「普段は口布してることも多いですし、暫く伸ばしてみるってのはどうです?」といってみる。が、「そういう気分じゃない」のだという。
(はぁ、気分ですか…)
 相変わらずよくわからない希望を出してくる男だが、同時に怖ろしくきっぱりとしてもいる。
「剃刀なんて、そんな切れないもの要らないでしょ。使ったことないからかえって危ないし」
「やだって…」
「あんたも、長期で出ている時はクナイ使ってるんじゃないの?」
「っ、まぁ…そうですけど…」
 里外に出た時もだが、俺もここぞという「気合い入れ」の時はクナイを使って剃ったりする。普段からよく手入れをしてあるクナイは、市販の剃刀など比較にならないほどよく剃れるのだ。戦忍に愛用者が多いと聞くが、彼らは普段から使い慣れているということもあるんだろう。俺のまわりでは、剃刀などの市販品利用者がほとんどだ。ちなみにくノ一からのウケは良くない。
「いつも鏡見て剃ってるから、見えないと出来ないよ」
「ん…まぁ確かに…」
 女性も髪を結う際は見ないでも出来るのに、化粧をする時は、鏡を見ながらでないと目や眉や唇の輪郭を上手くなぞれないと聞いたことがある。言葉は良くないが、自分自身の顔とは、もっとも明るいところにある暗がりなのかもしれない。
 話が逸れた。とにかく上忍が、俺に床屋の真似事をしろという。
「無理ですよ。俺誰かの髭なんて剃ったことないし。危なすぎます」
「大丈夫。自分のはやってるんだから、人のも出来るでしょ」
「自分と人とは違います。怪我しちまってからじゃ遅いんですよ」
「平気、そんなのすぐ治るし。無駄に大人になったから、ぜんぜん痛くないし」
(またその話できましたか〜)
 そのネタで、どこまで俺に譲歩を迫るつもりなんだか…と思った所でハッとしていた。
(――ぁそうか…これでもし何があったとしても、痛い思いをするのは彼だけ、なんだよな…)
 それでもやりたいのだと譲らない。彼にはそれだけの気持ちと覚悟があるということらしい。
(まぁ…それであなたの気が済むんなら?)
 何を言われても、一旦は相手の言葉を受け入れると決めたのだ。
「…わかりました。やってみましょう」
「ん、ありがとう」
「助かるよ、ありがとう」と重ねて言われ、彼が里一番の上忍として各方面から信頼を得続けている理由が、何となくだが分かった気がした。


「熱くないですか」
「ん、気持ちいい」
 椅子の背もたれに体を預けた上忍の顔に、蒸しタオルを置いているところだ。素顔は見慣れたが、久し振りに鼻から下が隠れている姿を見ていた。美人も三日も見れていれば、こっちの姿の方が新鮮に映る。
 半ば観念して洗面所を隅々までチェックしてみたところ、シェービングクリームの類は引き出しにひと通り揃えられていた。ご丁寧に、プレやアフターシェーブのローションまで揃っている。使った形跡のない市販の剃刀も見つかったが、今更クナイから変える気も起こらず、ふと、(俺も骨の髄まで忍だったか)などと思う。
「カカシさん」
 数ある備品の中から上忍の希望したシェービング用のオイルを塗り、愛用のクナイを握ったところで一旦手を止めた。そしてさっきからずっと気になっていたことを質問することにする。
「ん?」
「今更ですけど…、もしも…もしも俺が、本物のうみのイルカじゃなかったら、どうするつもりなんですか?」
 彼を不安にさせるつもりは毛頭ないが、目が見えないなかで他人に髭を剃らせるなど、五代目達が聞いたら何と言うだろう。これでは剃ると見せかけてクナイで脅し、重要な情報を引き出すことはもちろん、喉元を掻き切り、目を奪うことすらいとも簡単なシチュエーションだ。下忍どころか、アカデミー生でも出来てしまうに違いない。里を代表する上忍として、この行為は余りにも軽率ではないだろうか。
「ん、いいんだ。それでも」
「ぇ」
 クナイを持った手が思わず止まった。すっと見開かれた男の色違いの瞳を、まじまじと見つめる。
「それで、本望だよ」
 彼の瞳は見下ろした俺とは微妙に視線が合っておらず、どこか遠く高い所を見ているようでもある。
(なっ…)
「なに、わけのわかんないこと言ってんですか」という言葉が、つい唇から転がり出る。幾ら彼の言葉を全面的に受け入れることにしたからって、そんな台詞を手放しで肯定できるわけがない。俺は仏様じゃないのだ。
「だから、心置きなくやってね」
 その勇気は、一体どこからくるのか。
「…意味、わかんないですよ…」
 もはや溜息を吐くくらいしか返せるものがない。
(ほんとに、もう…)
 あんたって人は。


