忍の真似事が出来るという程度の賊を、前後から影分身で挟み打ちにして捕らえることなど、イルカにとっては雑作もないことだった。子供へのダメージを最小限に抑えるために簡単な幻術で惑わし、手早く後ろ手に拘束してその場に転がすと、全ては呆気なく終わっていた。

 見知らぬ男にさらわれた恐怖に、口もきけないで震えている少年は、まだ五、六歳といったところだろうか。近寄っていき、片膝を地面についた格好で話しかける。
「よし、もう大丈夫だ。どこか痛いところはあるか? よく泣かないで頑張ったな、偉いぞ。家はどこだ? 送っていこう」
 すると、見る見るうちに小さな作りの目鼻口が歪みだしてしゃくり上げだした。すぐに「そうだよな、辛かったよな」と頭を撫でてやり、同じ目の高さのままでそっと背中をさすってやる。
「おぶってやるから、ゆっくり歩いて帰ろうな」
 賊はここに置いていけばいい。縄は時間をかければ自力で立って歩ける程度には崩してあるから、完全には解けないまでも死にはしないだろう。上手くすれば里の者が捕まえてくれるはずだ。
 背負っていたダミーの荷物を腕にかけなおし、空いた背中を少年に向けた時だった。
「!!」
 気配とも言えぬ、未だかつて感じたことのない何かを身の内に察知して、咄嗟に身構えようとしたその時には、もう既に首元に冷たく固い物がひたとあてがわれていた。
(しまっ…)
 対峙した弱者側だけがまざまざと感じる、両者の間に歴然と横たわる圧倒的な力量差の前に、冷静さを欠いて直感だけで行動していたことを今さら悔いても遅い。
 後ろの男は間違いなく忍だ。しかも自分とは桁の違う。
(頼む、違っていてくれ…!)
 心の底から、「あの男」でないことを祈る。
「――驚かせてごめんね。見ない顔だから一応手順を踏んでるけど、違ってたら許して。――君は、この里の人?」
 しかしその願いは、優しい語尾に縁取られた、若く張りのある男の声によって無情にも打ち砕かれた。
(……あぁ…)
 思わず頭の中で天を振り仰いだ。微かに聞き覚えのあるその声を切っ掛けにして、己の奥深いところから無数の記憶の断片が一気に湧き上がってくるのを感じて目を閉じる。
(こんな形で、もう一度会うなんて…)
 この声の主は、両親の存命中にも幾度となく我が家を訪ねてきていた。今になって思えば、その繋がりは、不幸にして自刃したはたけ家の当主と、我が父が親しかった事とも全く無関係ではなかったと思う。
 まだ青年の面影を色濃く残した金髪の彼と父がよく縁側に座って、何事かを……恐らくはこの国や里の行く末を話していたのを覚えている。


「――答えられないってことは、君は招かれざる客だと思って、いいのかな?」
 図抜けて頭の切れる者というのは、その当人さえも気付かぬうちに事の真相を言い当ててしまっていたりするものだが、その鋭い言葉にハッと我に返った。
「いえっ、すみません。急な事に、その…驚いてしまって。確かに私は、ある意味招かれざる客なのかもしれません」
「…説明して?」
 背後の男は、微塵の動揺もない静かな声で、尚も柔らかに訊ねてくる。その物言いは、あの銀髪の男にどこか遠くで通じている気がしないでもない。
(……よしっ)
 腹に力を入れ、覚悟を決めた。
「私、濱の国から参りましたイルカと申します。薬の仲買で参りました。こちらの里で暫く遊山しようと、取引先には内緒で、お約束した日時より三日ほど早く来てしまいまして…。ですが通行証なら、こちらに…」
 万が一にも見つかって身分を訊ねられた時のためにと、懐に忍ばせてあった書面を開いて、背後から見えやすいように開いて見せる。これは当時の通行記録を調べ上げた上で作ってあった巧妙な偽物だが、自分さえ間違った応答さえしなければ、ここから足が付く可能性は低いはずだ。
 あえて本名を名乗ったが、こうして一般人に変化した姿が、この時代にいるはずの同名の少年と結びつくこともまずないはずだ。同じ姓名などこの世に幾らでもいるのだし、万一多少の面影があったとしても、そもそも年壮のうみのイルカはこの世界に存在し得ない。
「――そう。疑って悪かったね」
 肌にぴたりとあてがわれていたクナイが首元から離れていく際、目の端に映ったそれを見て、やはり己の記憶に間違いはなかったのだと確信する。
 クナイは長柄の三つ叉だった。

(このまま、乗り切れるか…!)
 立ち上がりながら、ゆっくりと背後の男の方を向いた。
 爪先――膝――胸と視線を上げていく。男が着用しているベストは現在我々が着用しているものと同じ仕様だが、袖口を縛るタイプの黒いアンダーシャツは、自分が一度も着たことのない一昔前のものだ。
「いえ、私も趣味の護身術がこんなところで役立つとは思いませんでした。――その…」
 頭を上げ、真正面から男を見つめた目が、日没間近なのにもかかわらず無意識のうちに細められる。
「木ノ葉の里長を見るのは、初めて?」
「ぇ…ぁ、はい」
「そう、宜しくねイルカ。まずは里の子供を助けてくれたことにお礼を言わなくちゃね」
 四代目火影は、「ありがとう」と言って、甲まで伸びた長目の袖口から白い右手を差し出し、おずおずと持ち上げかけたこちらの手を取ると、力強く握った。

