「――さっ、今夜はこれくらいにしときましょうかね」
 銀髪の男が、実にあっさりと話を区切ってきて、忍路はそのいきなりさに思わず抗議の声を上げた。
「なんと、もう少しいいではないか。そんな中途半端なところで区切る奴があるか」
「中途半端じゃありませんよ。私の中ではちゃんと区切りがついてるんです」
 男は先日垣間見せていた真摯な態度から一転、以前と同様の、ちょっと突き放すようなすげない態度をとる。
「ならその密談の後で、お前がどうしたのかだけ聞かせてくれ。そのまま帰ったのか? それともそれらはまた、黒髪の男を油断させるための芝居だったのか? どうなんだ?」
「さぁて、どうなんでしょうねぇ」
 もうこれ以上喋る気はないのか、男の声音には明らかにからかうような色が含まれている。
「お前はそうやって、いつまでもオレを子供扱いするんだな。気に入らぬ」
「おや、実際子供じゃないですか」
 言葉の端々に笑いを滲ませながら、男はそのまま聞く耳持たずといった調子で立ち上がる。
 その背中に、忍路の問いが投げかけられた。
「おい、お前はもしかして……その黒髪の男のことが、――好き、だったのか?」
 途端、忍路に背を向けて立ち去りかけていた男の足が、ぴたりと止まった。
「ははっ、やはりそうなんだな? いや、実はオレもその黒髪はなかなかにいい男だと思っていたのだ。出来ることなら友と呼べる仲になりたいくらいにな。同じ男として、尊敬に値するよ。だからお前も、その先の記憶は自分だけのものにして、誰にも話したくないのだろう? でももうここまで話したのだ、今更勿体を付けて隠さずとも良い。いっそ全部話していけ」
 忍路が畳みかけると、男はやれやれといった様子でため息混じりに振り向いた。
「ったく…言ってくれますねぇ」
「もう子供ではないと、言っただろう」
 立ち去りかけていた男が踵を返してその場に座り直すと、城主はまるで子供のような歓声を上げた。



     * * *



「さてと…。ここまで綿密に練れたなら、もう何の心配もいりませんね。後は実行あるのみ」
 忍にしては随分と他者との距離を短くとっている男が、満足げに頷いている。
「…ぁ? ――ああ…」
 目の前の光景と、古い記憶とが幾重にも重なりあった中から、意識の頭をゆっくり持ち上げながら応える。
 忍になったばかりの頃のことなど、もうとうに忘れたと思っていたのに。
「――これもみんなカカシさんのお陰です。ありがとうございます」
 イルカが下げた頭の上で、真っ直ぐな黒髪が揺れている。どうやら終わったらしい。
 訊かれたことには全て答えた、はずだ。一点の警戒心もない、自分を味方として信じ切っている真っ黒な瞳がこちらを見つめている。瞳は灯明皿の小さな灯りをくっきりと映し込んで、濡れて艶やかな漆黒の輝きを放っている。
(この男が持っている「黒」は、オレの黒とはまるで違う…)
 その黒はあらゆる色を含み、反射せず、この世に溢れる無限の色彩と調和できる。容赦なく浴びせられるどんな強い光も受け入れるのに、それでも尚深く静寂に満ちて、決して褪せることがない。
(例えばオレが、この左目で見てきたもの全てを、この男に全部見せたとしたら…)
 この男の黒は、果たしてどんな色を帯びるだろう?

「――俺、カカシさんのこと誤解してました。すみません」
 イルカが俯いて鼻梁の傷を掻きながら、何か言っている。
 鼻梁を跨ぐようにしてくっきりと引かれたその一文字の古傷は、己の左目に付いているそれと同じだ。
 他人からはとてもよく見えるのに、自分は決して見ることが出来ない。
「あぁ――そう」
 遠くに彼の言葉を聞きながら、目の前の男との距離を詰めた。



