数分後、太い薪にも火が燃え移って、ぱちぱちという音と共に煙が上がりだすと、オレは何度も咳き込みながら目が痛いと訴えた。
「え? あっ、すみません! まだ少しナマだったみたいです」
 慌てて窓を開けに立っているが、イルカ自身は慣れているのか、何も感じていないらしい。この強烈な煙に慣れるなんてことが、果たしてあるのかはわからないが。
 何度も目を擦り、瞬きを繰り返していると、突然足下でパーンという大きな破裂音がして、反射的に身を竦める。
(なっ…?!)
 一体何事かと見れば、ピンポン玉ほどもある真っ赤な火の付いた炭の塊が数個、板間を転がっている。
「やっ、ちょと、危なっ!」
 だがイルカはそれを火箸でちょいとつまむと、何ごともなかったように囲炉裏に戻している。だが幾らもしないうちに、また大きな音がして別の方向に真っ赤なヤツが転がっていく。
(よく火事になんないねぇ)
 まぁ木の扱いにはそれなりに長けているみたいだから、同じくらい火との付き合いにも慣れてはいるのだろうが、ズボンや足に焦げ跡なんて真っ平ゴメンだ。じりじりと後ろに下がって足を引っ込めた。
 そうこうしているうちに、自在鉤にかかっていた真っ黒な鉄瓶からゆっくりと湯気が上がりだし、これだけの大騒ぎの末に一体何を成し得たかというと、一杯の茶が入っただけだった。



   * * *



「――あ、いけない。もうこんな時間か。…じゃ、そろそろオレはこれで。どうもありがとね」
 ふと見た腕時計が三時を大きく回っているのを見て、オレは慌てて礼を言うと、三脚をたたみ、散らばった荷物をリュックにしまうべくかき集めだした。早く下山しないと、あんな細くて鬱蒼とした獣道など、すぐに足下が見えなくなってしまう。
「ごめんね、お昼ご飯も食べないまま付き合わせちゃって。お腹空いたでしょ? ゆっくり食べて」
 カメラからストロボとレンズを外し、ソフトケースに詰めながら喋る。
「…あのっ…!」
 急な言葉に脇でイルカがにわかに慌てだしているのは分かっているが、とりあっている時間はない。
「その……ちょっと、…待って…」
 ただ、これは余計なお世話だなとは思いつつも、黙っておくのも悪い気がしてつい念押ししてしまう。
「あのね、今回取材させて貰うにあたって、三代目にまとめて謝礼金を支払うことになってるから。もし三月たっても何も言われなかったら、あんたにもその権利はあるんだから、ちゃんと請求してね」
「ちが…、そんなの、いりませんっ!」
 いきなり大きな声を張り上げた男に、今度はこちらが驚いて呆気にとられたまま顔を見る。
「いらないって…」
「いらないんです。三代目と約束しましたから」
(はあ?)
 なんでそこまでムキになってきっぱりと言い張るのか、訳が分からない。
「約束って…あんたね、幾ら何でも人が良すぎるよ?」
「違うんです、私が三代目に無理を言ってお願いしたんです。あなたを…そのっ…畑さんをこのまま返さないで下さいって」
「…ふうん? 何だかよく分かんないけど、やっぱり君が三代目に口添えしてくれてたんだ」
 板間に正座した男が、こくりと頷いた。