     * * *


「ふふ、すべすべになった」
 「すごくすっきりした」と言いながら、ご満悦の表情で盛んに頬を撫で回している男を横目に、テーブルに積まれたタオルやクナイを片づける。やれやれだ。やっと何とか上忍のひげ剃りミッションを完遂していた。
「オイルって初めて使いましたけど、よく滑るし肌にもいいみたいですね」
「そうでしょ、代用品なら割とどこでも手に入るしね」
 但し、桁違いによく滑るだけに、フォームやローションなどより何倍も気を使っていた。警護担当者が自らの手で守るべき人物を傷付けたなど、笑い話にもならない。
 最初に白い頬に刃を当てた時は、内心かなりの緊張だった。長年使い込んで見慣れているはずの鋼の刃が、自分で剃る時とは比べ物にならないほどぶしつけで危険なものに感じられ、彼に気付かれないようそっと息を呑む。手指に神経を集中してゆっくりと刃を動かすと、元々細く柔らかめの髭は面白いように消えてゆき、下から滑らかな白い肌が現れた。よし、この調子だ。
「カカシさん」
「なに」
「あっ、喋らないで下さい」
 慌ててオイルまみれの両手を差し上げる。
「じゃあ声かけないでよ」
「そうじゃなくっ。そのニヤニヤ、何とかならないんですか」
 普通他人に、しかも顔にクナイの刃が当てられたなら、引きつって青ざめこそすれ、笑うことなど出来ないはずだ。なのにさっきからずっと、ニヤニヤ、ニヤニヤ…
「だってー、くすぐったい」
「だってじゃないですよ。子供じゃあるまいし、触らなきゃ剃れないじゃないですか」
「でもイルカ的にはまだ子供なんでしょ、オレって」
「っ、そうきましたか…」
 そのネタ、ついに三回目だ。この短時間によくもマメに使ってきたと褒めてやりたいところだが、俺の不用意な発言に暗に抗議しているのだとしても、いい加減もう何の味もしなくなっている。さっさと紙に包んでゴミ箱に捨ててくれないだろうか。
 作業を続けるべく、親指と人差し指で顎をくいと持ち上げた。と、上忍は軽く目を閉じたまま、大人しくされるがままになっている。目元から鼻筋、そして首にかけてのフェイスラインが、男の俺が見てもはっとするほどの絶妙なバランスでもってそこにある。
「………」
 そのどこか現実味が感じられないほどの光景を見下ろしながら、ふと(あの時、あのまま付き合い続けていたなら、いつかこんな色めいた場面に出くわしたりしたのだろうか?)などと思う。
 その俺は護衛ではなく、そこは隠れ家でもない。明るい光の下でお互いの姿を見つめながら、すぐ近くでこんな風に触れあうような未来が、俺達二人にあった?
(――やめよ)
 直後頭の中で、もう一つの頭をぶんと振る。下らないことを考えていたら、大事に至りかねない。
(カカシさん…)
 子供なのはあなたじゃない。この俺だ。
 「付き合う」という言葉の意味さえよく分かっていなかった子供の俺に、そんな未来があるはずもない。
 「自分はその未来とはとうに袂(たもと)を分けているのだ」と結論づけて一つ深呼吸をすると、顎から首にかけて慎重にクナイを動かしはじめた。


