぜん気付いてなかったんですけど、俺、慢性の肩凝りだったみたいです」
「そ。ま、術も使いようでしょ」
 上忍曰く、「触って不自然に固まっている部分にごくごく弱い電流を流して、元に戻すようにしてみた」のだそうだが、流石「千の術を持つ男」の異名を欲しいままにしているだけのことはある。こんなことまで神業級とは。
「へええ、すっげえぇ〜」
 余りに軽くなりすぎて、上半身が自分のものじゃないみたいだ。
 そう言うと上忍は心持ち俯いたまま、「見えないと、見えてくるものもあるのかも」と、誰に言うでもない様子で呟いた。


     * * *


 自分がふとした瞬間に「痛みに鈍くなったかもしれない」と感じることはあっても、それを証明することなど誰も出来はしない。
 そこにあるのは自分がどう感じ、どう受け止めるかだけ。
(オビト…)
 仲間の命と引換に貰った光を、自分はまた無駄にしてしまっていた。

 目が見えなくなって以降、肌の感覚がいつもの何倍も鋭敏になり、痛みがダイレクトに心に届く気がしている。全く、何も怖くない、と言ったら嘘になる。
 オレはある日突然見えなくなったが、それは言い換えれば「大量の情報を引き算する」必要に迫られたということだった。そのため、いつもは無数の情報に埋もれて曖昧になっていた痛みを強く感じてしまっているに過ぎないのだが、お陰で思い人にフラれたことも、今頃になって以前の何倍も堪えるようになっている。もちろんそれは、ふった当人がすぐ近くにいるからでもあるのだが。
 火影の用意したこのセーフハウスに来てからというもの、正直だいぶ落ち込んでいた。うみのイルカと名乗る男が本当に本人なのか信じきれていなかったし、眠ると時間がわからなくなることも怖かった。加えて見えない期間が長引くことで夢にまで影響が出はじめていて、眠ること自体を怖れてもいた。
 人はその日得た情報を、眠りながら脳内で整理している。だが目の見えなくなった自分は、その夜夢の中で整理すべき視覚情報が全く入ってこない状態だ。そんな中ベッドでうとうとした際、酷く喉が乾いて川岸で水を飲もうとする夢を見たが、両手ですくって口を付けたものの、目の前の水が全く減っていかず、強い喉の渇きがいつまで経っても癒えない苦しさから目が醒めていた。
 けれどこれまで見たことのない夢にすっかり滅入って洗面所に立ったオレを見て、男は何度も「何か自分に出来ることはないか」と聞いてきた。しかも「ない」と言っているのに勝手に本を読み上げた挙げ句、一人で絶句している。何とも滑稽で馬鹿馬鹿しい出来事には違いない。違いないが、そこでようやく自分の中に、(この男はうみのイルカだ)という確信にも似た思いがわき上がってきたのも確かだった。もしもこんなに初心な性格まで完璧にコピーできる忍がいるのなら、オレの二つ名をくれてやってもいい。
 男は部屋を出て行く前、「なぜあの時、男の自分に声を掛けたのか?」と尋ねてきた。彼に付き合おうと切り出した時、こちらの本意は何も伝わっていなかったことに後悔と隔たりを感じずにはいられなかったが、もう過ぎたことだ。半年間、自分は何をやっていたのかと思いながら、暗闇で悲しい愚問に率直に答えた。
 ただそのお陰で、少しだけ心境に変化があったのも事実だ。
(――信じて、みようか)
 イルカが去った部屋で、一人思った。
 あのお節介でちょっとおっちょこちょいな男のことを、この真っ暗な世界でもう一度、本気で信じてみようか。
 例え忍として役に立たなくなっても、どれほど夢見が悪くても、決して揺るがず折れない現実もある。


