「もし君が、あの頑固な長老に何か口添えをしてくれたのなら、お礼を言わなくちゃね。正直言うと、取材を断られて本当に途方に暮れてたから」
 固まったままの彼の手から、コップを抜くようにして受け取ると、もう一度その中を見た。でもそれは相変わらず何の混じりけも濁りもなく、どこまでもキリリと澄んでいて、間違っても悪いものなど何も溶けていないように見える。
「――ゃっ…、私は…別に、なにも…」
 だが目の前の男は口をもごもごさせながら、そのまま俯いてしまった。
「――そう」
 もう一度、一気に飲み干しながら、(イマイチ訳の分からないヤツだ)と思った。如何にも正直そうに見えるけれど、案外そうでもないのかもしれない。
 腹に一物を持った者など、今時何ら珍しくない。かえって何も持っていない、などと言う方が余程嘘くさく油断ならないというものだ。
(ま、どっちでもいいけどね)
「まだ飲まれますか?」と聞かれて「いや、もう十分。ご馳走様」と断る。
 電気のないこの家では、夜間の取材は無理だ。そもそもあんな急な山道を、暗闇の中下る勇気もない。村への下山時間を考えると、日が傾きだすまでのあと数時間が勝負だろう。
「じゃあ早速で悪いんだけど、木地師としての仕事の様子を見せて貰えます? あと、これで会話を録音してもいいかな?」
 もたもたしていられないとばかりに、オレはポケットから愛用のICレコーダーを取りだすと、単刀直入に切り出した。


「――木地師が作るものは、盆や木鉢やお碗の他にも、碁笥(ごけ)という碁石入れや下駄、屋根の葺き板に至るまで幅広いです。使う材は様々ですが、栃やブナを使うことが多いです。ただブナの場合だと、乾くと刃が立ちにくくなるので、生木のうちに加工するか、或いは加工しやすくするために、予め水に漬けておいたり……します…」
(ん? なに?)
「こんな説明でいいんでしょうか?」と、でも言いたげな、少し不安げな目をした男が、ファインダーを覗いているオレの方にそろそろと振り向く。撮影と同時に録音すると聞いて、無駄に緊張しているらしい。うんと一度小さく頷いて見せると、ホッとしたように頬を緩めて、また短い平均台のような形をした作業台の方に向き直る。
「この平杓子を作るとすると、工程は十七ほどあります。使う道具も、最初に原木から玉切っていく斧(よき)から数えるなら、十種類近くになります。例えばこれは銑(せん)という削り専用の道具で、刃の部分が少し湾曲していますが、こうして材をしっかり固定して、両手で持って引くようにすると、こんな風に……カーブしている所も楽にきれいに削れます」

