背中で怯えていた子供の震えがおさまった頃。
 町はずれのその子の家へと辿り着いて、心配しだしていた両親の懐へと引き渡すと、文字通り肩の荷が下りて、張り詰めていた緊張が束の間ほぐれていくのが分かる。
(良かったな)
 母親にぎゅっと抱き締められて泣いている少年を、少し離れたところから黙って見つめる。まだ若い…恐らく自分よりも年下であろう父親の大きな手が、小さくて丸い柔らかな頬をそっと撫でているその光景は、当時失うばかりの道を歩むことの多かった自分にとって、何より得難く代え難いものに思えてならない。
(?)
 ふとこちらに向いている視線に気付いて顔を上げると、家族の側にいる四代目と目が合った。一点の滲みもない胸の空くような明るい目元は、自身がやるべきことをはっきりと見据えていることを伺わせていて、常に周囲の者全てを強く惹き付けている。
 その青く澄んだ眦がふっと柔らかい曲線を描くと、とても見覚えのあるやんちゃな少年の面影が確かにそこに生まれてハッとした。
 と同時に、胸の奥に到底打ち消しようのない逡巡が、一気に湧き上がってくる。
(…俺は……自分は……、どうしたら…)

『――間違っても、姿を見られないように。絶対に誰とも接触しちゃいけない…――』
 あれほど上忍が念を押し、ついさっきまですぐ耳元で聞こえていたはずの忠告が、急速に遠ざかりつつある。今し方まで自分の中心にあったはずの決意が、にわかに揺らぎだしている。
(…カカシ先生、ごめんなさい。――やっぱり…俺は…)
 今この瞬間、この里の人々が信じているささやかな未来が根底から覆され、根こそぎその命ごと奪い取られる様をただ黙って傍観することなど、自分にはとても出来そうにない。




「ありがとう、お陰で助かったよ。遊山の最中に引き止めて悪かったね」
 少年が両親と共に家の中に消えると、四代目はぽつりぽつりと輝きだした丸い街灯の下で、もう一度俺に礼を言った。
 引き立てていた賊はいない。ここに来る道すがら、パックンが援護班の者を二人連れて早々に戻ってきたことで、無事引き取られていた。彼の部下達に聞いてきたのだろう。への字に曲がった頑固そうな口が、報告書で目にしていた通りの簡単な経緯を話して消えると、やがてこの一件にも幕が引かれていく。

「いいえ、多少なりともお役に立てたなら何よりです」
 十六年前の自分は、縁側で父と語り合っていた彼の後ろ姿を、襖の陰からこっそりと覗くばかりだった。そして今、あの時とはまた違った新たな長の一面をこうして目の当たり出来たことを、「不幸な出会い」にはしたくない。
(何か出来るはずだ。きっと自分にも何か)
 正確な時間は分からないが、九尾が現れるまでもう三日を切ってしまっているだろう。例え何らかの解決の手掛かりを得て元の世に戻れたとしても、必ずまたこの日に戻ってこれるという保証はない。とすれば自分に与えられた時間は、あと三日ないと考えるのが妥当だろう。
(何とかしなくては、何とか…)


「ところで、イルカ」
 はい? と返事をして振り返った、その男との距離の近さと瞳の強さに、すっと頭から血が引くのが分かった。まだ彼は口元を引き結んだまま一言も喋っていないのに、まるで自分の体はいち早く何かを察したかのようだ。
「いい加減、正体を現したらどうなの?」
(!!?)
「僕は部下みたいな特殊な目は持ってないけど、観察力なら人並みにあるつもりだよ」
「な…っ、なにを、急に…」
 落ち着き払った声に思わず仰け反りながら、半歩後ろへと下がった。逃げても無駄なことは、重々承知している。このまま穏便に立ち去るには、徹底してしらを切り通すしかない。
「だってそうじゃない? 幾ら仕事ついでの旅と言ったって、あんな何もない杉林に一人で居るのはどう考えても不自然だし、護身術がどれほど趣味と実益を兼ねていたとしても、あの賊を拘束した手際は鮮やかすぎる」
「――と、いいますと…」
「あの縛り方だよ。あれは忍が使う捕縄(とりなわ)術の中の早縄を使い慣れた者が、わざと素人っぽく見せかけようとしてかけたんじゃないかな、…とかね?」
(まずいな、やはりそこか…)
 長年に渡って己の手指に刻み込まれた捕縄の感覚は、教師という立場も相まって、確かに熟練した実戦部隊のそれを上回るものになりつつある。捕縛の際、咄嗟の判断で誤魔化したつもりだったが、見る者が見たことで消すに消せない匂いを嗅ぎ取られていた。
「どうなの?」
 火影は些かのぶれもない、すっきりとした静かな双眸でもって、まっすぐにこちらを見つめながら問いかけてくる。例え目を逸らしても、逆に真っ向から睨み返していたとしても、心の奥底まで何もかも読まれてしまいそうだ。
 今思えば、彼は一人でも少年を連れて帰還しようと思えば十分出来たのに、上手いこと子供をダシにして、見ず知らずの俺の尻尾を掴む機会を探っていたのだろう。なのに俺は、いつの間にかよく見知っている同胞を相手にしている気分になり、まんまとその誘いに乗ってしまっていた。