     * * *


「カカシさんただいま。…あ、洗濯物畳んでおいて下さったんですか。え、あれ? もしかして…掃除も?」
「うん」
 上忍はたけカカシの護衛についてから、瞬く間に二週間が過ぎている。彼が見えない世界で立ち止まっていたのは、僅かに二日ほどだった。いや、実際には俺が外出している時でも、毎日彼なりに「世界を知る」努力を密かに重ね続けていたのだろう。その進歩はめざましく、日に日に驚かされることが増えていく。
 ただもう一方では、少々気掛かりなこともあるにはある。相変わらず警護をする者が俺一人しかいない状況が続いていることだ。なのに在宅で出来る期限付きの事務仕事を渡されるため、毎日のように家を空けて提出に行かなくてはいけない。彼の解術に向けた調査解析もいまだ遅々として進んでおらず、ならばもう一人くらいは交替の者がいたほうがいいのではと火影に相談したりもしたが、結局は「信じられる手隙の者がいない」とのことで却下になっていた。
 それでも俺の不在時に、彼がこうして自立に向けた試行錯誤をしているというのなら、必ずしも悪いことばかりでもないのだろう。いや、むしろ必要な時間だ。このままいけば遠からず彼は自立を果たし、俺は必要なくなる日がくる。
 さっきも出掛けにトラップはしっかり確認したものの、あろうことかドアの鍵を掛け忘れていた。前回はわざとだったが、今回はすっかり失念していた格好だ。警護者失格もいいところなのだが、帰ってきてみるとちゃんと鍵がかかっていた。出掛けに鍵のかかる気配がしなかったため、カカシさんが掛けてくれたのだという。俺のボンヤリが、彼の自立心向上に一役買っている一面もあるらしい。
 恥かきついでに言うならば、この家の大抵の物のありかは、すでにカカシさんのほうがよく知っていたりする。俺は大まかな場所は覚えていても、細かなことまではからきしだ。
「流しの一番上の引き出しの右手前の仕切りには、どんなカトラリーがどの順で並んでいるか」とか、「居間の左から二つ目の引き違い扉の中にある飲み物や保存食は、いま何が幾つ残っているか」なんてことは、とてもじゃないが正確には覚えていない。確認したい場合は現物を見に行くことになるのだが、彼からすれば「常に見ているのになぜわからない?」ということになる。
 カカシさん自身も、見えている時にはそこまでは覚えていなかったらしいが、今ははっきりと記憶するようになっているという。多分、必要がそうさせているんだろう。
 最近では俺がカカシさんに、「あれって、どこでしたっけ?」などと聞いてしまうくらいだ。更にうっかりしていて戻す場所を変えてしまい、カカシさんに「ちゃんと元の場所に戻しておいて」と指摘されてしまう有様だ。
「見る」と「見える」は違うということなんだろう。
 しかも彼の記憶と観察力は、それだけにとどまらない。
「ねぇ」
「ぁ、はい」
「どこか、具合悪いの?」
「へっ?」
 昨日は夕食の後で突然そんなことを聞かれ、面食らっていた。
「呼吸のテンポがいつもと違うし、歩き方もバランスが悪い」
「ぇ…」
(やぁ、参ったなぁ〜)
 心当たりならあった。主な原因は、やはり二四時間一人で行っている見張り任務だ。俺一人しかいないため、影分身と本体とが交替で夜警に当たっているが、兵糧丸を服用していないと影分身の維持が怪しくなってきている。
 それでも「いえ別に、なんともないですよ?」と返すと、椅子に座れという。
「? なんでです?」
 これから持ち帰ってきた事務作業をしたいのだが。ここのところ五代目は定期報告に行くと、「まぁなんだ。警護の方は言うほど危険でもないみたいだからな。暇な時にでも頼むよ」などと言っては、以前の倍の作業量を渡してくるようになっているのだが。
「いいから」
 だが、そんな事情をカカシさんが知る由もない。自分の隣の椅子を引くと、「上忍命令」などと何やら物騒なことまで言い出して、不承不承従う。




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