     * * *



「っ?!」
 何の前触れもなく、マントを羽織ったまま唐突に自分との距離を縮めてきた男に面食らったイルカは、大きく体をのけ反らせながら板間に尻餅をつくようにして倒れた。後ずさっている暇などない。
 もっとも、じっとしていても圧迫感を感じずにはいられないほどの小部屋だ。下がったところでたかがしれていたが、カカシは息もかかろうかという所まで屈んでくると、片膝立ちのままじっとこちらの瞳をじっとのぞき込んでくる。
「? …あの…?」
 眉を寄せ、ぱちぱちと瞬く。男は見下ろしてくるだけで、何も言おうとしない。
(もしかして話に夢中になっていたせいで、色々と気が回りきらなかったことがあったのかもしれないな)とあたりをつけて起き上がろうと身じろぎした時、息を呑んだ。
(!)
 彼の白い指先が、黒い口布を引き下ろしていた。けれどそこに現れた、思いのほか整った造作に気を取られていたのもほんの束の間。すぐに骨張った手指が両頬をきつく挟んできて、その余りの冷たさと行為の不可解さに体が無意識に竦んだ。
(っ?!)
 ほぼ同時に唇に感じた、柔らかくて温かな感触。
 心臓が早鐘を打ち出し、動けるはずの四肢が役目を忘れたように固く強ばる。その間にも、唇は生温かいものにゆっくりとなぞられていく。
(なっ、何を…っ)
 自分が何をされているのか、もう頭ではわかっている。なのに理解できない。固く目を閉じ、ぎゅっと口を引き結んだまま、体が動かない。これは本当に、現実に起こっていることなのか、余りのことにそれすらあやふやだ。
 喉の奥でくぐもった声を上げながら、真っ白になった頭のまま夢中で腕を突っ張る。けれどその手の動きはひどくぎこちなく無軌道で、一通りの体術を会得している者のそれには程遠い。
 ようやくカカシが唇から離れていくと、イルカははあはあと荒い息を継いだ。
(かっ…、からかって…)
 強い力で両頬を挟まれたまま、一言も説明のない目の前の上忍を睨んだ。今の今まで真剣な話をしていたというのに、一体なんなんだと思う。この手の冗談はあんまり好きじゃない。手の甲で口をぐっと拭う。
 だが、改めて間近で見たカカシの表情は、とてもふざけているようには見えない。
 彼の通った鼻筋の下で、薄目の形の良い唇が濡れて光っているのを目にして、思わず視線を逸らした。
 灯明皿の灯りが不規則に揺らいで、屋根板に浮かび上がった二つの影を激しくちらつかせている。
「離して、下さいっ」
 ぐっと顎を引き、自分の頭を拘束しているカカシの両腕に手をかけた。負の感情は極力抑えたつもりだったが、焦りや不安は完全には消しきれずに、言葉の端々に出てしまう。
「怖いのか?」
 掛けられた問いは短かく、意味不明もいいところだったが、動転している若者の心を煽るのには十分だった。
「いいえっ」
 勢いのまま、殆ど反射的に返す。何だか妙に心外だった。「こんなことでいちいち動揺しているようでは、一緒に任務など出来ないぞ」と言われたような気がした。(もしや自分は、試されているのか?)という思いも捨てきれていない。
 だが上忍が再び唇を重ねてくると、その口づけは一段と熱っぽく、不覚にも混乱の度合いが増していく。ひたすら固く目を閉じて、カカシの両腕を掴む。
 忍の世界の上下関係は絶対だ。上の命令には服従しかないと頭ではわかっているが、これまでも納得できなくて幾度となく抗ってきている。
 なのにどういうわけか、この男だけはどうしても突き放せなかった。それをいいことに、上忍はどんどん踏み込んでくる。
(くそ…っ)
 麻酔でも打たれたように、徐々に動かなくなっていく頭の隅で朧気に思う。
 ――怖いか?
 ――怖くない。
 そんなやりとりだけで、関係が成立するとでも?
 突然こちらに向かって賽を投げつけておいて、「お前を信じているから、オレの好きな数字を見せろ」だと?
(…ちくしょ…っ…)

 カカシの舌が歯列をなぞり、上顎をくすぐり、口内深くに侵入してくると、混乱でますます体が竦んで言うことをきかない。
 任務中どんなに危険な目に遭っても、ここまで動揺することなどなかった。己を見失わないことにかけては、少なからず自信があったのに。
 その矜持を、目の前の男が滅茶苦茶に踏み散らかしている。
 縮こまっていた敏感な舌が何かの拍子にカカシの舌に触れただけで、体に言いようのない感覚が広がった。体の奥底から妙な波が沸き上がってきて、そのたびに背筋がぶるりとなる。
(っ!)
 だが、カカシの冷えた右手が脇腹に直に触れた瞬間、どこか弛みかけていた体が、ぎゅっと一気に固まっていた。その冷たさと言いしれぬ不安感に背中がぞくりとして、思わず上忍の腕を掴んでいた手に力が入る。
 それでもほっそりとした指先は、粟立つ肌から熱を奪いながら、強引に上へ上へと這い上がっていく。
 やがて胸の辺りに感じた、今までと全く違う別の衝撃に、思わず喉の奥で息を呑んだ。そんなところに自分が反応するなどと思ってもみなかった分、抵抗感は大きい。
「ゃ…めろ…!」
 カカシの唇を振り切って、息継ぎの合間に極力小声で訴える。こんな事をされるくらいなら、トラップにわざとかかられて振り回されている方がまだましだ。
「…ぁっ…くっ…!」
 しかし、イルカが抵抗の言葉の中に抑えきれない反応を見せはじめると、もはやカカシはどれだけ胸を叩かれ、押されようとも苛立つ気配を見せなくなった。代わりにもっと集中しろと言わんばかりに、胸の飾りをまさぐってくる。
 イルカが少しでも拒否の言葉を口にしようとすると、即座に唇を塞がれて何もかも呑み込まれてしまう。
 いつの間にか額当てが床に転がっていた。高く括っていた髪も解かれ、髪の中に深く差し入れられた長い五本の手指が、黒髪をしっかりと掴んで離さない。
 そのせいで、もう片方の手がするりと下衣の中へと滑り込んだ時も、腰だけが跳ねて殆ど頭は動かせなかった。
 不覚にも勃ち上がりかけていたものを、いきなり下衣の中で上下に扱かれて、背中から弾けた。
「はっ…!」
 目眩がしそうな、得も言われぬ感覚が自分を支配している。腰から下の快感が、まるで自分のものではないかのようにひと扱きごとに増していく。体が勝手に屈曲してくるのを抑えられない。
(ぁ! …ぁっ! ぁッ!)
 頭の中では、慣れない快感に抗えない自分が断続的にあられもない声を上げている。でもそれを声にして咽から押し出すことは、欠片となった理性が未だに許していない。
 こんなことに流されてなるものかと、奥歯を食いしばった。幾ら一緒に任務を行う上忍でも、こんなのは違う。絶対に屈したくない。
 なのに体を冷たい板間に横たえられ、あっという間に下衣を取られて、双丘の谷間に長い指が差し入れられるに至ると、心底血の気が引いていた。
「…な…っ、なにを…っ!」
 その先に何が起こるかくらいは、いかな奥手のイルカでも分かる。ぬめる液体を体の内側に塗りつけられているような不快な指の動きと、言いようのない異物感に、全身の筋肉を撓め、体をよじった。
 けれどイルカが出来たのは、僅かにそれだけだった。









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