何としてでも今ここで説き伏せておかないと、万一この考えが里に広まりでもしたら、当時九尾によって大切なものを失い、否応なく人生を変えられた何百何千という者達が黙っているはずがない。そしてその先で取り返しの付かない事態を招くのは、火を見るよりも明らかだ。
(落ち着け、術者は自分だけなんだ。他でもないオレが水際で食い止められなくてどうする)
「――ったく、何を言い出すかと思えば…。十六年前の今頃に飛ぶなんて、無茶言わないでくれます? その当時に付けた標がないと飛べないって、今し方も説明したばかりでしょう?」
 内心で(これら全てが二人の老いからくる、ただの世迷い言であって欲しい)と心底願う。でないとこの話を抑え込んでも、後日また事あるごとに良からぬ考えに振り回されかねないからだ。
 しかしまさか、一線を退いてもうかなり経つはずのこの年老いた二人が、未だにそこまで九尾の一件にこだわっていたとは思わなかった。分別のあるきっぱりとした大人らしく、それらは『十六年前の十月十日にあった不幸な出来事』として整理され、とうに決別できているものだとばかり思っていたのに。
(いつの間に過去の日記を紐解いて、書き換えようなどと思い始めていたのか…)
 或いはその日が来ることを夢想しなかった日など、今日までただの一日たりとも無かった、とでも…?

「――当時四代目が標を入れたクナイなら、ちゃんとある」
「ふっ、まぁそれはよく似た偽物でしょうね。一目見れば分かる。オレの目は騙せませんよ」
 いやに自信ありげに言われ、殆ど反射のように否定する。
「大体そんなに標を施した日時がはっきりとしたクナイがそうそう残っている訳がないでしょう。お二人とも年代が不確かな場所に同胞を送ることがどれほど危険か、もう一度よく考えてみて下さい。過去に飛んだ者とは連絡を取る手段がないんですから、行ってしまってから「違っていた」「すみません」では済まされないんですよ?」
 オレの時空間移動術の噂をどこからか耳にして、思いの外周到に用意をしていたらしい二人に苦いものを覚えつつ、尚も可能な限り静かに語りかける。
「その点はまず問題ない。今から十六年前の十月七日の夕方、四代目が里に侵入した数名の賊に向かって瞬身術を発動したことが、当時の報告書に記載されておるからの」
(なにっ…?)
「追われた賊の一人は逃げる際に里の子供を人質を取り、里の外れに今もある寺院に逃げ込んだ」
「…っ?!」
 瞬間湧き起こった古い記憶の甦りに、思わず声が漏れる。
「思い出したようじゃな。そう、当時十四かそこらだったお主も、報せを聞いてその現場に四代目と共に向かったはずじゃ」
「そして伽藍に立てこもった賊達に向かって、四代目が瞬身術を発動すべく、標を付けたクナイを数本放った。――そうじゃな?」
「…っ…あぁ、…そう、いえば…」
 いけない、ここで動揺してはいけないと、頭の中で何度も言い聞かせる。
「だがその際に放たれたクナイの一本が、たまたま伽藍の天井に描かれていた羅刹の心の臓に刺さっておったのだ。住職は火影の鬼退治とは縁起が良いと、賊の排除が済んで中が清められた後もそのクナイだけは残すこととし、そのまま今日まで大切に保存されておる」
(――そう……だった…)
 言われてみれば確かに当時、そんな話を耳にした気がする。だがその数日後に九尾の一件が起こったことで、今こうして言われるまで、すっかり記憶の奥底に埋もれてしまっていた。
「だとしても無理だ。そんなことを調べ上げて無理矢理当時に戻ったところで、あの九尾の出現を止めることなど、誰にも出来はしない。悪戯に過去を歪め、現在を混乱させるだけだ!」
「確かに、なぜあの夜あの場所に九尾が現れたのかは、未だに儂らも何一つ分かっておらん。それは認めよう」
「ただな…、ただ、なぜあの日のあの場所だったのかという理由が少しでも分かれば、後日またもう一度その場に飛んで、出現自体を防ぐことが出来るやもしれんではないか。違うか?」
「ちっ…違うっ! 『一度起こってしまった事実そのものを変えよう』というその考え方自体が間違ってる! 大間違いだ!」
「カカシよ、お前には間違いに見えても、果たして他の里の者達はどう見るじゃろうな? …まぁどうでも九尾が防ぎきれぬというなら仕方ない。行った者が手を打って、九尾襲来の数時間前に里の者達を非難させればよかろう。そう、木ノ葉崩しの時のように、あの顔岩の後ろの地下壕にな」
「ですからっ、そんな風に過去と関わってはいけないんです!」
(…まさか、ここまで考えていたとは…)
 全く譲る気配のない二人と、真正面から暫し睨み合う。
(まずいな…、これ以上連中を勢いづけては、説破が難しくなるぞ…)
 ここはひとまずお開きにして、後日火影が帰ってきてからでも仕切り直すが得策だなと思った時だった。
「でじゃ、肝心の時間を遡る役目を担う者は、もうこちらで適任者を選んでおる。いや話してみるもんじゃの、すぐに二つ返事で引き受けてくれたわ。――入って良いぞ、イルカよ」
「――!!」
 全身の血が音を立てて逆流した。
(しまった! まんまとハメられた!)
