「でじゃ、これは儂からの、ちょっとした要望なんじゃが」
「は? ええ、はい?」
 三代目の声が急に柔らかくなった気がして、メモから当人と目線を移す。と、案の定目元が穏やかで、随分と好々爺になっている。
「最初の取材は、木地師の所にしてやってはくれんかの?」
「はぁ…木地師、ですか? いや…、そりゃあ、まぁ…」
 思わぬ要請に、うっかり生返事をしてしまう。
(木地師か…)
 正直鷹匠に気を取られていて、ノーマークもいいところだったのだが、木地師って…。
(あれ、だよね?)
「茶碗や箸、盆などの日常で使う生活道具を作っておる、なかなか器用な、心根の優しい男での」
(ん〜そうか、木地師ねぇ…。まっ悪くはないけど、絵的には少し地味、なんだよなー)
 滞在時間も限られている。必ずしも晴天続きとも限らない。出来れば鷹匠から交渉を始めたい所なのだが。
(でも三代目のたっての『要望』となると、無視する訳にもいかない…か)
「ええ、はい。分かりました。で、その木地師の方なら、取材はもうすぐにもお受けして頂ける、と考えて宜しいのでしょうか?」
 この状態でいきなり長の要望を蹴る、というのもマズイだろう。ここはひとつ素直に従っておくかと、脳内で素早くスケジュール変更をしながら訊ねる。
「ふむ……畑さんはそう言うて下さっとるが、主はどうかの、イルカよ?」
(え…?!)
 三代目が奥の板戸に向かって声をかけると。
「はっ、はい! 宜しくお願いします!」
 黒髪の男が板戸を開けたかと思うと、慌てた様子で頭を下げた。



   * * *



(――くそっ、あの爺さんめ、やってくれるぜ…!)
 急な山道をゼイゼイ息を切らせて登りながら、内心舌打ちをする。老獪な翁の戦略に、まんまとハメられた格好だった。
 何のことはない。木地師であるイルカの家だけが、集落から更に30分以上も急な山道を登った所にあるというのだ。
 しかもその道というのが獣道に毛が生えた程度のもので、イルカが時たま踏み締めるだけらしいわだちが名も知らぬ巨木の間を縫うようにしながら、いつ終わるともなく上へ奥へと続いている。
 行く手に覆い被さるように伸びている小枝に時折顔をぴしゃりと弾かれ、地上に張り出した大きな根につまずき、踏み締めたはずの足下がずるりと滑り続けて、ついさっき履き替えたばかりのズックやパンツの裾が既に泥だらけになっている。もうそれを見ただけで、今日一日こんな格好でいなくてはならないのかと、かなりげんなりだった。清々しく美味いと言われる山の空気を味わっている余裕など、当然一瞬たりとも無い。まさかこんなことになるなど夢にも思わず、結構な量の荷物を背負ってきていた体はたちまちのうちに息が上がり、強張った膝から下がガタガタになっている。
 そびえ立つように見えた急坂を登り始めてからほんの5分ほどでもう足が言うことをきかなくなり、実はさっき早々に小休止を求めてしまったばかりだ。けれど、その分だけ取材時間が目減りしていくことを考えると、そう何度も休んでばかりもいられない。何より『だから都会の者は…』などと思われるのも癪で、思わず再び上がりそうになる情けない言葉をぐっと呑み込んだ。

(三代目は、あの「謎の家」からオレを引き離すのが目的だったな…)
 乱れる息の合間に、詳しいことを何も訊かないまま二つ返事で了承してしまったことを後悔するが、全ては後の祭りだ。かくなる上は一刻も早くこの男の取材を終わらせて集落に戻らねばならないが、足の痛みに不安が募る。

