話し合いを始めてから十数日が過ぎているが、上忍はどんなに自分に対して苛立っていようとも、決してその強大な力でもって自分を強引にねじ伏せ、言うことを聞かせようとはしてこなかった。
 それは口論になるとすぐに手が出る、気の短い里の荒くれ者達とは大きく異なっていた。また以前から耳にしていた、彼に対する芳しくない噂とも違っている。
 カカシは、本当に妙見を殺す気になれば、自分の言うことなど頭から無視して早々に実行に移し、幾らでもその事実を揉み消せるだけの実力を持っているはずだ。
 なのにいつまで経っても仕掛けてこようとしない。いや、今しがたああして仕掛けてはきたが、途中まではどこか俺に逃げ道を残すような言い方をしていて、明らかに本気でなかった。
 太刀筋も甘く、あの燃えるように紅い左目も、最後まで額当ての奥に隠したままだった。
 それは即ち、誰かを殺めようなどという気が無かったことの現れではないのか?
(やはり、同胞、だから…?)
 脳裏にくっきりと浮かんだ上忍の、色の違う双眸を、心の奥底からじっと見つめる。
(それとも何か、もっと別の理由…?)
 自分と向かい合っている時、彼はいつも内側で苛立っているように見える。けれどそれは、ただ単に強情な自分がいつまでも彼の言う事を聞かないからだけでもないように思えた。
 イルカは、(上忍は何かを吐き出したくて懸命に足掻いているものの、彼自身もそれが何なのかよく分からなくて苛立っているのでは…)と漠然と思った。



     * * *



「――お前、その黒髪の男の気持ちを、随分とよく分かってたんだな?」
 忍路が向かいの銀髪の男を、真っ直ぐ見つめる。この一連の昔話をしてくれるようになってから、かれこれ六度目の訪問にを数えていた。
 忍路は覆面男の話す忍の世界にすっかり呑み込まれていて、彼の来訪を今日か明日かと一日千秋の思いで待ち侘びている。
 彼が途中でふっつりと訪ねて来なくなってしまう事態を恐れ、あれからは大きな揉め事も起こしていない。紫奴の登用も渋々ながら許された今は、文武に励み、文字通り「大人の振る舞い」に徹している。
 すると、覆面男は何の前ぶれもなく夜更けにふらりと現れては、来た時と同じように途中で話を終えて消えていくようになった。
 数ヶ月、時には半年近くもの間姿を見せない時もあれば、数週間で続きを聴ける時もある。
 だが、今回半年ぶりに訪ねてきた彼は、外見には目立った変化はなかったものの、なぜか随分と気易い空気をその身に纏っているように思えた。
「ぁ? …あぁ、…そうだな。…まっ、二十年近く経った今だからこそ、そう思えるということだ。当時は分からなかった」
 男は自分の質問にもいつになく真剣に答えてくれている気がしたし、常に自分をどこか遠くで突っぱねているようだった、独特のよそよそしい空気も殆ど感じられない。
 それどころか、この日は男の方から意外な事を話しかけてきていた。

「忍路様」
「何だ」
「若様には将来、戦のない平和な世を作っていって頂きとうございます。我々忍同士が憎みあい、殺し合うことのない、平穏な世の中にして頂きたいのです」
「あぁ…そうだな、本当にその通りだ」
 男が長きに渡って語り、聞かせてくれていた言の葉の数々を思い出しながら、深く頷く。
「分かった。オレが城主となった暁には、最大限尽力しよう。ただそうすると、お前達忍の存在理由までが大幅になくなっていく事になるかもしれないが、それでもよいのか?」
「結構です。忍は人を殺めるだけが生きる糧ではありません。我々は医療や護身術を始め、多種多様な術を身に付けております。贅沢さえ望まなければ、生きるには困りません」
「なるほど。忍とは実に頼もしい者達なのだな。いいだろう、約束する」
 もう青年といっていい面差しの若き次期城主は、しっかりと一つ頷いた。
「平和な世が長く続けば、おのずと忍の数は減っていくでしょう。でも、きっと、それで良いのです」
 いつになく力強い男の言葉には、一片の嘘偽りもないと忍路は思った。

 男の去り際、忍路が後ろから「城内の者達がなぜあれ程までにお前達忍を忌み嫌うのか、本当に理解に苦しむな」と、声をかけた。

「―――…」

 だが彼は、一瞬立ち止まって何事かを言うべくじっと黙考したように見えたものの、結局はそのまま振り返ることなく去っていった。



     * * *



「――どうも、ご無沙汰しております。お変わり無いようで何より。…さぁて、どこからでしたっけねぇ」
 銀髪の男が次に忍路の元に訊ねてきたのは案外早く、数週間後だった。
「何と、もう忘れたと申すか? お前が例の黒髪の男と戦って、物別れに終わったところからだろう?」
 先日の話はいつも以上に興味深かった。その続きがこんなにも早く聞けるのかと大いに胸を高鳴らせていただけに、城主は少なからず拍子抜けしながら指摘する。
 男の話には一言一句たりとも聞き逃すまいと、毎回全神経を傾けている。五年も前に男が最初に話した内容ですら、自分は昨日聞いた話のように子細に思い出すことが出来るし、忘れることなどあり得ないだろう。きっと、この先一生涯。
「――あぁ…? そう言えば、そうでしたね」
 そんなこちらの思いに気付いているのかいないのか。男はいつもの飄々とした調子で答えると、その場にゆっくりと腰を下ろした。すぐに自分も少しだけ距離を取って向かいに座る。胡座をかく姿も、以前よりは様になってきたのではと自負している。
 二人が向かい合う度、季節は着実に移り変わっている。
 今回は中庭の金木犀の福与かな芳香が、二人の間を静かに埋めている。
 いつ会っても右目だけしか見えていない男の様子に目立った変化は殆どないが、自分は最初に出会った頃と比べると随分と背が伸び、声もがらりと変わった。こうして向き合って座るたび、目の高さも着実に近付きつつあり、今や殆ど同じ高さだ。
 男は暫くの間目を細めるようにしながら黙ってこちらを見ていたものの、「…では今度は、その時の私の考えでもお話しましょうかねぇ」と、半ば独り言のように呟いた。
 青年は、男の落ち窪んだ下がり気味の目元が、いよいよ自分のそれに似てはいまいかと指摘したい思いに囚われつつも、「ああ、頼む」とだけ短く答えた。