 長老達の背後にあったドアが静かに開き、現れたその黒髪の男を、まるで悪い夢でも見ているかのような思いで見る。が、上手く視線が合わせられない。扉の向こうで気殺している者が数名居ることは分かってはいたが、てっきりいつもの警護の者だとばかり思っていた。
「……なっ…」
 腹の奥底から沸々とこみ上げてくるものが大きすぎて、喉の辺りで詰まって言葉にならない。ご意見番の二人がイルカの微妙な立場を利用して、イエスと言わせたのは間違いない。いやそれ以前に、幾ら自分の両親を救えるかもしれないと思っても、アカの他人から見たこともない未完成の術を敢えて受けようなどという者がまずいないはずだ。
 でも他でもない、この男なら。
(…なんてっ、ことを…!)
 突然平らだったはずの足元が大きく揺らぎだし、胸の中に灰色の霧が急速に広がっていくのが分かる。
「イルカ先生っ、ご意見番達に何をどう吹き込まれたか知らないが、今すぐ、即刻辞退して下さい! こんな馬鹿げた話にいちいち耳を貸してたら、取り返しの付かないことになります。今その扉の向こうで全てを聞いていたあなたなら…分かるでしょう?」
 きっとこの思いはイルカも同じに違いない。オレが信じる道を、この人はいつも必ずついてきてくれている。
「――…カカシ…先生、……俺は…っ…」
「駄目だ!! 喋るな! 何も言わなくていい!!」
 直後、思わず叫んでいた。
 その声を、口元を、頬を、そしてどんな時もくっきりとしている双眸を見れば、男が何を思っているかなど一目で分かる。
「後で…ゆっくり、話し合いましょう…」
 強い語気に圧されてぐっと言葉を呑み込んだイルカに、可能な限り静かに語りかけると、男は眉間に深い縦皺を寄せたまま深く頭を垂れた。
「そんな悠長なことをやっておる暇はないぞ。お前達とて今の政情がどうなっておるか、知らぬ訳ではあるまい。それにカカシ、お前の話では、遡りの精度も、明日が最も高くなるようじゃしの。飛ばされる側のイルカの負担を考えれば、今決めてやらんでいつにするというんじゃ」
「黙れ! 二人とももう一度よく考えろ! こうやって火影抜きで話している行為が何に当たるか分かってるのか? 既に里に対する謀反だぞ? 明白な裏切り行為であり重罪だ! 大体あれほどの大きな出来事を動かしたら、アンタらだって無事でいられないかもしれないんだぞ。まだ本当の意味ではその恐ろしさを分かってないだろう?!」
「わしゃこの身がどうなろうが一向に構わんよ、こんな余命幾ばくもない老いぼれがどうなったところで、最早大差はなかろう。それに起こる謀反の全てが悪とは限らん。いずれ時が経てば、皆この謀反が起こったことを歓迎してくれるじゃろ」
「ホムラ様ッ!!」
 先程のコハルを遥かに凌ぐ、鋭い気を向ける。
 何とかして言葉で説得をなどと思っていたが、全ては無駄な努力なのだろうか?
 力でもって抑え込まないと、何も解決しないのか?