「――でっ? 今度こそは洗いざらい話してもらうよ? なんかおかしいなとは思ってたけど、一体なんなの?」
 そうこうしている間にも、縁側のガラス越しにびっしりと林立する巨木の上に輝いていたはずの太陽が山の向こうに入りかけているのが見えて、単刀直入に訊ねる。
「あのっ、本当は最初に言わなくちゃいけなかったのですけど、どうしても言い出せなくて…。すみません、実はその…お願いが、あって…」
「お願い? オレに?」
 俯いたまま言葉に迷ってなかなか前に進んでいかない男に内心で苛立ちながら、急かすように早口で返す。
「それってさ、オレを出来るだけ長くここに引き止めて、下の村には来させるなって、三代目に言われてるから?」
「そんな、違います!」
「じゃなによ。早く言って」
 ったくまだるっこしいな、と思った時だった。まるでそんな心の声が聞こえたようなイルカが、意を決したように片膝を立てるとすっと立ち上がった。そのまま板間を横切って、簡素な家の造りからすると意外なほどスペースが取られて少し浮いて見えるほどの仏壇の前に行き、神妙な顔をして手を合わせると、仏前に置かれていた風呂敷包みを持って戻ってくる。
 深い藍色に染まったその包みを、イルカが大事そうにそっと解いているのを、訳も分からずじりじりしながら待った。
(……は?)
 だが、中から現れた50センチほどの塊を見て、オレはより一層眉根に皺を寄せた。
「仏像?」
 しかもそうと分かったのは、四角柱の側面全てに大まかな仏の絵が墨で描かれていたからで、姿形が彫られていたからではない。
「はい。まだ木取りの段階なんですが」
「これが、どうか?」
 妙な肩透かしを食らってどうにもスッキリしないまま、真っ平らで重さだけはかなりありそうな、のっぺりとした四角柱を見下ろす。
「実は数年前から合間を見ては仏像を彫っているんですが、今回初めて観音様を彫ろうと思い立ちまして」
「――はぁ?」
 唇から漏れた気の抜けた声には、毛筋ほどの感慨も混じってはいない。イルカには悪いが、神仏の類など何の知識もない。せいぜい義務教育期間に教科書で眺めていた程度のものだ。しかも興味に至ってはゼロどころかマイナスといっていい。ひたすら内心の苛立ちを押さえつつ、黙することでイルカを促す。
「ただ、以前からそうなのですけど、どうしても仏様の手を納得いくように彫れないでいるんです。村の人達の手も幾度となく見るのですけど、そのっ…どうしてもみな荒れていて…。あぁいえ、本当は私の想像力や技術がまだまだどうしようもなく未熟なのであって、皆のせいじゃないのは重々承知しているのですが…。でもっ、畑さんの手を見た時はとにかくすごく驚いて、この人の手こそお手本にするに相応しいって、きっと今までとは全く違った、もっとずっといいものが必ず作れるって、心の底から強く思ったんです」
「なっ…、かん…のんっ?! 手って…?!」
 どうやら会ったときからジロジロとやたらに見ていたのは、オレの手の動きだったらしい。まさかモデルにしようとしていたなどとは、思いもよらなかった。しかも仏像って?!
 思わず見慣れた己の手を見下ろし、そのままイルカの方に視線を移す。
「はい、千手観音を考えているんです。何とかして車の中で話している間に記憶に留めておけないかと思ったんですが、観音様の手は全部で四十二本もありますし、その手全てに何かしらを持っているので、私の拙い頭ではとても追いつけませんで、それで…」
「それで三代目に『あの男をモデルにしたいから、取材を受けてくれ』と頼んだと」
「はい。三代目も最初は駄目だと言っていたのです。でも、どうしても諦めきれなくて何度もお願いして。そうしたら『もし今から行って呼び戻せたなら、それも何かの縁(えにし)かもしれないから取材を受けても良い』と許して下さって…。その頃には畑さんが出られてから随分時間も経ってしまってましたけど、もしかしたら下の川が堰き止めておいてくれるんじゃないかって、もう夢中で」
 イルカは正座した両膝の上に握り拳を乗せたまま、俯き加減で切々と語っている。
(――はーー…そうなのー)
 イマイチ訳の分からない男だとは思っていたけれど、全てを聞いた後でもやっぱりよく分からない奴だと改めて思う。
 そもそも自分には神仏に「祈る」などという行為は、酷く後ろ向きで怠けた行為に思えてならない。そんなことでこの資本主義大国の八百兆円の借金が帳消しになり、貧しい者がすべからく豊かになるなら世話はないのだ。
(山奥で伝統工芸をやってるような職人て、みんなこんななのかね?)
 何というか、多分純粋なのであろうことは分かるのだけれど、向いている方向が今一つ理解出来ないというか、肌に合わないというか。
 そういやあのイビキという男も、タイプは違うがかなり癖がありそうだったなと思い出す。
 でもオレが日頃取材で接している者達は、もっとずっと普通だ。経済動向や最新の技術トレンドに興味はあっても、オレの姿形になど興味はないし。
 そうだ、唯一オレの見た目にだけ興味を示すのは…
(あぁっと〜)
 今まさに芋蔓式に浮かび上がりそうになった面倒な記憶を一気に払い、ばっと蓋をする。
 
