男が車から降りようとしたものの、ドアノブを探して戸惑っているのを、体の上に乗り出すようにして開けてやる。と、またぞろ男の視線が自分に向かって泳ぎだして、ついに堪りかねて声を掛けた。
「ね、最後に一つだけ、いい?」
「?」
「あんた、オレの何がそんなに気になるの?」
「…っ?」
 途端、左足を地面に下ろしかけていた男の顔がさっと強張り、続いて見る間に赤くなりだす。
「服装? 手当たり次第着込んじゃってて、あり得ないくらい着膨れてるから? それとも寝癖がとんでもないとか? 顔とか髪色なら死んだ親父似らしいからオレにはどうしようもないんだけど? ね、さっきから一体何なわけ? オレも気になるから教えてよ」
 怪しげな街頭スカウトでなし、これが女性からの視線というなら経験上分からなくもなかったが、いかにも人擦れしてなさそうで朴直な大の男にここまでジロジロ見られたのは初めてで、何となく物珍しさからだけでないその気配が妙に引っかかる。
「いっ…いえ! 何でもないですっ。すみません!」
 男は逃げるようにして車から降りると、下駄履きなのによくもまぁそんなにと思うほどのスピードで一目散に駆けだした。開いたままのドアから澄み切った冷気がさあっと入ってくるのと入れ替わるように、けたたましい足音が急速に遠ざかっていく。
「…………」
 フロントガラス一面にいまだ薄く広がったままの曇りを、指先できゅっと一筋拭ってみる。
 が、そこにはもう人の姿はなく。
 大小数軒の茅葺きの家屋が、朝日を待つようにしてひっそりと佇んでいるだけだった。



(……よし、じゃあ行くか)
 コーディネイト無視でひたすら重ね着していた服は着直したし、思った通り付き放題だった寝癖も、持ってきていたスプレーで直した。車はいい。改めて思う。必要かどうか取捨選択が面倒なものでもとりあえず全て持ち歩けてしまう、この上なく便利な「鞄」だ。
 散らかり放題だったバックスペースも片づけて、カーナビで携帯の電波の届いていそうな地域までの順路を確認し、車も転回させた。
 その頃には車内もすっかり暖まっていて、夕べの眠れないほど辛かった寒さでさえ、きれいに忘れさせてくれていた。デフロスターもよく効いて、フロントガラスを真っ白に覆っていた曇りはあっという間に吹き飛ばされてクリアになっている。囲炉裏ってのもまぁ…時には悪くはないけれど、やっぱり石油という名の化石燃料は、必要な時にすぐ何にでも変わっていく、便利なことこの上ない最良の資源だ。その事実だけは、例えあの三代目と言えども否定しようのないところだろう。
 サイドブレーキを解除すると、ローに入れた車はゆっくりと坂道を下り始めた。
(もう二度と来ないだろうな)とバックミラーに目をやると、家々の屋根の排煙口から細く白い煙が棚引いているのが映っている。気のせいだろうか、それがオレというよそ者が立ち去るのを見てホッとしているようにも感じられて、思わず口端を片方だけ吊り上げた。
 気分を変えたくて、カーオーディオをオンにして気に入りの曲を選ぶ。

 坂道を下りながら目当ての曲を暫く聴いているうち、幾重にも連なる山々をオレンジ色の朝日が少しずつ照らしだしていく光景も、言うほど悪くないか…などとふと思った。



  * * *



「っ…なに?!」
 右へ左へと下りながら遠くの景色ばかり眺めていて、後続車など来るはずのないバックミラーは、もう長いこと一度も見てなかった。
 なのにその小さな鏡の中にあろうことか人影を認めて、きつい下り坂の途中で急ブレーキをかけて振り返る。
(あいつ…か?!)
 間違いない。さっき握り飯を持ってきた、あの黒髪の男だ。大きく手を振りながら、真っ直ぐこっちに向かって走ってきている。一体いつからそうしていたのか? エンジンブレーキの音とオーディオのせいで全然気付かなかった。いずれにせよ、上から延々駆け下りてきたのだろうが、とても信じられない。
 勢い余った男は車にしがみつくようにして止まると、下りていくパワーウインドに掴まって、はあはあと大きな呼吸を繰り返している。
「なに、どうしたの?!」
 何か忘れ物でもしただろうか? あれこれあり得そうなパターンを思い返してみるが、思い当たらない。
「…いえ…っ、…あの…っ…」
 男は肩どころか背中まで激しく上下させながらも、なぜか口元が微かに笑っている。その足元を見て、目を剥いた。
「…やっ?! あんた、靴はっ?!」
 荒れたコンクリートの地面の上に、泥と埃にまみれた紺色の足袋がいきなり乗っている。ヘラヘラ笑ってる場合じゃないよ。足の裏、大丈夫か?!
「…とちゅ…、ぬげ…」
 そりゃあこの下り坂をあの勢いで走ってれば、幾らもしないうちに脱げるだろうけど?!
「…あのっ、三代目がっ、しゅ…ざ、…ぃ、そうです」
「は?」
 弾んだ呼吸に掻き消されて、何を言っているのか聞き取れずに眉を寄せる。
「そのっ…取材、お受けしてもっ、…良い、そうです…!」
「はあぁ?」



