年々台所事情が苦しくなってきているという妙見の古びた平山城は、イルカの目から見ても様々な箇所にほころびが出始めていた。実用的でないために、最近ではすっかり見かけなくなった旧式の建築様式が、まだ随所に色濃く残ったままになっている。
 それだけに趣きのある古城と、それを頑なに守り抜こうとする妙見をイルカは好ましくも思っていたが、外からの侵入者に対しては無防備なところが多すぎるため、守る側としてはとても厄介な城だ。
 しかも財政難のため、改修もままならない。更に間の悪いことに、今の相手は名だたる上忍ときている。よってイルカは、城の随所に幾つものトラップを入念に仕掛けていた。
 頭のいい忍なら、まずここを通るに違いないと踏んだ箇所に、侵入を知らせる仕掛けを幾重にも施した。当然ながら殺傷力のある仕込みはしていない。まずは彼が来たことさえ分かればいい。
 昨夜、未明にカカシが襲撃に訪れた際も、そのトラップのごく微かな振れにより、先手を打つことが出来ていた。
 同じ木ノ葉だからといって、決して気を抜いてはいけない。甘えてはいけない。
(あの人には、本当の本気しか通じないんだ)
 例え忍同士の意地の張り合いだったのだとしても、本気の張り合いだ。これまでも気を抜いていたつもりは毛頭無いが、絶対に半端なことはしたくない。
(先手さえ打てれば、例え上忍相手でも何とか出来る。いや、やるんだ、何としても)
 天守閣二層目の甍の波の端に立ち、遥か上空を仰ぎ見る。
 だが月は厚い雲に覆い隠されて、その居場所すら定かではなかった。



 巨大な垂木とくすんだ屋根板に囲われた粗末な屋根裏へと、イルカが冷えきった体を休めに戻ってきたのは、夜半前のことだった。
 周囲に不審な気配が無いことを慎重に確認して、狭い階段を上っていく。
(?!)
 が、それまで滑らかだった動きが、部屋に上がったところで凍りついていた。
 狭い部屋の片隅に、人がいた。
 消炭色の厚手の支給マントを羽織り、小さく屈んだまま、真っ暗な中からじいっとこちらを見上げている。
(な…っ)
 訪問者は、未明に戦ったばかりのはたけカカシその人だ。

 イルカは完全に不意を衝かれ、早鐘を打つ鼓動を抑え込みながら、素早く考えを巡らした。現在両者は味方であって敵でもある、とても微妙な間柄だ。
 昨日の今日ということからしても、やはりこれは再度の襲撃と解釈するのが妥当ではないか、という気もする。ただそれにしては、全く殺気が感じられないような…?
(何をしに、来たんだろう)
 彼の目的が読めず、知らず心が身構える。つい先刻まで、「早く彼と話し合いたい」などと思っていたことも思い出せないほど、神経が張りつめている。
「こん、ばんわ。…その、なにか…」
 出来るだけ穏やかな声で切り出したが、問いかけそのものが、もう既にぎくしゃくしてしまっている。
「――心配するな。何も仕込んじゃいない」
 カカシがマントの下で片膝を抱えたまま、目を合わさずにぼそりと呟く。彼のトラップを警戒して、会話から探りを入れ、時間を稼ごうとしていることを、すっかり悟られている。
「―――…」
 そう言われたからには、入らないわけにもいかない。
 イルカはあれこれ詮索するのを止めて内側でそっと大きく息を吸うと、ままよとばかりに狭い部屋に足を踏み入れた。


「なに」
 部屋の中央に置かれた灯明皿に明かりを灯したあと、何ごとか言いたげながらも口ごもっている風のイルカを、カカシが促してきた。
「…そのっ、トラップは…?」
 つい今し方も、より一層の拡充を図ったつもりだった一連の入念な仕掛けに、この上忍は掠りもしなかったというのか? イルカは半信半疑のまま問うた。
「――ああ、あったな」
 それがどうしたと言うでもない、ただふっと思い出したというような返事が返ってくる。
 咄嗟に適切な言葉が浮かばず、イルカは再び押し黙った。
 彼は城内に張り巡らせたトラップなど、以前からとっくに気付いていて、昨夜は故意にかかっていたのではないか。
(わざと自分に先手を取らせて、互角にしようとしていた…?)
 改めてイルカは、彼が自分の物差しなどでは到底計りきれない、図抜けて優秀な忍なのだと痛感した。



