(本、持ってきちまった…)
 リビングに戻って来るや、手の中にあったものに気がついて、ようやく我に返った。
(なにやってんだかな…)
 まったく何しに行ったんだかわからない。少しでも彼の困り事を減らして、リラックスして寝て貰うつもりが、かえって状況を悪化させただけな気がしてならない。
(ごめんとか、言う必要ないのに…)
 謝らなくてはいけないのは俺の方だ。
 交流のあった半年間は、ただ会って他愛もない話をするだけだった。彼が疲れている様子なら殆ど話をしないこともあり、正直どうしたらいいかわからず、早々に理由を付けて帰ってきてしまった時もあった。かといって、体の関係なんてもっと考えられない。実際考えたこともなかったが、結局彼の意図が掴みきれなくて、別れようと言ってしまった。
 そういう意味では俺はまだ子供で。付き合うという意味を、男女間のそれでしか理解出来ていなかった。
「―――…」
 リビングに突っ立ったまま、再び手元の本をパラパラとめくってみる。と、すぐにまた情事のシーンと思われる単語が次々目に飛び込んできて、どうにも読み進められずに閉じてしまっていた。まったく、俺という男は何がしたいんだか。
(…こういうのも、読んでたんだな…)
 ただ性的な興奮や欲求を満たすためだけの読み物。もちろん読んでいても何ら不思議ではないのに、頭ではわかっていたはずなのに、なぜか今になって突然気付いたような感覚がある。
 彼と「付き合う」ということを、俺はなんだと思っていたのだろう。
(何も見えてなかった…いや見ようとしてなかったのは、俺のほう、か…)
 彼と会う前には決まって、(とにかく彼は凄い人なんだ、失礼のない範囲で、出来ることならこの機会に何か一つでも学ばなくては)と、頭の隅ではそんな気構えもあった。今思えば、尊敬や遠慮からどこか身構え、一歩引いてしまっていた空気を敏感に察知して、彼はこちらに踏み込んでこなかったのではないだろうか。なのに俺は、(いつまで経っても意図がよくわからない)(女性避けだから当然だけど)などと思ってしまっていた。勝手なものだ。
 彼の行動は、常に俺の全てを映していたというのに。

(あぁ、そういえば…)
 さっきの夕食も、半分近く残していた。昼間よりは上手く食べていたと思ったが、肝心の食欲が湧かないのかもしれない。
 ふと胸の奥を過ぎる、寂しいとも虚しいともつかぬ感覚。
(腹、減ってないといいんだけどな…)
 カーテンの隙間から外に異常がないかを目視で伺いながらも、内側では様々な思いが行き交う。
 真っ暗な世界を一人で何日間も彷徨うというのは、どんな気持ちだろう。
 束の間でもいい。今はただ彼が安らかに眠れることを祈った。


