頭の奥――やがて瞼の裏――そして気付けばすぐ目の前に漠と広がる真っ暗な空間一杯に、巨大な青い雷火が繰り返し明滅している。

(――これは……ゆ…め……?)

 無数の閃光は、尻餅をついていたはずの己の体の真下を鋭く奔り、自分の存在など全く無視しながら体を突き抜け、漆黒の空間を縦横に切り割き続けている。こんな奇妙な夢をみるのは初めてだ。

(――…夢…、なのか…?)

 と、ふと誰かの絞るような細い叫び声に気が付いて、イルカは気配を探った。
(どこだ…どこにいる?)
 この全く音のしない不思議な雷光に、怯えてでもいるのだろうか? 声の主は全身から絞り出すようにして、何事かを懸命に叫んでいる。
(誰だ…そんなにやかましく叫んでいるのは?)
 聞いたことのない声なのに、なぜだろう? 不思議と知らないという気がしないその声は、だんだんと大きくなっていく。
 耳で聞いているのではなく、頭の中に直接響いてくるようなそれは、どうやっても決して振り払えない不快さを伴っている気もする。でもどうしてそんな風に思うのか、自分でも分からない。
「おい、静かにしろ、堪えるんだ」と、叫び声の主が居ると思しき暗がりに向かって何度も繰り返し注意を促すものの、その忠告は一向に聞き入れられない。それどころか抵抗でもするかのように、叫び声はますます大きく、激しくなっていく。
(あぁうるさい、耳障りだ。頼むから静かにしてくれ)
 咽から血でも吹いていそうな絶叫に、たまらず両手で耳を塞ぐ。
「やめろ、やめてくれ、俺はその声を聞きたくない!」
 するとその声の主は、背筋の寒くなるような死に物狂いの涙声でもって、ますます大声で喚き散らし始めた。

「はなせっ! はなしてくれー!!」

(――なっ…?!)
 突然覚えのある台詞が響いて、ギョッとして思わず身を竦めた。その先に続く台詞を、他でもない俺は、そう俺だけは知っている。

「まだとーちゃんと、かーちゃんが…!!」

(あぁいけない、ダメだ! 聞くな、耳を貸すな! 意識を散らせ!)
 左胸が破れんばかりに拍動しだして、余りの息苦しさに獣のような荒い呼吸をする。と不穏な温かさを伴った生臭さい匂いが、直接頭の奥から鼻腔へと流れ込んできて、全身が総毛立った。
(この、腐臭…?!)
 以前に自分は、確かにそいつを嗅いだことがある。
(あぁくそ…っ、またか…っ!)
 匂いの酷さもさることながら、己の中のどこかに、その匂いの記憶が未だに消えることなく深々と刻み込まれていたという、その事実が堪らなかった。
「よもや、忘れたとは言わせないぞ」と、何者かに鼻先に突き付けられた気がした。
(消えろ、いいからもう、終わってくれ…!)
 ふとした瞬間突然蘇るあの叫び声とこの臭いのせいで、自分は何度夜中に飛び起きたかしれない。うっかり心を許して気を緩めていると、思い出したように夢の隙間から入り込んでくる、一連のそれ。
 だから例えあの人の家であっても、それが真っ昼間でどんなに勧められたとしても絶対に眠らないと決めて、その通りにしてきたのに。


 上忍の時空間移動忍術が発動された直後、鼓膜を圧するほどの勢いで逆巻いていたつむじ風は、ものの数秒後には天から落ちてきた巨大な堰に遮断されたかのように出し抜けに止んでいた。
 耳はないのか、あってももう役に立っていないのか、何の音も拾わない。触覚も嗅覚さえも反応しないという感覚は、肉体と魂が離れてもぬけの空になった自分を、もう一人の自分が端から眺めているようでもある。
 自分という存在が「目に見えないレベルにまでバラバラに分解されて、周囲との境界が無くなったのだ」と言われれば、すぐにも納得しそうだった。

(…何もかも…、終わった、のか…?)
 天地の境すら無くなった漆黒の空間に、青白い光が瞬くだけの空間はただただ異様で、まるで現実味がないのに、肌の内側ではどこか納得している。


(――そうか………よかった…)




    * * * 





 鋭い鳥の声が出し抜けに耳朶を打ち、ハッとしたことで瞼が上がった。
(…う…っ)
 木々の間から漏れてくるオレンジ色の光がまともに目に入って、思わず顔を顰める。赤みのさした木の葉が頭上でサラと鳴り、生温かい湿った風がゆるゆると首回りを撫でていく。背中はいつかいたとも知れぬ汗でびっしょりだ。
(――…終わっ…た…?)
 自分は今、どのくらい気を失っていたのだろう? 慌てて周囲を見回したが、人の気配はない。
(そうだ、時計…!)
 懐から懐中時計を取りだす。が、あろうことか秒針は、白い文字盤の上で完全に沈黙していた。さっきの夢の中とも知れぬ暗冥で雷火でも打たれたか、或いは急激な時間の遡りで何らかの無理がかかったせいか。
 いずれにせよ、長年愛用していた時計は、上忍の術が発動されたと思しき辺りでその役目を放棄していた。
(まずいぞ…)
 これではまるで時間に無視されて、どこかに一人取り残されたみたいだ。事態が早くも良くない方向へと転がりだしている気がして、鼓動が早くなる。
 ついには(そもそも自分は、本当にあの人から時空間転送術など受けたのだろうか?)などという疑問まで湧いてくる有様だ。
(落ち着け、完全に浮き足立ってるぞ)
 さっきから酷く胸が悪い。立ち上がるとムカムカして視界までが揺れている、まるで船酔いでも起こしたような自身に、繰り返し言い聞かせる。
 だが膝の上に両手をついて、肩ですすり上げるような深い呼吸をしていると、やがて(周囲に自分一人しかいないというこの状況からして、今があの術を受けたあの時間でないことだけは確かだ)と、はっきり思えるようになってきた。
(そうだ、今こそ己を信じられなくてどうする)
 暫くして何とかその考えに行き着くと、ようやく上忍のアドバイスが耳元に甦ってくる。