 イルカが囲炉裏端に作られた専用の工作台に向かい、作業を実演して見せている。視力検査の時に手に持つような、スプーンの形をした、いわゆる杓子を作るらしいのだが、声は軽やかで聞き取りやすいし、説明自体も順序立っていて意外なほど上手いと思う。
「ほんとだ。あ、今のその銑だっけ? 使ってるとこ、もう一度撮らせて。――うん、ありがと。じゃあその掬う所の丸くなっている部分はどうやって削るの?」
「エグリゼンという、もっと丸みのある刃物で削れますよ。――ほら」
 恐ろしく使い込まれた大きな道具入れから、独特の形をしたごつい刃物を取り出すと、固定する向きを変えてくいっと木肌に押し当てる。すると、平らだった部分が苦もなくくるりくるりと丸く削られ、ただの板から杓子の形が急に現れてきて、自分の中で俄然面白味が増してくるのが分かった。
「わ、それ面白そう。ね、ちょっとやらせて貰っていい?」
 どうぞどうぞと、イルカがどくままに同じ場所に座り、今見た通りに両手でごつい刃物を持って動かしてみる。
(――ぁれ?)
 だが、どういうわけか全く思ったように動かせない。それもそのはずで、鋼の塊である刃物自体が相当に重いことが、持ってみて初めて分かった。よくこんなものを何のラインも引いてない所で易々と、まるでカッターか何かのような気軽さで正確に動かせるなと感心…というより不思議な気すらする。まるで手品か何かみたいだ。
 それでも意地になって削ろうと力を入れたところ、思ってもみなかった方向に勢いよく刃が滑って、柄になる部分をザックリと深く傷付けてしまった。しまった、これではもう杓子にならない。
「やッ?! あのっ、気を付けて!」
 相変わらずこちらの動きをじっと見ていたイルカが急に焦りだして、止めるように割り入ってきた。まさかここまでダメだとは夢にも思ってなかったらしい。
「あぁーごめん、一枚ダメにしちゃった。折角形が出来てきてたのに。うーんなんでだろ、悔しいなぁ」
 ばりばりと頭を掻きながら渋々立ち上がる。自分自身、こんなにも出来ないとは思ってなかったから、余計に悔しい。
 子供の頃からずっと、覚えがいいと言われながら育ってきた。上手くやる事を難しく考えることなど何も無いと思う。上手な人がやっている様子や、詳しく書いてある本をよく見たり聞いたりして覚え、ただ同じようにすればいいだけなのだ。要は観察とコピーと記憶の積み重ねだ。そうすれば勉強はもちろん、スポーツでも仕事でも、何だってさほど苦労もなくマスター出来ていたから、たかだか木を削る事が出来ないなんて思いもしなかった。
「大丈夫ですよ。後で傷を避けて別のものを作りますから」
 イルカは難なく言って、その板を脇に置いた。
「悔しいけど、半端じゃなく難しいってことは分かったよ。やっぱり職人技ってのはすごいもんだね。でも何で杓子にはブナなの?」
「ブナは乾くと堅くて折れにくいですし、水や湯に浸けても変形しないんです。料理に匂いや味も付かないので向いてるんですよ」
「なるほど」
 一見その辺にあるもので無造作に作っているように見えて、実は杓子の一つに至るまで、素材の素性を見極めた知恵と工夫を随所に凝らしているらしい。
「木地師って仕事も、案外奥の深いものなんだね。あぁ案外は余計だった、いや失礼」
「いえ、仰るとおり、奥は果てしなく深いのだと思います。でもまだ私の場合は、お恥ずかしいですが、木地師とは名ばかりでして。この仕事は鑿(のみ)や鉋(かんな)がすぐにすり減って使えなくなってしまうので、刃物の鍛造もしますし、見よう見まねで籠も編むわ桶も作るわで、今は半端に色んな事が少しずつ出来ている、言わば何でも屋なだけなんですよ。だから、死ぬまでには何とか一つの技を極めたいです」
(はぁ、死ぬまでに、ねぇ…)
 まだ若いのに、随分簡単に死ぬなんて言葉が出てくるものだと思う。今からそんなことを意識する必要なんて無いだろうに。
「でも色々なものを作れた方が、収入だって全然いいでしょ?」
「そっ…それは、…えっと、その…っ…」
 何の気なしに口にしてしまったのだが、イルカのリアクションを見た途端、余計なことを聞いてしまったのだと気付いた。
 採算や収益に関する質問は、自分の中では話題にして当然の最重要項目になっていたのだが、それはホワイトカラーに対してのみ有効で、彼のような山中の名もなき職人には禁句だったようだ。もしある程度の収入があるのなら、電気もガスもないこんな寒々しい山小屋で暮らしていないだろう。
「んーとそのー…、ほら色んな要望に応えられた方が、村の人にも重宝がられて喜ばれるんじゃ…?」
 気まずい空気の中、思いつくまま精一杯のフォローを入れてみる、と。
「ええはい! それは確かに、その通りなんです! みんなに『こういうものを作って欲しい』って言われて、後で『使い勝手いいよ』って言って貰えたときが、本当に、とっても嬉しいんですよ!」
「…そー…だよね…」
 イルカが急に明るく真っ直ぐに話しだして面食らう。意外なことに、このフォローはどうやら彼のツボにヒットしたらしい。
「最初は両親がやっているのを、訳も分からず面白がって真似してただけなんです。本格的に教わりだしても元は不器用だからあっちこっち一杯怪我して、泣いたり悩んだりしながら。でも今ではやってて良かったなぁって思うんですよ。他には何の取り柄もないけど、これだけはみんなの役に立てますから」
 すっかり手が止まって、こちらを見上げて熱心に喋っている。
「ぁ…あぁ。そういや君、ご家族は?」
「はい、私、一人っ子でして。――両親は…もう随分前に亡くなりました。大雨の晴れ間に材を取りに出て行って、土砂崩れに巻き込まれて」
「そうか…。ごめん、なんか変なことばっかり聞いてるね」
 どうもこの男と居るといつもの調子が出ない。話の腰が折れてばかりで前に進んでいかない。もっと他に聞かなきゃいけないことが幾らでもあるだろうに、何をやってるんだか。
「いいえ。村には家族みたいにして下さってる方が大勢いますから、ぜんぜん大丈夫です。私、雪の多い冬の間だけは一時的にここを閉めて、村に下りて三代目の所でお世話になってるんですよ。村の人達の所にも手が足りないときはお手伝いに行ったりしてるから、本当に寂しいとか思ったことがないんです。みんな親切でいい人達ばかりで、「もうここは引き払って下りてくれば?」って、勧めて下さるんですけど、私はこの家で木と向き合ってる暮らしが好きだから」
「……そう」
 図らずも、この村におけるイルカの立場が朧気に分かってきだすと、少し気の毒な気がしはじめていた。
 木地師としての現金収入が相当に乏しい中、村では身寄りのない彼を共同でフォローしているらしい。もちろんそれが肩身の狭いかなり微妙な立場であることは、イルカ本人が一番良く分かっているのだろうが、そんな中くさらずに前向きによくやっているなと、職人技とは全く関係のない所で感心する。