     * * *


「カカシさん」
 出掛けに振り返って名前を呼ぶと、窓辺に立っていた男がこちらに首を傾げた。冬の陽光を直接肌に浴びるのが気に入ったのだろうか。カーテンの隙間はごく僅かなのに、昨日より遥かに早く光のありかを探し当てていて驚いていた。昨日、俺が留守の間に何をしていたのかはわからないが、僅か一日で随分と室内の様子を把握したらしい。
「なに」
 シャワーを浴びたばかりの頭髪が、ちらちらと光を跳ね返している。まるで彼の好物みたいだ。
「今日サンマ買って来たら、食いますか?」
 これからアカデミーに出向いて、夕べ仕上げた書類を提出してくるのだが、必要なら帰りに買い物もしてくるつもりだ。
 結局今朝は起きてこず、ようやくさっき遅い昼食を済ませたばかりだが、やはり途中で食べるのをやめてしまっていた。まぁ幾ら好物でも、この状況では本来の美味しさが感じられないというのは何となくわかるのだが…。
(わかるが、何とかして食って貰わないとな)
 起きてきてもまだどこか眠り足りないような様子に、忍犬を呼んで貰うことも躊躇われていた。口寄せもそれなりにチャクラを使う。
 かといって、厳重なトラップを敷いているこの隠れ家に、料亭の板さん達を呼んでくるわけにもいかないのだ。ならば選択肢は自ずと絞られてくる。
「焼いたら、身は俺がほぐしますから。そしたら食べやすくなると思いますよ」
(頼む、食べると言ってくれ)
 まぁ例えここで拒否しても、そのうち知らん顔して出すけどな、と思った時だった。
「……あーんしてって、言ってくれるなら」
「――ハッ?」
 いま、なんていった?
 振り返った形で停止したまま、僅か一秒前の記憶を辿る。確か……いやでも…??
「イルカが、『はい、あーんして』って言って、食べさせてくれるなら」
(きっ…、聞き違いじゃ、ない…)
 ビンゴブックにも不敵な目付きで載っている、あの写輪眼の、上忍はたけカカシが?!
(あーんて…?! いやあーんて?! あのっ、突然どうしちまったんですかカカシさん?!)
『あーーん』という言葉が頭の中をぐるぐる駆け回って、冷静な思考を激しく邪魔している。
 昨夜、三行だけ読んで聞かせたエロ小説のせいでもあるまいし、一体何がどうなってそうなったのか、皆目分からない。いよいよ疲れて頭がおかしくなっているのか、まだとてつもなく眠いのか、それとも今にも死にそうなくらい腹が減っているのか。
 当の本人は一片の照れも迷いも見せることなくじっとこちらの返事を待っている。
「やっ…」
 確かに食事という行為は、間取りや家具などと違い、毎回食器の置き場所や内容が様々に変わる、見えない者にとっては難しい作業の一つだ。だから自立から遠のくことも承知の上で食事の介助まではやったとしても、180ガタイの男同士で「あーん」はどうなんだ?!
(ううぅーーん…)
 昨日、痛みの感じ方の話になった時、一方的に彼の発言を否定するような格好になってしまっていた。けれど次第に冷静に考えられるようになってくるにつれ、(彼が何を言ったとしても、まず一旦は全て受け入れるべきだった)と反省していた。だって自分の嘘偽りない素直な気持ちを頭から否定し、いつまでも受け止めようとしない者を、誰が信用して頼りたいなどと思うだろう? 俺ならしない。
 だが、手放しで相手の全てを受け入れる、ということはすなわちこれも…
「――…ィっ、いいですよぉぉ〜〜〜??」
「ん」
 その瞬間、ごく僅かだが彼が初めて小さく口端を持ち上げ、目尻を下げたように見えた。あくまで欲目の範疇だが。
(OK…しちまった…)
 それにしても、二十歳も半ばを過ぎたこのむっさい男が、どの面さげて「あーんv」だよ?!
(って、どんな面をさげてても見えないんだったな…)
 そうだった。加えてこの隠れ家の住人は二人だけ。他に誰が見ているというわけでもない。
(要は俺の考え方ひとつ、か…)
 念には念を入れ、三重にトラップを仕掛けて隠れ家を後にしながら思った。


     * * *


(――っ、焼けた、か?)
 グリルを不自然なくらい繰り返し覗き込みながら、脂の滴る様子を固唾を呑んで見守る。今頃ご近所一帯には「今夜は秋刀魚でございます!」と知れ渡っている頃で、最早隠れ家もなにもあったものではないが構いはしない。この家に、目の見えないはたけカカシが居るということさえ知られなければ問題ないのだ。
 今まで寝室に呼びに行かないと出てこなかった上忍が、早々に居間のテーブルでスタンバッている。なにがそんなに心躍ることなのか知らないが、少しでも元気になってくれているならこれもまぁ良しとする。
「いい匂いがする」
 テーブルに食器を並べ、いつものように内容と位置関係を説明すると、上忍はいままでにない表情で言った。気持ちテーブルに向かって乗り出すような仕草は、まるで俺に催促をしているようだ。おっ、落ち着け、俺。
(ひっ、ヒヨコの親と思えばいいんだ!)
 秋刀魚を買った道中でつらつらと考えていたことを、もう一度繰り返す。
「…えぇっと、あの…っ、本当に、ご自分で食べなくて…いいんですか?」
 この期に及んでもう一度意思確認。我ながら往生際が悪いとは思うが、やらずにはいられない。
「うん、お願い」
 確定したその瞬間、わざわざ自ら当たりに行ってしまった気がするがもう遅い。
(お願いときたよ…)
 なぜか脳内でもう一人の俺が口元を押さえ、ニヤニヤ笑いを堪えている姿がチラ見える。あぁもう失敬な俺よ去れ! シッ!
(――ん…まぁでも、お願いされちゃあ仕方ない、か)
 腹を決め、箸を取った。



