「あのっ…カカシ先生は、なんで俺に命令しないんですか?」
 上忍が自分のものを自らの手で拭き終わるのを、どこか居たたまれないような気分で待ち続けたイルカは、彼がタオルを手放したのを見るや、思い切って切り出した。
「?」
「そっ、そのっ……もっと、ああしろ…こうしろ、とかって…」
「命令して、欲しいの?」
「いやっ?! …ただその……すみません、そういう意味じゃ…。でも…っ」
「でも?」
「いえ、そのっ…自分はいつまで経っても…何というか、上手く、できない…から」
「オレに悪いとか、思ってるの?」
「…………」
「命令なら、しないよ。きっと……そうね、…死ぬまで」
 上忍のどこか意味深な言い方に、くっと眉が寄る。
「だって、イルカ先生から進んでしてくれることじゃなきゃ、意味ないでしょ?」
「…ぇ」
「じゃあ聞くけど。これは任務? 違うでしょ? 少なくともオレは違うと思ってるけど。イルカ先生は、違うの?」
(ぁ…)
「あなた自身がしたくて、望んでしてくれてるんだって思えないとね、『あぁこれも渋々なのかな』なんて思っちゃうと、気持ち良くなれないから。――多分…お互いに、ね」
「ぁ…、はっ、はい!」



(――それにねぇ…)
 中忍の、まだ少し赤みが残っているものの、境目のくっきりとした澄んだ目元を見ながら、上忍は心の中で付け足すように呟く。
(命令し続けるってことは、いつかその先に拒否も生まれるってことでしょ?)
 それは裏を返せば『命じない限り、拒否もされない』ということだ。
 以前酔ったイルカに性的なことを仕掛けて全身で拒否されて以来、「この人に拒まれることくらい堪えることもない」とはっきり自覚している。階級差など、何の安心材料にもなっていない。自分はいつからこんな幼子みたいな恐がりになったのか。「笑ってしまうのに笑えない」そんな状況が続いている。
(ずるいってことは、分かってるつもり、なんだけどね)
 物事を色の付いた眼鏡で斜めから見ることをしないこの素直で真面目な中忍は、ひょっとすると今でも心のどこかで上忍であるオレの下に立っているような、ごく単純な感覚でいるのかもしれない。
 けれどオレにしてみれば、この人の表情であり気持ちであり存在そのものが、もはや世界の全てなのだ。
 こうして向き合って衣服を解き交わし、互いを高め合うような間柄になってもまだ、そういったことが一つの輪として繋がりきってないらしいこの男のことが、だからこそ無性に愛おしい。

 体を捩り、歯を食いしばって、枕に半分顔を埋めるようにして押し寄せてくるものに必死で耐えているイルカの姿は、こんなことを言ったらきっと気を悪くするだろうから言わないけれど、とても…そう、微笑ましい。
 例え少しくらい手の動きが拙くても、その苦痛と紙一重のような心底気持ち良さげな表情を見ているだけで、己の半分のぼせ上がった頭の一部分は結構満足していたりする。最近では(ぎこちない方がらしくて気持ちいい)などと思うほどにまで重症化してきてしまっている有様だ。
 命令し、束縛して、自分の思った最短距離をゆくことなどいとも容易い。正直言うと今まで何回、いや何十回となくそうしようとしたかしれない。でももう既に散々迷いながらも幾つもの壁を乗り越えてついてきてくれている真っ直ぐな男との間に、これ以上新たな障害を生みたくなかった。
 立場上どうしても居場所が限られがちになる中忍を、常に自由で少しでも思いのままに動けるようにしておくのはこちらの役目だ。

「少し、眠っていけば?」
 それでも自分の意志とは全く無関係に、本音が顔を覗かせる。
「いえ、昨日やり残したことがあるんで、早めに出ないと」
「…そう。頑張ってね」
「ぁ、はい!」
 かなり矛盾して捻れていると自分でも思うが、オレはこの純朴な中忍に、オレと関わることで変わっていって欲しくないのかもしれない。





 陽が落ちていった方角から強い神立風が吹きだすと、カカシは(シャワーを浴びて出て行ったイルカが、冷えていないといいのだが)と、見送った際の照れ臭そうな横顔を思い出しながら机の上の書物を閉じた。
 例年になく夏が厳しく、このまま永遠に続くかと思われた残暑の日々も、いつの間にか過去のことになっている。この風が吹いてきたということは、いよいよ本格的な秋がやってくるということだ。
(そろそろ、あの日か…)
 窓辺に置かれた写真立てに、片方だけの視線を向けた。セピア色の写真の中で、幼き日の自分の頭に無造作に手を置いて笑っている金髪の男は、恐らく本人は望んでなかったであろう『英雄』などという称号が付けられ、今も広く語り継がれている。
(あぁ、そういえば…)
 十六年前の夏もうだるような暑さ続きで、近年になく残暑が酷かったのだった。
「――カカシ、暑いのは皆同じだなんて、それは間違いだよ。暑さにはことのほか強い敵も大勢いる。しっかりしなさい」
 修行中、そう静かに諭されたのを、まるで昨日のことのようにはっきりと思い出す。
(十六回忌…、もうそんなになるか…)
 あの少年が肩を並べるほどにまで大きくなる訳だと、今だにどんな遠くからでも「先生! 先生〜!」と転がるようにして駆け寄ってくる金髪少年の姿を思い浮かべる。
 思えば自分は既に、当時とてつもなく年上で大人だとばかり思っていた今は亡き師匠の年を遥かに超えており、最初に受け持った三人の弟子達ですら、もう当時の自分の年齢を超えている。

