だがそんなものを突き付けられたからといって、気持ちの何が変わる訳でもない。
「――嫌だ、断る。オレはやらない」
 もう一度、きっぱりとはねつける。
「カカシ、お主も上忍ならば、下らない私欲を捨ててもっと広い視野で里の行く末を考えよ。この里が増大の一途を辿る周辺諸国の脅威と対等に渡り合うには、もはや新たに生まれ変わるしかないんじゃ」
「オレのことなら何とでも悪し様に言えばいい。でもこれだけは言わせて貰う。その考えは、根本から間違っている。過去を変えることによって、里が今より弱体化してしまう可能性を何ひとつ考慮していない。周辺国の戦力増強に怯えたアンタら二人が、この里だけでなく大国一つを丸ごと潰そうとしているのが分からないのか! 生まれ変わるなんていう耳障りのいい言葉で飾って、自分や周囲を誤魔化そうとしても無駄だ!」
 すると、コハルがやれやれといった様子で小さな白髪頭を左右に振る。
「カカシよ、何をそんなにためらうことがある? 口寄せ動物に移動実験をさせているというなら、イルカとて同じではないか。万一失敗したとしても何ら問題なかろう?」
(…!!)
 刹那、目の前が赤く染まって見えた。
 階級がオレより下であるイルカ本人を目の前にして、わざと放ったとしか思えないその言葉に、自分の中で最後の最後まで耐えていた何かが一気に裂けていくのが分かった。
「――ふっ……ふふふっ……ふふふふ…」
 訳の分からない激しい感情が、体の奥底から湧き上がってくる。それは胴震いとなり、次第に虚ろな笑いとなって、だらだらと唇からこぼれて落ちる。
「ふふふ…分かったよ…、…はは…は…オレが、オレが悪かった…ふふ…」
 上忍の突然の豹変に、ホムラ達だけでなくイルカまでが凍り付いている。
「今ここであんたら二人を殺して、オレも死ぬ。……確実に左目を潰してからね」
「!」
「なっ、なんじゃと!」
「カカシッ、気でも狂うたかッ?!」
「もぅーなに言ってんの。まともだから言ってんでしょうよ。狂ってるのはそっち……いや、案外いい勝負なのかな。――あぁ大丈夫、イルカ先生はね、『はたけカカシが度重なる見合いの話にキレた』って証言すれば、あとは火影様が何とかしてくれるはずだから。ね? 絶対に、必ず、そう言うって約束して。今すぐ、ここで約束して」
「カカシ先生、やめて! やめて下さい! 落ち着いて!」
(…あぁ…、あぁそうか…、そう…だったのかもな…)
 必死で自分を止めようとしているイルカの、いつになく取り乱した顔を見ながら、灰色の霧がかかったような頭で、ぼんやりと考える。
(オレの開発した術が、皆の奥底で「眠っていた時間」を無理矢理目覚めさせちまった…)
 本当に罰を受けるべきは。
 罪を償うべきは、他の誰でもない、この自分だ。
「カカシ、目を覚まさんか!!」
 コハルとホムラが浮き足だって腰を浮かすと、背後のドアから音もなく滑るように入ってきた十名近い暗部が、カカシとの間に立ち塞がるように割り入ってくる。
「――いや…、あんたらが目覚めたんなら、オレは眠るよ」
 人とは、こうして永遠の眠りに就く直前になった時、ようやく本当の意味で目が覚める、儚い生き物なのかもしれない。

 カカシが背後のポーチから取りだした三つ叉のクナイは、もう随分と使い込まれて年季が入っていたが、柄の部分の標だけはまるで今しがた印されたかのように、くっきりと鮮やかに浮き上がって見える。
「悪いけど、オレは英雄なんてものにはならない」
 言って額当てを片手で掴むと、その足元にカランと落とし、突っ立ったままクナイの刃を腰の高さに構えた。

 瞬く間に数人の暗部を蹴り倒し、一度間合いを取り直して、再度真正面から睨み合った時だった。
 居並ぶ暗部達の向こうに、小さな老人を全身でもって抱え込むようにして守っている二体のイルカが垣間見えた途端、まるでどこかのスイッチでも切られたようにカカシの体が止まった。
「――ねぇ、あんた……そいつらのこと、そんなに大事なの?」
 すると、高く括られていた二つの黒髪が、ほぼ同時にそろそろと動いてこちらを見る。
「ええ。当たり前じゃないですか」
「カカシ先生も、ですよね?」
「…………」
 耳にとても優しいのに、意志の強さが滲んだ声様の二人にそうはっきり返されると、暫く押し黙っていたカカシは、やがて構えていた三つ叉のクナイを力なく下ろした。
 すぐに警戒しながら近寄ってきた暗部が、それを持ち去る。
「計画の実行は明日七日の午後五時とする。それより半刻前に、里の外れにある例の僧寺の裏の林に準備を整えて来い。二人にはこれより二十四時間体制で見張りを付けておく。滅多なことを考えるでないぞ!」
 起き上がったコハルがぴりりとした声を上げ、ホムラと共にドアの向こうに消えていくと、後には白い面を付けた者達に囲まれた、カカシとイルカだけが残った。
「――――」
「…………」
 押し黙ったまま、橙色の灯りの中で視線がぶつかり合うと、神立風に押された薄い窓ガラスがまた、カタカタと嗤った。





 翌夕。
 指定された時間より少し前に、イルカが僧寺の裏手に広がる林の中に踏み込むと、既に二人の老人と数名の暗部、そして銀髪の上忍が待機していた。彼の目元の翳りが一晩で少し濃くなったように感じるのは気のせいだろうか。
 上忍は一旦自分を過去へと送り出したなら、その後も引き続き二十四時間体制の監視が付いて、幾ら途中で俺を口寄せをしたくとも、十月十日の夜が過ぎるまでは発動出来ない半軟禁状態に置かれるのだろう。
 いや、十日を過ぎても出来ないのかもしれないが。