「あの、今夜はこちらで泊まっていって頂く訳にはいきませんでしょうか? 大したものは出来ませんけど、食事も、何なら風呂もすぐに用意しますので」
(えっ?)
 これは何やら面倒なことになってきたぞと、すぐにピンときた。自分に合わないことは、ことさら敏感に察知するたちだ。彼の言葉が生理的に受け付けられない。
 彼には悪いが、風呂も食事も寝床も、見る前から何となく想像がつくような気がするのだけれど、それはただ単にオレのイメージが貧困すぎるだけなんだろうか?
「えっと…その…君、一人なんでしょ? 電気もガスもない中じゃ、オレが考えてる以上に君の負担になる気がするからさ」
 一気に陽が陰ってきて、室内が暗くなってくるにつれ、イルカのどこか宗教がかった理解不能の熱心さや、時代錯誤とも思える質素すぎる暮らしぶり、それに蠢くようにざわつきだしている森の深さなどが次々と折り重なってきて、急に居心地が悪くなってきていた。
(そうか、何が肌に合わないか、だんだん分かってきたぞ…)
 何もかもが余りにも有機的で、ウエットで、そして恐ろしくスローなのだ。そういうものに正面から接するたび、背中の毛でも逆撫でされているような気がしてならない。
 それでも、取材という目で見ている分には面白い「題材」だと思えていたが、ひとたびその中で暮らすとなると一転、目の前のフィルターは突然色褪せ、冷えていく。
(早く、下りなくちゃ…)
 三代目の所に泊まるのは無理としても、まだ車中泊する方がいい気がする。或いは車で下の町まで片道二時間かけてでも下りて、旅館かビジネスホテルに泊まる方がよほどマシな気がしだしていた。うん、ホテル案いいよ、かなりいい。いや一番いい。例え睡眠時間を移動時間の往復四時間分削ってでも、温かいシャワーを浴びてネットに繋げて空調の効いた部屋でベッドに横になれるなら、その方が断然くつろげて疲れが取れる気がしてきた。いや、絶対そうだ。それ以外考えられない。
「ごめんね。有り難いけど、気持ちだけ頂いておくよ。色々どうもありがと。本、出来たらすぐに送るから」
 気分としては、もう既に二歩も三歩も後ろに下がりだしていた。あとは実際にその方向に足を向けるだけだ。
 三代目に体を張ってまで話を付けてくれたイルカにはとても感謝している。けれどだからってそんな突拍子もない、時間ばかり無駄に食いそうなことにまで首を突っ込んで協力してやる気など更々なかった。こっちも遊びに来ている訳じゃないのだ。彼もその辺には薄々気付いているからこそ、なかなか話を切り出せなかったのではないだろうか。
(大体、初対面の大の男にジロジロ見られる仏像のモデルなんて、いい気分じゃないし)
 そうでなくとも、つい最近も己の見た目が少なからず原因と思しき面倒な思いをしているのだ。そういうベクトルの連中とは暫く関わり合いになりたくない。

 もう一度ごめんね、と言うと、イルカは一度だけくっと唇を引き結んだものの、小さく「いいえ」と言いながら頭を振った。
 そしてびっしりと睫毛に縁取られた黒曜石のような瞳でもって、荷造りを終えて鞄を提げていたオレの手を、瞬きもせずじっと見つめた。





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