 自分の気持ちが切り変わると、周囲の出来事もそれにつられて動き出したりするものなのだろうか。翌朝、イルカが思わぬことを言い出していた。
「サンマを買って来たら、食べるか」という。
 食欲はなかったが、食べると答えた。気紛れに下らない条件を付けてみたが、てっきり突き放されるものとばかり思っていたことを丸ごと受け入れて貰うと、その「下らないこと」は一転、「かけがえのないもの」になっていく。
 自分が信じている者がそこに居てくれさえすれば、そこが自分の居場所であり、世界の全てだ。
 久し振りに食べるものを食べたせいか、それまで億劫に感じていたことも俄然やる気になってくる。
 一日一回、イルカが出掛けていなくなると、室内をくまなく「見て」回った。それまでごく当たり前に身についていた忍足をやめ、普通に足音を響かせた。その足音が跳ね返ってくる音の僅かな違いから、物の形や距離、材質までを知ることに努めた。
 イルカに対しては、思い切って「髭を剃って欲しい」と希望も出してみた。それまで彼に対しては、こちらが一歩踏み込んだなら、そのぶん一歩後ろに下がられてしまう気がして何も出来なかったが、今思えばそれが別れ話に繋がっていった気もする。別れて久しいとはいえ、いまだにおなじ事をやっていると思われたくもない。
 おそるおそる頬に触れてきたイルカの手は、大きく温かかった。彼が「もし自分が偽者で、あなたを殺したら?」と尋ねてきたが、それならそれで一向に構わなかった。本来ならどこかの森の奥でたった一人、ひっそりと最期を迎える身だったのだ。それが一度ならずとも心を寄せた者の手で逝けるというのなら、身寄りのなくなったいち忍としては上出来だろう。
 首元にクナイの刃が静かに下りていくのを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

 イルカの体力が、二四時間の警護と事務作業で少しずつ、けれど確実に削られていっていることは、当初から気がついていた。彼が横になるための部屋もあり、一日一回は出入りもしているが、影分身を出しているらしく、夜中であろうが明け方であろうが、いつ目が醒めても家のどこかではイルカが動いている気配がしている。ということは、完全には休めていないということだ。
 正直なところ、彼がたった一人でここまで頑張るとは思っていなかった。それは五代目も同じ思いではないだろうか。イルカが外出時に仕掛けていくトラップは、もっとずっと甘いものになるだろうと考えていたし、夜間も分身など出さずにトラップと結界のみで寝てしまうものと思っていた。だがフタを開けてみれば、イルカはたった一人でオレや五代目の予想を遥かに上回る固いガードを敷いて、文字通り水も漏らさぬ二四時間警護を続けている。更に持ち帰りの事務作業と家事では、疲弊しないほうがおかしい。
 ある日そんな姿を見かねて、ちょっとした体のケアをしていた。体の凝りを取るなどいとも簡単だ。潜入任務で大名や名士に近づく際、この技術が役に立つことがあるが、イルカに施したところ余りに無防備な声に、こちらが動揺してしまっていた。
(っ、イルカ…)
 オレの前で、そんなにリラックスしきった声を出さないで欲しかった。アンタはオレをふった男のはずで、今更そんな吐息混じりの色っぽい声を出すなど、どういうつもりなのかと問いただしたくなる。てっきり夜間の警護と同様、静かに辛抱強く、或いはもっとしゃんとして受けてくれるものとばかり思っていたのに。
 オレに折にふれ自立を促す、あのきっぱりとした姿勢のイルカと、目の前に座っている男が同一人物とはとても思えなかった。どこかで入れ替わったと言われたなら、信じてしまったかもしれない。
(イルカ…ごめん)
 自分のせいでこんな辛い目に遭っている事は重々わかっているが、これ以上そんな無防備な声を間近で聞かされることには堪えられそうにない。今後どれほど疲れているのを間近に感じたとしても、次のケアは無理だ。見えないだけに、おかしなことばかり考えてしまう。いま彼はどんな表情をしているのだろう。目は? 眉は? 口元は? 頬や耳の色は? そしてもっとずっと下の、あの部分は…?
 その時ほど見えるようになりたいと強く思った事もなかった。忍失格? 今更だ。
 ただ、あられもない声を幾ら遠ざけてみたところで、彼の側に居たいという厄介な思いは消えていかない。それどころか、かえってその欲求だけは日増しに強くなっていき、オレの世界の殆どを占めるようになってしまっている。
 別れてしまってもなお、彼と共に居るにはどうすればいいのか。わからない。解決策は何も見えてこない。
 もしもその願いがこの視力と引き替えにできるのなら、喜んでそうしよう。けれどそう遠くないうちに別れざるを得ない関係であることは、彼の余力を見れば明らかだ。
(イルカ…)
 見えていないことで、見えてくるものがある。
 そしてそれが、必ずしも自分の望むものであるとは限らない。




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