 訪ねていった中忍の目元辺りに、落胆とも失望ともつかない複雑なものがごく僅か浮かんでは消えていくのを、上忍が黙したまま見つめている。
 イルカが灯した灯明皿の火芯がちりちりという音だけが、三畳ほどの狭い部屋に大きく響いている。
「トラップは良く出来ている。悪くない。でももう仕掛けるな」
「――――」
「仕掛けても意味はない」
「…はい…」
 イルカ自身そうだろうなと思いながらも、それ以上返す言葉が見つからない。
 が、続いた上忍の問いに、思わず小さな声が唇をついて出ていた。
「お前は…オレのことが怖いか?」
「――ぇ?」
 いきなり何だろうと思いつつも、イルカはすぐに首を横に振った。虚勢ではない。同じ里内で災厄を乗り越えてきた木ノ葉の忍だ。怖ろしく手強いとは感じても、怖いと感じたことはいまだない。
 するとカカシは何を思ったのか、左側に下がっていた額当てをいきなりぐっと持ち上げた。瞬間、何かを考えるより早く、殆ど本能から無意識のうちに身構える。
 薄暗がりの中に、日頃から露わになっている灰青色の冷えた瞳からは全く想像のつかない、あの燃えるような緋色の瞳が現れた。
 瞳の縁を髪と同じ白銀の睫毛が取り巻いたそれは、濃青色の右の瞳と相まって、不思議なバランスを保ちながらこちらを見ている。
(ぁ…)
 イルカは一旦は身構えたものの、押さえきれない好奇心に負けてまじまじと見つめた。それが危険だと頭では分かってはいても、否応なく魅入られてしまう「何か」が確かにそこにある。
 上忍は額当てを元通りに下ろす際、もう一度念を押してきた。
「本当だな?」
「はい」
 イルカは体をしゃんと真っ直ぐにさせてから、揺るぎない声と共に頷いた。異形ではあるものの、怖くはない。うちは一族でない彼がその瞳を得る事になった経緯は知る由もないが、やはり最初に見た時と同様、強く美しいと思った。
 そもそも死に対する恐怖や、痛みに対する怯えといったものは、日頃の鍛錬と任務経験から大半を克服していて、今ではさほど感じなくなっている。

「急に何を言い出すのかと思ったら…」とでも言いたげな、少しホッとしたその柔和な安堵の表情がこちらに向けられると、カカシはおおよそこれまで感じたことのない、強い衝動を覚えた。
「――交換だ」
「…ぇ?」
「オレを自由に使っていい」
 剥き出しのままそこにあるものを無視することなど、今の自分には到底出来そうにない。 
「? 自由に、とは…」
 意図が呑み込めない中忍は、相変わらず僅かに首をかしげている。
「お前の思うようにだ。例えばお前なら、オレを使ってこの一件にどう決着を付ける?」

 話してみろ、という言葉に、中忍は思わず口ごもった。まさかこの上忍は、自分が折に触れつらつらと思案していた内容まで、すっかり見通しているのだろうか。
(カカシさんを、使って…)
 そもそも何故突然、こんな手の平を返したような事を言いに来たのだろう? 分からない。一体この上忍は何を考えているのか? 今言ったことは、全て本気なのか? なら夕べの襲撃は、一体…?
 昨日までは「ある程度読めている」などと思っていた彼の心の内も、実は何一つ分かっていなかった。

「嘘はつかない。お前の考えている、その策の通りに動いてやる」
 忍としての警戒心を敏感に察知したカカシが、もう一度噛んで含めるように言った。が、その言葉の端々には、早くも僅かながら苛立ちが見え隠れし始めている。
(いけない)
 直感的に思った。このままではいけない。
 この人はいま勇気を出して、こちらに一歩踏み出そうとしてくれているのではないだろうか。だとしたらこんなにも有難く、心強いことはない。彼がなぜそう考えるに至ったかは知る由もないが、もしそうならば、これでようやく火影の命に従うことが出来る。
「本当ですか? 本当に、協力して下さるんですね?」
 上忍は俯き加減に少し目線を逸らして、「ああ」と小さく答えている。
「ありがとうございます! ありがとうございます、カカシさん!」
 良かった、これで無意味に血を流さずとも済む。上忍と納得いくまで話し合い、最善の道が模索できる。
「――では、早速ですが…」
 イルカは、今まで幾度となく脳裏に思い描いてきた策をカカシに打ち明けた。そしてそれをより完璧に遂行するためにはどうすれば良いか、繰り返し様々な角度から意見を求め続けた。



 灯明皿に幾度も油を足しながら、数刻にも及ぶ長い話し合いが続いている。
 イルカが打つと、上忍は即座に響いた。但し、決して多くは返してこない。聞かれた事にだけ、上忍は淀みなく短く答える。
 カカシは術に対する幅広い知識は当然のことながら、柘植の広大な城内の見取り図や警護の者達の配置、交代の時間、警護の手薄な箇所に至るまで、実に正確に記憶していた。
 難しい判断を仰げば、すぐさま驚くほど客観的で冷静な返答が返され、策はより完璧なものへと形を変えていく。
 改めて、そんな男を敵にしていた己の無謀さに、ぞっとしていた。
 今までのぶつかり合いは一体何だったのかと思うほど、密談は粛々と進められていった。









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