(時が、経ったな)
 ふと、ひとりごちる。
 決して短くない、時が経った。



(…?)
 窓の外に何かの気配を感じ、結局昼間から閉めっぱなしだったカーテンを僅かに開く。
(伝鳥…)
 だが外の木立の横枝に丸みを帯びた小さな生き物の影を見て、思わず眉を顰めた。あれは木葉梟(コノハズク)だ。「仏法僧」と聞こえる独特の鳴き声を発するために通常の任務では使わないが、その手の平に乗りそうな程の小ささと夜目の確かさ、そして顔の真ん中にV字の紋様が走る精悍な面構えのため、主にリタイヤ組などが趣味と実益を兼ねて飼っていることが多い。
(ご意見番、か…)
 足輪の色と数を確認するや、カカシは嫌な予感に暗い気分になった。実は昨年から唐突に始まったこの呼び出しは、ついふた月ほど前にも、そして三週間ほど前にもあり、その度にこの爛々と黄金色に輝く瞳の鳥に呼ばれるがままコハル達の元に赴いているものの、話の内容はいずれも出来ることなら忘れてしまいたいようなものだったからだ。
(――面倒なことに、ならないといいが…)
 手早く身支度を調えると、カカシは表へと急いだ。



「非番のところ、すまんな」
 火影官邸とは別の敷地に建つ、特別室の一角にカカシが出向くと、最近富みに縮んだように見える小柄な老婆コハルが、皺だらけの手を小さく挙げた。隣には三代目と同期で当時は腕を競い合ったらしいホムラもいるが、ここ半年ほどで急速に気骨が失われてきていると感じるのは気のせいではあるまい。これが『老いる』ということなのだろうか。
「いえ」
 短く応えると、続きの催促のためにすぐ黙する。
「非番の日に呼び立てたのは他でもない。お前の縁談の話だ。分かっておろうな」
「…はい」
(やはり、か…)
 道々予想はしていたが、実際にその通りだともはや溜息しか出ない。
「以前お主が警護に出向いたことのある、竹光家の三女小夜姫だ。覚えておろう」
「…はい」
 鷹派の急先鋒としてここ数年で頭角を現してきた、北方の大名の名に、(ついにここまできたか)と内心暗澹たる気分になる。
 今まで何度となく呼び付けられては、その度にこの手の話を断ってきたが、最近ではだんだんと相手の地位や教養が高くなってきており、どこからどう話を付けてきたのか、こうして有力大名の実の娘の名前までが挙がるようになってきたのにはほとほと参っていた。
 彼ら大名は、建前上はまず滅多に表に出すことはないが、本音の部分ではこの忍という生業を忌み嫌っている者が殆どだ。だが国内外でこうも頻繁に衝突が起こり出すと、そうとばかりも言っていられないらしい。
 この国は今、灰色の政情不安にすっぽりと覆われている。周辺国の貧困や宗教対立を縦軸に、そして五大国の利害関係を横軸にして、刻一刻と混迷の様相が深まりつつある。
 以前のように、国境線付近で時折思い出したように小競り合いが散発しているうちは良かった。その程度ならば忍の里は大名との間に「持ちつ持たれつ」の関係を静かに保てるからだ。
 しかし一旦空一杯に灰色の朧雲が立ちこめだすと、各国はこぞって忍の里の拡充に努めだし、互いに牽制し合いながら止まるところを知らぬまま無秩序に膨れ上がりだした。協定という協定はことごとく形骸化してゆき、「機会をみて破り捨てるべき定め」へと翻っていく。
 去年勃発して最終的には沈静化された、十名からなる抜け忍達が目論んだ『野望』などとは、そもそもうねりの規模からして桁が違っていた。最も扱いが厄介で注意すべきは、一握りの兇猛な反逆者などではなく、各国にひしめく幾億の怯弱な民なのだ。
 そんな中、今や為政者の過半数を占めようかという鷹派の大名達が、何とかして隠れ里と太いパイプを持とうと躍起になりだしていることは、自分には良くないことが起こる災禍の前触れのように思えてならない。
「当時お前に護衛をしてもろうた時、いたく気に入ったらしゅうてな。来週辺りおうてやってはくれぬか」
 瞬間、うっかり鼻で嗤いそうになる。彼女の護衛に付いたのはもう四年近くも前のことだが、当時二十歳もだいぶ過ぎていたであろう彼女は、最初に口布で顔を隠したオレのことを遠巻きにして胡散臭そうな目で一瞥しただけで、最後まで口をきこうとはしなかった。一緒に任務に就いていたナルト達下忍に対しても態度は同じ…いやそれ以上にあからさまで、触れるのはもちろん、口をきくことさえ自身の沽券にかかわると考えていることは明白だった。












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