 その後イルカは、今はどこでも電動の専用ロクロで行っている木地椀作りを、亡き父親が作ったという人力の足踏み式のロクロを使って見せてくれた。
 ただひたすら四角かっただけの木から、木屑を飛ばしながら次第に丸みを帯びた見慣れた形の椀が生まれてくる様は、粘土から茶碗が出来ていくのとはまた違った面白味があったし、母親から教わったという籠編みで、細い竹の皮やアケビの蔓からみるみるうちに笊や籠が立ち上がっていく様子もそれなりに絵になり、オレは思いのほか夢中になって写真を撮り、質問を投げかけた。

 途中彼が立ち上がって囲炉裏に火を入れだしたので、その様子もとカメラを向ける。
 最初、木を削った時に出た鉋屑(かんなくず)に火を付けて、次第にくべる枝を太くしていく。
「薪って、どんな木でもいいの?」
「出来れば広葉樹がいいです。私はナラやケヤキ、カシやクリなんかをよく使ってます。でも伐ってすぐは水分が多すぎて使えないので、軒下で一年は乾燥させる必要があるんですが」
「たはっ、何とも気の長い話だねぇ」
 ただ燃やして灰にしてしまうものに、一年もの時間を費やすだなんて。これぞまさにスローライフ。イコール、オレの理解の範疇外。
「それならさっき削ったお椀の木なんて、もう五年も前に伐ったものですよ。長く置けば置くほど削ったときの狂いが少なくなって、結果的によりいいものが出来上がるんです。木は伐られた後も樹齢と同じ期間は生きてますから、削られるとショックで目覚めて動き出してしまうんですよ。だからその木が持っている癖や動きを少しでも和らげるために乾かすんです。中には父が残してくれた木で、もう十五年近くも寝かせてあるものもあります」
「伐った木が動く…か。ねぇそれってさー、熱した鉄が膨張したり、冷やした水が凍って体積が増える現象と同列じゃないの? そういうのって、生きてるって言わなくない?」
 余りの悠長さにまだるっこしくなって、思わずツッコミを入れてしまうが、イルカの当惑気味の表情に、慌てて話題を逸らす。
「まっ、でも数百年もかけて育った希少な木なら、伐った後そのくらいの手間や時間がかかってもしょうがない、か」
「ええと…しょうがないというより、木とはそういうものなので。私はその約束事に従っているだけです」
(はぁ…そういうもの、ねぇ?)

 まっ、採算を問わない世界らしいから〜?
 そういう考えもありっちゃあり…なのかも、ね。





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