     * * *



 中忍が鮮やかに逃げ去った後、上忍は彼を捜すことなく、自身を雇っている城主の元へと戻っていた。
 隠遁術に長けた男だ。探しても簡単には見つからない所に潜んでしまっているであろう事は、容易に察しがついた。
 当時すでに身に付けていた口寄せの術を使って、忍犬に探させることは雑作もなかったが、いま居場所を突き止めたところで、彼の口から自分が納得のいく返事を聞けるかと言えば、それもない。
 それに自分は、明らかに平常心を失っている。暫くは顔を合わせない方がいい。
(いつまでも、手間をかけさせるな…)
 一度はすっきりしていたはずの胸の内も、そう思うと心が波立った。顔を思い浮かべただけで、言葉に出来ないじくじくとしたものが胸に広がっていくのがわかる。
 イルカを信用させるような芝居を打った時、彼はいかにも安心したような表情を見せていた。にもかかわらず、彼は裏では上忍襲撃に対する完璧な備えを施した上で、今や遅しとオレを待ち受けていた。
 それは即ち、イルカが自分の発言をはなから疑ってかかっていたという事だ。
(ふふ、傑作だ)
 奴は最初から、オレのことなど欠片も信じてはいなかった。
 勿論、少し冷静になって考えてみれば、今まであれ程激しく言い合っていたのだから、当然と言えば当然だったのだ。
 なのにあろうことか自分は、いつの間にかイルカという男を頭から信じてしまっていた。いや、信じ込まされてしまっていた、というべきか。
 彼もまた、純然たる忍だったのだ。
 いや、本当に重要なところでは、上忍のオレなどよりも更に己の心理を悟らせない、人を欺くという部分にかけては、上忍すらも上回る忍だったのだ。
 爆発的な力も、多種多様な術も持っていない、忍としては凡庸に見える男がいつしか身に付けたものとは、したたかな精神力だった。
(やって、くれるじゃない)
 もう既に依頼主の意向など、半ばどうでも良くなっていた。
 アイツを、うみのイルカを、是が非でもねじ伏せたくなっていた。今ここに、彼を屈服させたい。
 ごく有り体に、例えば今この胸を切り開いて見せたなら、多分そう書いてあるはずだ。
(は、まともじゃないね)
 オレはまともじゃない。こうして自覚までできるということは、かなりの重症だ。ひょっとすると、いよいよ自分はどこかおかしくなってきているのかもしれないな…と思う。
(幻術使いが、己に振り回されているとは)
 情けなくも嗤えた。
 そして(自分はなぜあんな中忍一人に掻き乱され、身動きがとれなくなっているのか)と思うたび、どこにも出口のないわだかまりがささくれ立って、己の内側を転がり回った。



     * * *



(ぁ…)
 ここのところ、気分が昂ぶって連日殆ど眠れていなかったせいだろうか。
(ぁぁ……止んだ…か)
 夕刻になって小屋の片隅で目覚めると、思いのほか気持ちが凪いでいることにカカシは気付いた。明け方、すぐ近くで聞こえていた雨音も、今は随分と遠い。心の耳を塞いでいたものが無くなったかのように、胸の辺りが軽くなっている。
 そうなると不思議なもので、一晩かけて落ち着きを取り戻した上忍は、昨夜のことを思い巡らすうち、何故か無性にイルカに会いに行きたくなっていた。
 決してねじ伏せたいからではない。顔が見られればそれで良かった。そんな些細な要求に、はっきりした理由があるとも思えない。とにかくまた自分を見失ってカッとなる前に、こうして少しでも穏やかな気持ちでいる間に、あの男に会っておきたかった。会って何を話すのかとか、そう言うことは今は考えたくなかった。もしも一旦考え始めたなら、また幾らもしないうちに胸の奥を細い爪先が引っ掻きそうな気がした。
 夕べのように抵抗しないで、逃げないで、隠れないで、この間みたいに穏やかに微笑んでいてくれればいい。
 オレを苛立たせて煽るような事を言わずに、そこに居てくれさえすばいい。
 そうしたら何も起こらないまま、穏やかな気持ちでまたここに戻って来れるはずだ。
 奇妙なことに「そんな生ぬるい行為に、一体何の意味があるのか」と、思い至る事すらなかった。
 その時「自分はいま、とても落ち着いている」と思っていたが、実はかなり高ぶっていたのかもしれない。
 オレは簡単に身仕度を整えると、夜の帷が降りるのを待って、すっかり通い慣れた凍てつく樹上の道を、妙見の古城へと向かった。









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