「このままただじっとして手をこまねいておるだけでは、何ひとつ変わってゆかん。それより四代目が今も健在で、大蛇丸が皆に抑え込まれたまま、木ノ葉崩しも起こらず、三代目と共に里がかつてなく盤石なものとなって繁栄する、その道に前向きに賭けてみようとは思わんかえ?」
「違う違うっ! そんなものは何の保証もない、単なる一個人の儚い希望であり、勝手な夢想だ! 己に惑わされるな!」
 いつの間にか左の拳を固く握りしめたまま、右の手を振り回している。
「そうじゃろうか? 九尾の被害にさえ遭わなければ、お前が尊敬してやまない師匠は間違いなく健在なのだぞ? 可愛い弟子のナルトも苛められることなく親元で幸せに育ち、サスケとて大蛇丸の元へは向かわずに済んだと思うがの?」
「くそっ! やめろ、言うな! 聞きたくない!」
 思わず両の耳を塞ぎたくなった。イルカの真っ黒な瞳が押し黙ったままこちらを見つめているのが、ことのほか辛い。彼がなぜ二つ返事で「あの日」に飛ぶと言ったのか痛いほど分かるだけに、この場に居ることすら苦しい。
「カカシ、お前はまだそうやって片意地を張り続ける気か? もっと己に素直になれ。そもそもお前がこの術を長いことかけて苦労の末に編み出したということは、お前とて『いつかそんな日がくればいい』という切なる思いが心のどこかにあったからではないのか?」
「そ…っ…」
「それとも何か? お主は自分の父親は時間を遡って助けることが出来ないのに、他の者達が助かるのが不服なのか?」
「違うッ! そんなんじゃない! 問題をすり替えるな! オレはっ…オレはそんな言葉には惑わされない…ぞ…!」
 唐突に思ってもみなかったことにまで言及され、苛立ちが高じて不覚にも語尾が震えた。
「ふむ…そうじゃなイルカ。お主がこの任務を完遂して戻ってきた暁には、お主の思い人との情交を認めよう」
「――え…?」
(なっ…?!)
 ただひたすら斜め下の床を見つめていたイルカの視線が、急に焦点を失ったようにふらりと脇へと泳いでいく。そしてもう一度床へと戻っていったその口元は、何を思ってか内側で小さく噛み締められている。
(くそっ、どこまで狡猾なんだ! イルカ先生、絶対真に受けるな! 元々咎められるようなことじゃないんだ。話を聞いちゃいけない、無視しろ!)
 老獪も極まったような言葉に、このままイルカを連れて飛び出して行きたい気持ちを辛うじて抑える。
(堪えろ、ここで逃げては駄目だ!)
 今逃げ出したら、逆に何もかもを受け入れて認めたことになりかねない。
「おうそれは良い考えじゃな。イルカなら変化も上手いし、当時の者達の顔も名前もよう覚えておる。木ノ葉崩しの時には子供達や一般人を誘導した実績もあるしの。首尾ようやってくれるじゃろ。のう、イルカよ」
「―――…はい」
「待てっ、無茶だ! いや完全に狂気の沙汰だ! この術の発動には大量のチャクラを必要とする。オレが一度に送れるのは一人が限界だし、チャクラが回復するまでの暫くは増援も送れない。この人一人だけでそんな危険極まりない所に行かせるというのか?! こんなでたらめな話が通ると、本気で思ってるのか?!」
「――当然じゃ」
 その時こちらをじっと見つめた翁の、垂れ下がってきた瞼の下の白濁しかかった瞳の奥に、黒い焔の揺らぎを見た気がしてぞくりとする。
「…カカシよ、この大任が無事終わったら暫く休みをやろう。竹光家の御息女の元で、ゆっくり再会を楽しんでくるといい」
「ふっ…ふざけるのもいい加減にしろ! あんたらそれでも木ノ葉の忍か! 火影の相談役か!」
 何ら大袈裟でなく、胸のむかつきを通り越して吐き気を感じる。
 何という恐ろしい連中だろう。これでは「イルカが九尾の災禍に巻き込まれて戻ってこなければ、大名の婿取り話を邪魔する者も一度に片づいて有り難い」と暗に言っているようなものではないか。自分はこんな指導者の下で「里のため」などと骨身を削ってきたというのか。
「こっ、こんな…こんな恐ろしいことを独断で決定する権利が、アンタらのどこにある! この事実を公表すれば、あんたらは間違いなく失脚して里を追われるんだぞ?!」
「当然、権利があるから言うておるのじゃ」
 先程の激昂は何だったのかと言いたくなるほど落ち着き払ったコハルが、手元にあった厚手の紙切れを一枚、こちらに向かって差し上げて見せる。
「火影からの権限委任状じゃ。あの小娘が戻ってくるまでは、この里の最高責任者は儂等二人じゃよ」

「なっ…」
 黒々と墨書きされ、三名分の署名と大きな朱印の押された書類を、カカシは信じられない面持ちで半ば呆然と見つめた。












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