数日後、夜明け前。
 ついにカカシは、いつまでも平行線を辿るばかりのイルカとの話し合いに業を煮やし、柘植の城下を後にしていた。
 一切の予告無しに、妙見を殺すつもりだった。
(幾ら同胞とは言え、あんな中忍一人に何の遠慮があったというのか。初めからこうしていれば良かった)
 カカシは妙見のいる城郭の楼門を飛び越えながら、ようやく吹っ切れて軽くなっていく心の中で思った。
 イルカを安心させて油断させるため、前夜彼が話し合いに訪れた際は、いかにもその意見に耳を傾けているかのような素振りを見せ、話も部分的に合わせてやっていた。
 結果、話合い自体は大した進展を見せなかったのだが、去り際のイルカの表情には今までに見たことのない、安堵の色が浮かんでいた。
「――カカシさん、やっぱりあなたが敵で良かった」
 物置小屋の引き戸に手を掛けたとき、イルカが振り返って言った。内心『なにそれ。どういう意味よ』と苦々しく思いつつも、渋々「ああ…」と頷いてみせる。
「俺達、きっと上手くやれますよね?」
 そう言って、イルカは微笑んだ。
 すると、あれ程頑なに引き結ばれていたはずの男の口元に柔らかい曲線が生まれ、目元に初めて見る穏やかな影が浮かび上がる。それを目にした途端、カカシはすっと心の目を逸らした。

(どこまでも、馬鹿正直な奴め)
 静かに扉が閉まると、被っていた透明な偽りの面を即座に外す。
 よくよく忍に向いていない奴だよ、アンタは。
(忍になんて、ならなければ良かったのにね)
 そうすれば、未来で憎しみ合うこともなかった。


 だが、襲撃先の城内でオレを待ち受けていたのは、またもや見事なまでに妙見に変化した、うみのイルカその人だった。
 彼はそうやすやすと騙されていなかった。オレの「らしい」言葉など、はなから信用していなかったことになる。
 書斎の四隅で揺らいでいた行灯の灯火が一斉に消えた闇の中、上忍が突き出した忍刀を、妙見に変化していたイルカが振り向きざまに脇差しで薙ぎ払う。
 消炭色に沈んだ世界の一角に、パッ、パッと鮮やかな火花が散り、己が命を賭けて研いできた固い切っ先が、激しくぶつかり合う。
 上忍は最初の一振りですぐに相手がイルカだと気付いたはずだが、構えを解く気配は微塵もなく、まるで射抜くような視線でもって妙見を睨め付けた。
 その目の前で、壮年の妙見の姿は、少壮のイルカへと変わっていく。
 至近距離で刀を構えて対峙する二人のすぐ側には、古びた大型の金屏風があった。その天地の境すらない、茫漠とした世界には、天空を支配する風と雷の神が今にも動きださんばかりに躍動している。
 暗がりに二人の男から立ちのぼる気迫が渦巻き、ぶつかり合う。
 カカシの一杯まで夜目を利かした広い視野の端――質素な文机の上では、僅かに動くものが映っている。
 襲撃する直前まで城主に変化したイルカがしたためていた筆が転がり、白い半紙の上にじわじわと黒い染みが広がっていた。
「――オレの邪魔を、するな」
 カカシの声は、体の奥から苦いものを絞り出すようだった。
「申し訳ありません」
 むしろ詫びているイルカの声の方に凛とした張りがあり、不思議なほど堂々としている。
「妙見は何処だ」
「言えません」
 中忍の返事はどこまでもきっぱりとして明瞭で、端々に苛立ちが見え隠れしているカカシの問いにも、全く怯む様子を見せない。
「いつまでも片意地を張っていると、後悔する事になるぞ」
 上忍の左目は隠されたままだったが、落ち窪んだ眼孔の奥の鋭い右目だけでも、既に充分すぎるほどの威圧感を放っている。
「カカシさん、私を脅しても、妙見殿の居場所は分かりませんよ?」
 それでも漆黒の瞳は欠片も揺るがず、真っ直ぐこちらを見つめ返してくる。
 カカシには、それがどうにも腹立たしくてならなかった。ただただ、彼を屈服させたかった。理由など分からない。知りたくもない。こんな風に謝ってなど欲しくもない。
 斬りつけてこないのなら、ただ「分かりました」と。
 「あなたの言う通りです」と。
 そう一言、言ってくれさえすれば、何もかも、本当に何もかもが霧が晴れるように消え去るはずなのに。
 だが、一旦広がり始めた黒い染みは、そこにとどまる事も、元に戻ることも知らずにただ広がっていく。
「いい加減大人しくしないと、本当にお前から始末するぞ!」
 ついにカカシの声音に、抑えきれなくなったものが露わになってほとばしり出た。それでもイルカに動じたような気配は微塵も感じられない。
「どう始末しますか? ――切りますか? 幻術ですか?」
(!)
 その冷静な中にも煽るようなイルカの言葉に、ついにカカシの中の奥深いところで、何かが音もなく弾けた。
 全身の血が、カッと一気に沸き立つ。
 何かを思うより早く、体は衝き動かされるようにしてひとりでに動いてゆく。
「黙れ! だまれ! ――黙れッ!」
 カカシはイルカが防御のために咄嗟に構えた太刀を、鬼神の如き踏み込みで薙ぎ払った。
 直後、突き刺すことを主眼に細く短目に作られた忍刀を、勢いのままイルカの胸に突き立てる。
「…っ!」
 白刃が鍔の部分までイルカの中に呑み込まれると、両者は息もかからんばかりの至近距離で睨み合った。
 それでも中忍は、呻き声の一つすら上げない。それどころか、下方から突き上げてきたカカシを息を詰めて黙したまま、酷く困ったような顔で見下ろしてきた。
 苦しそうでも、悲しそうでも、悔しそうでもなく。
 すぐ間近で覗き込むようにして見たイルカのそれは、純粋に困惑の表情だった。
(!)
 寄せられた眉の下の、困り果てた様子の男の瞳と目線が合うと、カカシの心中で激しく高ぶっていたものが一転、急激に冷めはじめる。
(なっ…、こいつ…!)
 内心僅かに動揺していた己の不可解さにも気付いて、隠しきれなかった戸惑いの色が束の間右目に滲む。
 イルカはほんのひと呼吸分ほど対峙した後、上忍の目の色の変化をすぐ間近で見届けるや、やっと用が済んだとでも言うかのように、その姿を一塊の煙に変えた。