「すみません、遅くなりました」
 昨夜あの後からは、図書室に閉じこもって気でも狂ったように当時の資料を調べ、頭に叩き込み続けていたお陰で一睡もしていないが、もう少し早く来るべきだったかもしれないと思う。
 しかしそこから先、カカシが行った説明や注意事項は、一点の澱みも無駄もなく、しかも必要なことが全て網羅されており、幾らもしないうちにイルカの中にあった疑問は次々と解決して消えていく。周囲に居並んだ者達は、その流れるような話をただじっと、まるでその場の草木にでもなったかのように黙して聞き続ける。

 
「――最後に、なったけど」
 恐らく十六年前も何ら変わらぬ姿でそこに堂々と立っていたであろう杉の巨木の前で、カカシが言った。
「向こうに行ったら、真っ先に日時を確認して」
「はい。伽藍の方角で本当に騒ぎが起こっているか、確認すればいいですね?」
「そう。でも間違っても姿を見られないように。絶対に誰とも接触しちゃいけない」
「はい、すぐに変化します。……でももし、向こうにいるカカシ先生が、大人だったりしたら?」
 言って目線を上げると、こちらをじっと見ている上忍と間近で目が合う。もう額当ては上げているが、まだ左目は閉じたままだ。
「――そこはもう過去じゃない。きっと……地獄って所だ」
 上忍を背後から明々と照らす斜めの光線が、色の薄い頭髪の一本一本をオレンジ色に縁取りながら輝いている。
「でも一緒なら、――心強いです」
 直後、あっと声を上げようとした時には、その半開きの口が男の唇で塞がれていた。
「…ッ!! …っ?!」
(カカシっ、先生っ…!?)
 何とか逃れようと顔や体を仰け反らせても、まるで噛み付くようにして追いかけてくる。周囲を取り囲んでいる者達が息を呑んでいるのが分かって、今にも全身から火を噴きそうだ。
「…んっ……、ぅ…んっ」
 やがてカカシに押されるようにして背後の大木との間に挟まれると、今まで長い月日をかけてじっくりと体に擦り込まれてきた快感が、条件反射のように頭をもたげだした。
 強張っていたはずの体の奥が甘くじんと痺れてじわじわと崩れていく感覚に、別の場所で焦りが生まれる。優しく髪を撫で、頬を滑っていく冷たい手の平にぞくりとする。
(…ぁ…ぁ)
 今の今まで押し止めようとしていた両の手から、すっかり力が抜けている。もう誤魔化せない。自分は人目も憚らず、この男に感じはじめている。
「…ふっ……、くふ…っ…」
 皆の視線は逸らされてはいるが、二人の口元の辺りに意識が刺さってきているのをはっきりと感じる。なのに鼻に抜ける声をどうしても止められない。目の前の男に、本能が上げる声を聞いてくれと言わんばかりだ。

「?!」
 だが、出し抜けに首元に走りだした、鈍いけれど深い痛みにカッと目を見開いた。
「…っ、…っ!」
 突然息が詰まって呼吸が苦しくなる。違う、キスのせいじゃない、明らかに気道が締まっている。だが目の前の男は尚も目を閉じたまま、夢中で深い口づけをしている。でもどう考えても彼が自分の首を絞めているとしか思えない。
(――カカシ……せんせ…ッ!)
 声を出そうにも詰まっていて欠片も出ない。突然のことに、どうしていいか分からない。ただ苦しさに耐えながら、男のジャケットを引っ掻くようにして握り締める。
 男の細い指が喉元深くに食い込んでいるのが、もうはっきりと分かる。
「おいカカシッ! 何をしておる! 止めんか!」
 血管が限界まで膨れ上がり、いよいよ手指の力が入らなくなってだらりと垂れ下がったところでホムラの鋭い声がして、二人は白い面の男達に強引に引き剥がされた。暗く遠ざかりかけていた意識が急速に戻りだして、再び目の前がゆっくりと明るいオレンジ色になっていく。

「相変わらず、油断も隙もない男よ」
 コハルが深い皺の中で、不機嫌そうに顔を歪めている。
「――行ってこい。行って…もう一度その目で、見てくればいい…」
 両脇から抱えられるようにして暗部に拘束されたカカシが、唸るように絞り出した声に、激しく咳き込んでいた頭を上げる。
 とその真っ赤な左の瞳が、巴でない異様な形に変わっていることにハッとして、尻餅をついたまま思わず後ろに後ずさった。
 側に様子を見に来ていた暗部達が、不穏な気配に気付いて一斉に跳び退(すさ)る。
(――っ!)
 大木の前で一人置き去りにされて、本能的に目の前の上忍をキッと見据えた。
「そう、いい目だ!」
 いつの間にか足元に標の施された三つ叉のクナイが刺さっていて、そこを中心にゆっくりと大気が渦を巻きだしているのが、枯れ葉の舞い踊り方で分かる。
(始まった…!)
 自分一人だけがその渦の中に巻き込まれだすにつれ、急速に太陽の光が届かなくなっていく。
 やがて大気が歪むような不気味な気配の中、目を空いているのかどうかも分からなくなるほどの漆黒の暗闇で、雷火の如き閃光があちこちで青白く瞬きだした。

(――行く先は、どっちにしても…………か…)

 イルカは天と地の区別の無くなった酷く曖昧な空間で、固く目を閉じた。












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