『――最後になったけど……向こうに行ったら真っ先に日時を確認して?』
『――はい。伽藍の方角で本当に騒ぎが起こっているか、確認すればいいですね?』
『――そう。でも間違っても姿を見られないように。絶対に誰とも接触しちゃいけない』

(そうだった。時計が壊れたなら尚のこと、今がいつ何時なのかを確認しに行かなくては、何も始まらないではないか)
 今一度、周囲を確認するように背後を振り仰ぐ。と、上忍と別れる際に背後にあった杉の巨木が、あの時と何ら変わらぬ姿で堂々とそこにそびえ立っているのが、視界一杯に入ってきた。
(…よし)
 場所のズレは全く無い。あとは時間だけた。
 人差し指と中指を胸の前で立て、深いところで集中すると、イルカは黒目黒髪ながら顔に傷のない、ありふれた紺色の作務衣を身にまとった一般人の青年へと姿を変えた。

(……まだだ…、俺はまだ、最後じゃない)
 真新しい記憶を辿りながら、伽藍の方角へと駆けだした。




 何者かのただならぬ気配が近付いてくるのを感じ、その針路を開けるようにして樹上に跳んだのは、それから幾らもたたないうちだった。
(誰だ…?)
 足早に近付いてくるその先に目を凝らし……続いてぐっと眉を顰めた。足音の主は大柄な男で、小さな子供をぞんざいな感じで脇に抱えている。両者とも顔に見覚えはない。だがこれ見よがしな大振りの刀を二本、背中と腰に差しているところを見ると、男が堅気でないのは明らかだ。子供の方は怯えきっているらしく、口を塞がれて荷物のように揺すられても固まったままだ。
(まっ、まさか…?!)
 心臓が下から押し上げられるような感覚に、体がカッと熱くなった。(きっと、そのまさかだ!)と、張り詰めた警戒心が叫んでいる。
 状況からして、どうやら子供を人質にとって伽藍に立てこもっていた賊の一人が、包囲網をかいくぐって逃げ出したというところか。もちろんここに来る前に、当時四代目がこの事件に関して記した報告書は読んでいたが、何度読み返してみてもごくごく簡単な経緯の他は『全員を捕縛』としか書かれていなかった。その文面から、この一件が大事に至らなかったことは伺われたものの、まさかそのことが落とし穴になろうとは。
(どうする、このまま追っ手が来て捕まるまで待つか?)
 その方が得策に思えた。が、そうこうするうちにも男は子供を抱えたまま、自分がつい先程まで倒れていた鬱蒼とした杉林の方へ抜けていこうとしている。その先は、手つかずの深い森が延々と広がる演習場だ。
(いいのか、このまま見過ごして。本当に大丈夫なのか?)
 いつまで経っても誰も追ってくる気配がないことに、急に不安が広がりだす。
(いや待てよ? もしも…もしもあの男が、立てこもり事件とは無関係の賊だとしたら…?)
 その時本当に突然、まさに降って沸いたように嫌な仮説が脳裏を過ぎってぞくりとした。それなら報告書に記載がなくて当然だ。そもそも今この日が、本当に九尾事件の三日前にあたる十月七日なのかもまだ確認していないのだ。カカシ先生のことを信じていない訳ではない。信じていない訳ではないが、日時を確認するまでは何事も絶対とは言い切れない。
 あの人はご意見番の前で幾度となく「記録や記憶のあやふやな過去に飛ぶ事の危うさ」を力説していたが、今まさにそれを目の当たりにしていた。
 己の軸足が一体どこにあるのかが全く分からないために、ちょっとした判断にも迷ってしまうということが、こんなにも恐ろしいものだとは思わなかった。これではまるで、中天に輝く一等星を見失った夜が、明けることなく延々と続いているようなものだ。どんなに手探りをしても、確かなものが何も掴めない漠とした空間に、たった一人で放り出されている。

(でも、だとしたら、あの子はどうなる?)
 思ったときにはもう、梢を蹴っていた。
(果たしてそんな偶然があり得るだろうか?)という疑問より、(あれこれ迷っている暇があるなら、今すぐあの子を何とかすべきだ)という力の方が勝った。
(救出出来る!)
 あの男に正体を知られないようにしながら、子供を助け出しさえすればいいのだ。何も難しいことはない。万が一変化した今の顔を見られたとしても、また別の姿に変化しなおせば済むことだ。
 とにかくこのまま見過ごすことなんて、もう一秒たりとも出来なかった。今すぐ自分が何かしらの形で動かないと我慢出来ない。例え自分がよその時代から来た『決して存在しないはずの部外者』だったとしても、同じ里の者を見捨てることなどどうして出来るだろう? あの子にだって、きっと帰りを待っている親がいるのだ。
(存在しないというのなら、逆にそれを最大限活用するまでだ)
 仮の姿のまま、二人に分かれる。
(頑張れ、もう少しの辛抱だからな)
 影の方を地上に降ろして走らせ、自分は樹幹伝いに後を追った。












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