「すみません、畑さん。私が代わりに背負えればいいんですけど」
 前をゆくイルカが、時折済まなそうに振り返る。彼の背中には木で出来た、背負子(しょいこ)と言うらしいリュックの原型みたいなものが背負われており、その荷台には一メートルもの高さに大量の食材らしきものや雑貨の類が隙間無くぎっしりと積まれている。しかも両手にも籠やら袋を下げているにもかかわらずその足取りは信じがたいほど軽く、ついさっき何キロもの急坂を全速力で駆け下りたばかりのそれとはとても思えない。呼吸は全く乱れておらず、右へ左へと次々に的確な足場を選んでは、前へ上へと迷い無く進んでいく。それを見ているうちに、ふと(この男の周りだけ重力が働いていないんじゃ…?)などというあり得ない考えまでが過ぎる有様だ。
 とりあえず背負子で山道を登っていく姿は珍しいかと、一眼のデジタルカメラを構えたまでは良かったが、一種異様にさえ見えるその後ろ姿を二、三枚撮ったきり、こっちはもうそれどころではなくなっていた。忙しいスケジュールをやりくりしてまで通っている週二度のスポーツジムは一体何だったのかと、内心愕然となる。
(これで鷹匠や猟師の狩りに同行、なんていったら…)
 向かう場所によっては、例え取材を承諾して貰ったとしても、他でもない自分のせいで取材が出来ない、ということも十分あり得るのではないだろうか?
(――くっ…、まだまだ! こんな所でっ…早々に潰れて…たまるか…っ!)
 少し気を抜くと、すぐに離れていってしまう距離を縮めるべく、イルカの後を追った。