「――どっ…、どう、ですか?」
「んっ、美味しい」
 約束通り、ほぐした秋刀魚を「はっ…はい、――あー…ん?」と言ってから口へと運んでいた。もしもこれで恥ずかしがって口を開けるのを渋ったりしたら夕食没収だな、などと思っていたが、どこの池の鯉だというくらい大きな口を開いていて、もはやそこに食べ物を運んでいくしか俺に選択肢はなかった。
「ぷっ、カカシさん、子供みたい」
「なに、イルカが言ったんじゃない。『子供の頃のことを忘れてるわけじゃない』って」
「うわ、その話いまここに持ってきますか?! ってはいはい、ちょっと待って下さいよ。腹のところの小骨、きれいに取るの大変なんですから」
 結局「あーん」は秋刀魚だけのはずが、白飯やお浸しや味噌汁に至るまで、パカパカと口を開けられるまませっせと運んでしまっていた。しまいには「お茶くらい自分で飲んで下さい!」と、イエローカードを出したくらいだ。
「ふふ、おいしい」
 こんなに上機嫌の上忍を初めて見ていた。以前付き合っていた時でも、ここまで自らをさらけ出してリラックスした姿は見たことがなかった。ふと、(自分はカカシさんの自立を最優先に考えすぎていたのかもしれないな)と思う。一刻も早く見えない状況に慣れて欲しいと思う余り、結果として彼を一人で暗闇に立たせてしまっていた。
 彼が何より必要としていたのは、自分と同じ地平に立って一緒に物事を考え、行動してくれる人の存在だったのに。
 そしてこうなってみると、やはり以前の彼は俺に対して、一歩も二歩も引いた形で接していたんだな、とわかる。
 ただ、なぜ今になってその見えないラインを大幅に変えてきたのかはわからないが…。
 彼の立場になって改めて考えてみても、疑問は尽きない。目が見えない状態で引き合わされた男に食事を食べさせて貰うという行為は、忍の本能からすれば警戒警報が大音量で鳴り響くレベルの危険行為なのだ。
(それを、こんなに旨そうに…)
 さっきまで、譲歩したのは自分のほうだとばかり思っていた。けれどその遥か以前から、彼は繰り返し大幅に譲り続けてくれていたのだ。
 その多くは、どこの誰ともはっきりしないまま同胞を名乗る、不行き届きな中忍のために。
「まだ、いけますか?」
「うん」
(嬉しそうな顔しちゃって…)
 この様子なら、まだまだ食べられそうだ。自分のほうの皿の秋刀魚を、急ぎほぐしにかかった。


     * * *


「ねぇ」
「ぁ、はい?」
「髭、剃って欲しいんだけど?」
「えっ」
(ヒゲぇーー?)

 昨日とは打って変わり、柱時計の時報と共に自ら起きてきた男が、朝食後に何を言いだしたのかと思いきやそんなことで。
 夕べはあのあと、それまでの食欲不振は何だったのかという勢いでほぼ二人分の秋刀魚を平らげ、満足そうな様子で床に就いていた。
 今朝もその勢いのまま、当然のような顔をして「あーん」を要求されたが、その辺は予め予測済みだ。「あれは夕べの秋刀魚に付いていた限定サービスです!」ときっぱり断っていた。
「案外ケチだね。減るもんじゃなし」
「なっ…?!」
 絶句する俺の前で、彼はスプーンとフォークを俺より器用に使って卵料理を食べだしていて、更に目を見張る。上忍は見えない世界を、前に向かって着実に進み出している。
 その一環として、今日もまた新たな一歩を踏み出したらしいのはいいのだが。
「髭なんて、もしも俺に気を使って下さってるのなら、気にしなくていいんですよ」
 確かにさほど目立たないながらも髭が伸びてきているのは知っていた。一週間以上もあたっていないのだから当然といえば当然だが、剃刀など使うことなどないだろうと、なんの用意もしていない。しかも俺が剃るなど、勘弁して欲しい。




        TOP   裏書庫   <<  >>