 白煙が闇に吸われて消えると、後には忍刀を手に立ち尽くすカカシと暗がりだけが残った。
 一帯にはもう何の気配も感じられない。中庭に面した回廊を吹き抜けていく、渺々という風の音だけがやけに耳につく。
(逃げ、た…)
 道理で太刀筋が甘かったはずだ。最初からあの男に戦う意志など無かったのだ。ああして得意の変化術を巧妙に駆使し、のらりくらりと上忍をはぐらかしながら、何とか妙見に対する戦意を削いでいこうと考えているらしかった。
(ナメた真似、しやがって…)
 だがそんな悠長なお遊びに付き合ってやるほど、こっちは暇でもなければ思慮深くもない。
(…くそっ!)
 金屏風の後ろに潜ませておいた己の影分身を、腹立ち紛れに振り払うように消した。イルカが変化や分身が得意と知り、きっと役に立つと踏んで、侵入の際に予め用意していた。
 その読み自体は、確かに外れてはいなかったものの。
 あの頑なで真正面からぶつかってくる事しか知らないはずの馬鹿正直な中忍が、こうも鮮やかに戦わずして逃げるなど、思ってもみなかった。
(やってくれるじゃない)
 奥歯を噛み締めて俯くと、再び目の端に文机が入る。
 置き去りにされた筆からは、薄香色の半紙に向かい、尚もゆっくりと墨汁が広がり続けていた。