  * * *



 ようやく平らな場所に辿り着き、両膝に手を付いて項垂れていたところ、「着きました」と言われて顔を上げた。途端、我が目を疑った。
(――こっ……ここ…?)
 このモノの溢れるご時世に、手製らしき下駄やわらじを履いている男だ。ある程度想像はついていたつもりだったが、それを遥かに凌ぐ簡素な作りの家屋に、何とコメントすればいいものかと思わず言葉に詰まる。
 それはまさに昔話にでも出てきそうな板壁作りで、小さな小さな平屋の……そう、どう見ても家というよりは「小屋」だった。失礼ながら、この建物と比べると、三代目達の茅葺き家屋が随分と立派に見える。
 建てられた当時はそれなりにきれいだったのだろう板葺きの切り妻屋根は、今では名も知らぬ植物や苔がびっしりと覆って、すっかり周囲の景色に溶け込んでいる。
 深めの軒下に、小屋を取り囲むようにしてうずたかく整然と積み上げられているのは薪だ。周辺には一本の電線も無く、ガスはおろか、電気も通ってないのは一目瞭然だった。もしやと思いつつも、デジカメのバッテリーの予備を持ってきて良かったと小さく胸をなで下ろす。
 板塀の南側には薄いガラスの入った木枠の引き戸が二枚入っていて、数少ない明かり取りになっている。その前に作られた縁側には洗濯物と一緒に果物や野菜など、何種類もの乾物がぶら下がったり笊に盛られたりして、細々ながら人が暮らしている息づかいを感じさせている。
 手前に切り開かれた十坪ほどの平らな部分には、幾つかの野菜らしきものが植えられているが、周囲から静かに、けれど確実に森が浸食してきていて、今にも雑草に追い倒されそうだ。これほどに深い緑では、もし人が住まなくなったなら、畑はもちろん、この建物ですらひと夏で森の中に呑み込まれてしまうであろうことは、容易に推察出来た。
 木地師というだけあって、縁側前の広場には何本もの大きな丸太が転がっており、まわりには木の削り屑が大量に散らばっている。天気の良い時は、屋外も作業場になるのだろう。
「ここを切り開いた時に倒した木で、この家を建てたの?」
 しげしげと、そしてまじまじと一帯を眺め回した後、ようやく最初の質問をする。
「ええ。木地師は昔からいい木のある所に専用の小屋を建てて、そこに籠もって作業をするんです。周りに木が無くなってきたら場所を移すんですが、俺は父が最後に建てたここが気に入ってるので」
 言いながら戸口の板戸をガタピシ開けて入ると、外は抜けるような晴天にもかかわらず、ひんやりとした空気がさあっと頬を撫でるのがわかった。中は薄暗く、土間と台所、それに二間続きの八畳ほどの板間だけという、呆気にとられるほど簡単な空間だ。黒光りしている板間の中央には、囲炉裏が切られている。
 だが何よりもまず最初に目を引いたのは、台所のしつらえだった。
「ね、これってカマド、だよね? 撮っていいかな?」
「え? ああ、はい」
 黄色い土を分厚く盛り固められて作られた所に、鉄製の羽釜がかかっているのを見て、板間に荷を下ろすや早速シャッターを切り始めた。その横にある流しも、水色の小さなタイルがぎっしりと敷き詰められた如何にも昔風のもので、雰囲気作りに一役買っている。周囲にはいわゆる工業製品の類が殆どなく、棚には彼が作ったと思しき木の食器や笊(ざる)、篭、杓子などがずらりと並んでいて、特に撮影用にコーディネイトしなおさなくともそのまま絵になっていた。
「そういや水ってどこから引いてるの?」
 脇でイルカがぽかんとしながら撮影の様子を見守っていることに気付いて、声を掛ける。
「はっ、はい。この上の湧き水を取ってます」
「湧き水? 少し貰っても?」
 するとイルカは、「気付かなくて、すみません!」と、すぐに側にあった木のコップを取って、蛇口を捻った。
「水道代は無料で使い放題と。…あ、ねぇこれは? すごく軽いけど何の木で出来てるの?」
 手渡された柔らかな丸みのある、湯飲みのような形のコップを男の前に掲げる。
「それは杉です。樹齢は六百年くらいでしたが、自然に倒れて何百年か埋もれていたものを、土の中から掘り起こして削りました。そういうのを土埋木(どまいぼく)っていうんですが、巨木は簡単には腐らないんです」
「へえー、六百年プラス数百年か。しかし材ってのは必ずしも切らなくても手に入るもんなんだ?」
「ええ、滅多に見つかるものじゃないですが、私にはアスマさんみたいに大木を切り倒して運び出す技術や力もないので、探すようにはしています」
「アスマさんて? 木こりの人?」
「っ?! …あの…ええと…」
「もしかして、三代目に『村人のことをあれこれ喋るな』って、言われてるとか?」
「――…はい…、すみません」
(あぁ、そう)
 長老も随分と用心深いことだと思う。でもそんなにもこの村のことを知られたくないのなら、なぜイルカの取材だけはこうもあっさり許可したのだろう? どうも引っかかる。

 手の中のコップを傾けて、その小さな水面を台所の窓から入る外の光に透かしてみる。が、そこには微塵のゴミもければ、僅かな濁りすらなかった。無色透明な水の向こうに、ぎゅっと詰まったきれいな木目模様がくっきりと走っているに過ぎない。
(ま…大丈夫、か)
 湧き水と聞いて何となく衛生的に心配だったが、強い喉の渇きに負けてようやく口を付ける。
「…っ、冷たい…!」
 味わう間もなく、そのまま一気に飲み干した。はあっと大きく息を吐くと、何かの瑞々しい香りが微かに鼻に抜けていったが、これは器の匂いだろうか、それとも水そのものの味か。
 いずれにせよ、年に何万円とかけてミネラルウォーターなるものを買っている者達からすれば、夢のような話に違いない。
(ま、それはそうとして…)
 コップの水を一気に呷っている時、またイルカがこちらをじっと見ている事に気付いていた。いや「見る」というよりは、何だか一生懸命「観察」でもしているような、そんな視線を感じる。
「ねえ、そういや三代目って、一度は取材を断ったのに、何で急にOKしてくれたの?」
「ぇッ?」
 もう一杯欲しいと言ったら、とても嬉しそうにいそいそと、そしてなみなみと水を汲んできた男が、その場でかちんと固まった。





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