「――では、私はこれにて」
 いきなり火影と接触するというかなり際どい状況だが、同じ班で行動しているはずのカカシ達の姿が見えない。まだ自分はついていたのだと思いなおし、長居は無用とばかりに軽く頭を下げて立ち去ろうとした時だった。
「ねえ、イルカ。もし時間があるなら、悪いけどこの子を家まで負ぶって行ってくれないかな? さっきは、そうしてくれようとしたんだよね?」
 賊を立ち上がらせた里長がタイミング良く掛けてきた思わぬ申し出に、咄嗟に上手い断りの口実が見つからない。
「ぁ――…えぇ…はい」
 結局流れに逆らえぬまま、気付けば引き受けてしまっていた。内心で(遊山で来ているなどと言わなければ良かった)と後悔するが、最早後の祭りだ。
『――間違っても姿を見られないように。絶対に誰とも接触しちゃいけない――』
 頭の奥で上忍の声が、風鳴りのように遠く近く聞こえている。

「しかしいい所に居合わせてくれたよ。実は近くでちょっとした捕り物があってね。追い詰められた連中が暫く寺に立てこもってたんだけど、突入したら一人足りなくて探してたんだ。…あぁ大丈夫、部下達はまだ若いけど凄く優秀だから、今頃きっと撤収を始めてるはずだよ」
 自分の前に賊を歩かせながら、四代目が話しだしている。
(そうか、やはり今日は十月七日、だったか…)
 一番知りたかったことが分かってホッとしたのも束の間、すぐに胸の辺りが鉛でも呑んだように重くなる。
 まさか自分は心のどこかで、全く違う日時であって欲しいとでも思っていたのだろうか。
(ばかな…)
 背中に負ぶった子供の重さや温もりが、決して嘘や幻ではないことを確かめながら、イルカは内心で頭を振った。

 隣で四代目が素早く印を切った気配がしたかと思うと、足元に見覚えのある犬が現れて、内心ドキリとする。
(…!)
 手の平に乗りそうな垂れ目の皺くちゃ顔を前に、(慌てるな、この状況で目を逸らすのは不自然だぞ。向こうはまだ俺のことを知らないんだ。普通にしていろ)と言い聞かせながら見下ろす。
「パックン、カカシの所に行って『援護班に賊の引き渡しが済んだら解散して良し』と伝言をお願い。あと、それが終わったら暫くカカシと遊んでおいで」
 火影の声はあくまで柔らかい。
「なぬ? 遊ぶとな? それは必要なかろう」
 しかし小さな犬は、体に似合わぬ嗄れた声とすげない態度でもって、契約者を見上げている。
「まぁそう言わないでよ。…んーじゃあこうしよう。カカシに、僕がいない間の経緯を聞いてきて? 報告書に書くから」
「分かった。――お主には悪いがあの若造、拙者を所詮犬などと思うて馬鹿にしておるで好かんのじゃ」
 言うと、小さな忍犬はぱっと踵を返して二、三度周囲の臭いを確かめるや、一方向を目指して真っ直ぐ駆けだした。


「自分が培ってきたものを他人に受け継いで貰うって、思ってたより難しいもんだね」
 茶色い影が木々の向こうに消えると、四代目は小さく肩を竦めた。
「分かります」
 子を負ぶったまま、イルカは静かに頷いた。
「黄色い閃光なんて呼ばれて、時間を意のままに操ってるように思われてるみたいだけど、実際にはこんな些細なことでも往生して立ち止まってるなんてね」
「通り名なんていらない。時間が欲しいよ」と呟く男に、イルカはかける言葉が見つからず俯いた。


「その…部下の方は、お幾つなんですか?」
 道すがら沈黙が続いて、彼にあれこれ聞かれるのだけは勘弁して欲しかった。こちらから当たり障りのない話を振ることで、何とかこの急場をやり過ごせないかと試みる。
「二人とも今年で十四、かな。でももうベテランなんだよ。二人同時にかかってこられたら、僕も負けちゃうかもね」
 吸い込まれそうな青い瞳が、屈託なく弓になっていく。
「とても、可愛がってらっしゃるんですね」
 それには思わずつられて笑みがこぼれる。
「もちろんさ。本当にいい子達なんだ。後で紹介するよ」
「いえっ、ぁ……あぁ…はい」
「ははは、大丈夫だよ。男の子の方が最初ちょっととっつきにくいかもしれないけど、初対面の人と距離を測ってるだけだから」
「はぁ……そう、ですか」
(あの気さくなカカシ先生が、そんな少年だったなんて…)
 僅か五歳でアカデミーを卒業していた彼とは、当時ごくたまに姿を見かけた事はあっても、それ以上の接触は殆どなかった。だがナルト達を介して顔見知りになってから『恋人として』もう一歩踏み込んでくるまでの、決して短くはない歳月を思い返した途端、(あぁ、でも何となく分かるかも)と、微かに口元を緩めた。











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