     * * *



 イルカは己が後をつけられていないことを慎重に確認すると、既にカカシに知られてしまっている依頼主に宛がわれた小部屋ではない、城内の全く別の場所…天守内の武庫へと身を潜ませた。
 途中、妙見を隠している大部屋の隣のにある控えの間をちらりと覗いてきたが、大丈夫だ。まだ上忍に気付かれた形跡はない。
 イルカは着任するや、自身にさほどの力量が無いことを率直に城主に打ち明け、彼を目立つ本丸の自室ではなく、従者らが寝泊まりする大部屋のすぐ隣りへと密かに移動させていた。
 更に衣服を替え、髪を染めて結い直し、従者の出入りを極力制限したため、今や城主は年老いた中老にしか見えない。
 こうなっては、いかな賢い忍であっても、彼が本当に城主なのかを判断するのは難しい。どんなに強い忍でも、無名に近い城主本人の特定が出来ない以上、消しようがないのだ。
 妙見のいう男が、任務熱心なイルカに対して非常に理解のある、協力的な雇い主である事も幸いした。この様子なら、次は書斎や寝室に彼によく似た雰囲気の影武者を選んで置くなどして、もう少しの間は時間稼ぎができるかもしれない。
(カカシさん、きっと怒ってるな…)
 妙見との契約遵守の為とは言え、同胞の上忍に対して随分と失礼なことをしてしまったと思う。
(でも、ああでもしないと…)
 あの場を凌げなかった。
 逃げることや隠れることは、カカシにとっては殆ど縁のない行為かもしれないが、自分にとっては常に重要な方策の一つだ。同じ手は二度と通じなくなる事など百も承知しているが、今後もそれらの騙しの技を駆使してかわし続けるしか、中忍の自分に残された術はない。
(カカシさん…すみません…)
 様々な武具が所狭しと積まれた狭い武庫の片隅で、深い溜息をそっとひとつつくと、真っ白い息が己から離れて消えていく。
(「いつまでも片意地を張っていると、後悔する事になる」…か)
 先程のカカシの言葉が、ありありと耳元に甦ってくる。
(そうかも、しれないな)
 それでも、自分を信じて協力してくれている雇い主を見捨てるような真似だけは、決してすまいと思う。
 続いて里を出立するというあの日、受付の外で偶然火影に出会った事も思い出した。
 里長は菅笠の奥で、「今回の任務は、お前にしか出来ない案件だ。しっかりやってこい」とだけ言って去っていた。
 その時は、単なる激励の言葉だとばかり思っていた。だが時間が経てば経つほど、随分とその印象は異なってきている。
 三代目とは確かに近しい方ではあったが、それにしてもあのような場所で、あのように出掛ける直前に声を掛けられたことなど、これまで一度たりともなかった。
 あれは本当に偶然だったのだろうか?
(いや、違う)と即座に否定する。
 考えれば考えるほど、里長は明らかにこうなることを予測した上で言っていたのでは、と思えてならないのだ。
 自分がどうあっても譲れない理由は、そんなところにもあった。
 そして改めて彼の経験と、そこからくる洞察力は流石だと思う。何ひとつ知らされていないにもかかわらず、もうはや上層部が全てを知った上で我々部下に後を託してこようとしている事に気付いている。自分など、あの火影の一言がなかったら、本当に真っ先に里に忍鳥を飛ばして、事の真意を問いただしていたところだというのに。
 彼はそれだけ、自分などには到底想像もつかないような過酷な任務をこなしてきている、ということなのだろう。
(それでも、俺にしか出来ないことが…)
 本当に、あるのだとしたら。
 火影はあの時、『安易に一人だけで全てをこなしてしまおうとするカカシを抑制し、更に彼の長所を最大限引き出して、二人で協力して今回の水面下での揉め事を可能な限り丸く収めてこい』ということを、暗に言っていたのではないだろうか?
 着任前に全てを洗いざらい表沙汰にしなかったのは、もし任務に失敗した場合も「何も知らされてなかった」と言えた方が俺達にとっては楽だろうし。それに、何より…
(…全容を聞いたが最後、彼が作戦に非協力的になるかもしれないと、危惧したから…?)
 受付にいると、日々色々な話が耳に入ってくる。噂では、彼は気に食わない共同任務において、時折途中放棄や命令無視などの行動に出る事があるような話を漏れ聞いていた。
 並外れて優秀だが、様々な理由から他人を信頼しなくなっている部下を、火影が共同任務を通して何とか変えていこうとしているのでは…? とふと思う。
(なのに、そのカカシさんとは、暫く会えそうにない…か…)
 多様な術を自在に扱える頭の良い彼となら、安直に人の命を奪うというような決着ではなく、きっと何か他に名案が浮かぶはずなのに。
(もっと…、もっと話しがしたい…)
 そしてはたけカカシという人物を、もっと知りたい。
(はは…「お前から始末するぞ」、か…)
 その時になって初めて、先程カカシに面と向かって言われた言葉が、いつになく堪えていたことに気付く。
 そんな脅し文句や罵声など、つい意地を張り通してしまうこの性格から、これまでも数え切れないほど浴びてきている。二十歳にもなった今となっては、もうすっかり慣れたものだ。
 なのに、あの上忍の喉の奥深くから絞るような一言は、なぜか効いた気がした。
 勿論、どすんというほど堪えたわけでもない。だがなんだろう。鋭く尖った細いものが、とん、と胸に刺さったようなこの感じ…。
 それに思い至ると、何となくだが落ち着かなくなった。
 刺さった見た目は地味で目立たなくても、傷は案外深い所にまで達していそうな、そんな気がした。









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