「なっ…、なにを、す…! 放してっ、下さい…!」
 案の定、何かを考える暇さえ皆無だった。相手が悪い、悪いどころか最悪だ。直感と行動力の傑出した不世出の天才ともなると、相手の先手を、しかも一手どころか二手三手先まで取るのも訳はないのだと、図らずも標的になったことで思い知っていた。
「…っ…?!」
 気付いた時には、廃屋と思しき荒れ果てた裏庭で腹這いにされていた。両手とも背中に取られ、のし掛かられるように体の要所にずっしりと体重をかけられて、すっかり目に馴染んだ独特の形のクナイを鼻先に突き付けられるまで、余りの鮮やかさにどこか呆気にとられたようになって声も出なかった。

「じゃ聞くよ? あそこで何してたのか、もう一度説明してくれる?」
 相手は自分を半ば…いや九分九厘敵とみなしているというのに、こちらはどうしてもその認識が出来ない。どんな時でも変わることのない、明るく柔らかな声音が、苦しいほど耳に優しい。
「……わ、たしは…なにも…」
 だが変化なら少なからず自信がある。変化を解きさえしなければ、何とかなるはずだ。いや何とかするしかない。九尾事件から十六年を経た自分は、日一日とあの当時の父の年齢に近付いていっている。もし変化が解けてしまったら、例え最後の最後まで真相を口にしなかったとしても、大事に発展することは容易に推察出来た。

「――――」
 他でもない彼を相手に暴れても、無駄に体力を消耗するばかりか悪戯に事態を悪化させるだけだ。今は大人しくして機会を待つべきだろう。
「でも変だよね…、ここまでしても何の抵抗もしないし、怯えてもない。どこか…そう、まるで僕を信用してるような…? 何か企んでるように見えて仕方ないのに、子供を助けてたのもどうも引っかかるし…。――うーん分からないな。ねえ君は何者? 本当はどこの誰なの?」
「…ですから…っ」
「薬の仲買なんて嘘だよね? 本当は……忍、かな?」
「ちがぅ…!」
 未だ枯れる気配のない夏草に顔の側面を押し付けられたまま、声を絞る。
「もしかしてこの間の戦の、残党?」
「ちっ、ちがう違うっ! 決してそんなんじゃ…!」
 その問いには、真剣に焦って否定していた。
 そうだった、今この国は、第三次忍界大戦が終結した直後なのだ。ここ木ノ葉の里は、その時被った深い傷がまだ癒えておらず、大勢の負傷者を抱えたまま体制の立て直しを強いられている真っ直中のはずだ。その戦後の混乱期から脱していない混迷の状況で、不審者のレッテルを貼られることがどれほど危険なことかは、想像に難くない。
「しっ…信じて、下さいっ! この里の人達に…危害を加えるつもりなんて、私は、全く…っ…」
 自分より華奢に見えるのに、実に要領よく背中に体重をかけられていて息が詰まる。
(苦し…っ、このままじゃ…)
 もう幾らも変化を維持出来ない、と思ったとき。
 何の前触れもなく背中の重石が離れていき、嘘のように呼吸が楽になった。
「ん、確かに君に戦う意志がないのはよく分かったよ。そうだな…ここじゃゆっくり話も聞けないから、一緒に来て貰おうか」
 俺の肘を掴んで立ち上がらせた火影は、縄をかけるような素振りもない。
(――た…っ、助かった…)
 しかし、ホッと胸をなで下ろしていたのも束の間。作務衣の襟がはだけて剥き出しになっていた首筋に、いきなり手の平を押し当てられて息を呑んだ。
「っ?!」
(今、チャクラを練っていなかったか?)
 思わず仰け反りながら、汗ばんだ首筋を片手で抑える。
「悪いけど、目に見えない縄をかけさせて貰ったよ。あぁ、それは縄なんかより遥かに確実な目印だから、おかしな気を起こさないようにね」
「な…」
(しまった! 瞬身用の標か…! まずいな、これではいよいよ身動きが…)
 彼が残した標によってこの世界に来た、その自分自身が標を付けられてしまうなど、笑い事では済まされない大失態だ。どこに逃げ隠れしようが瞬く間に追いついて来るその印は、家畜に施す灼熱の焼き印よりもまだ遙かにタチが悪い。

「さあ、行くよ。前を歩いて」
 この時代には存在しないはずの人間が、影も形もあるはずのない、いや決してあってはならない人間が、刻一刻とその輪郭を浮き彫りにされていく。

「――――」
 それでも俯き加減に歩き出した頭を、途中から半ば強引にぐいと上げた。
(前を向け。打つ手がない時こそ前を向いていろ)
 まだ時間はあるはずなのだ。

 諦めるには、早すぎる。












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