  * * *



 バックのまま、山道を何キロも登って引き返すつもりなどない。まだ息の整わない男を乗せると、あの山道を横断している川の所まで下り、そこで車をUターンさせて再び山道を登り始めた。

「ね、何で三代目は急にOKしてくれたわけ?」
 ようやく落ち着いた頃合いを見計らって訊ねると、川で顔を洗ってさっぱりした様子の男が慌てた様子で急に俯く。鼻を跨いだ傷の端っこを掻きながら、しきりと口をもごもごさせている。
「っ…そっ…その…」
「うん?」
「実は…」
「うん」
「――…あ…っと、私の下駄!」
 すみません、ちょっと止まって下さいと言われ、カクンとしつつも車を止める。ちなみに泥だらけだった紺色の足袋は、川端で水を飲んだときに濡れてしまい、一層ぐだぐだになっている。が、本人が気にしている様子はない。むしろこちらの方が余程気になっているらしい事に、訳もなく軽い腹立たしさのようなものを覚える。

「――でぇっ?」
 再び発進してじりじりしながら答えを待つも、今度は途中で山側に脱ぎ捨てた綿入れを拾いに降りたり、「あっ、そういえば私ってまだ名前も言ってませんでしたよね?! 海野イルカといいます」などとはぐらかされたりして、結局終点の集落に辿り着くまで理由を聞くことは出来ないままだった。
(もしかして……理由を言いたくない、のか?)
 車を降り、すっかり明けきった初秋の空が刻一刻と青さを増していく中、そそくさと三代目の家へと向かうイルカの後ろ姿を、オレは内心で首を傾げながら見つめた。



「ほっほっほ、本当に来よったか。まぁ上がりなされ」
 障子の扉を開けた途端に上がった、どことなく来ると思ってなかったような言葉尻に引っかかりながらも、まずは「取材を承諾して下さってありがとうございます」と、小さな老翁に向かって頭を下げる。
 囲炉裏の切られた空間は、昨夜感じたどこか不気味な雰囲気を脱ぎ捨てていて、障子や窓から射し込んできた朝日が黒光りした柱や板間に跳ねる、重厚かつ静謐な空間へと様変わっていた。
 イルカはというと「足を洗ってきます」と言うや軽く頭を下げて、足早に外へ出て行ってしまっている。遠慮したと言うよりは、まるでこの場に居たくないみたいだな、と思ったのは気のせいだろうか。
 
「あの、どうしてまた急に?」
 客座に着くや否や、オレは真っ先に訊ねた。
 だが「まぁそう急くでない。それよりも、その取材とやらに関して二つばかり条件があるが、ええかの?」と逆に切り出されて、まだ何も聞いていないのに内心で小さく身構えた。
「? …何でしょう?」
 探るように訊ねる。
「一つ目はの、記事にするにあたって、ここの住所や場所が特定出来るようなものは、一切載せんで欲しいということじゃ」
「…は…? そうですか。あぁいや、それはもちろん可能ですが、それで…宜しいのですか?」
 忙しくなるから場所や連絡先を明かさない、という飲食店や宿は確かに多い。だが、集落ではかなり珍しいことと思われた。
「場所なんぞは、畑さん、あんただけが知っとればええでの」
 とにかく他言無用にして頂きたい、と言われて、まだ納得しきらないながら「分かりました」と頷く。
「で、もう一つは?」
 殆ど炭になった薪でもまだ十分温かいことに感心しながら、やや急かすように訊ねる。昨日は丸一日無駄にしてしまった。今日はその分を何としても取り返さなくてはならない。
「あんたが登ってきた道はここで行き止まりじゃが、その道から見て一番奥に建っている家には近付かんで頂きたい。もちろんそこの住人の事を、村の者にあれこれ聞いて回るのもなしじゃ」
「なぜ…ですか?」
 何やら薄気味の悪い条件に、思わず眉を寄せる。
「理由は言えんの。ただあんた自身の健康にも関わることじゃ。悪いことは言わんで、黙って言うとおりになされよ」
 言った三代目の頬の辺りは険しく締まり、先程出迎えたときの柔和な雰囲気はどこにもない。
「――はい」
 一つ頷いて見せたものの、もちろんそれはポーズだ。マスコミ業に従事する者の端くれとして、そこまで聞かされて気にするなと言う方が無理というものである。健康を害する、というのが本当かどうか判断に迷う所だが、恐らくはオレを近づけさせないための脅しだろう。
(折を見て、必ず真相を突き止めてやる)と心密かに誓う。

「この集落には、斜面地を利用して農業をやっとる者の他に、イビキのような猟師や、炭焼き職人、それに杣人などがおる」
「ソマビト?」
 双方が条件を呑んだところで村長の話が始まったが、早速出てきた聞き慣れない言葉に、鞄から筆記用具を取りだしながら、すぐさま聞き返す。
「杣人というのは林業に携わる者の総称じゃな。都会の人には樵(きこり)と言うた方が分かりやすいのかの」
「あぁなるほど、…で、他にはどんな?」
 何とかして前出の『謎の家』に関する手掛かりが得られないものかと、慎重に探りを入れる。
「木地師と鷹匠もおるが、取材しても構わんのはそやつら五人くらいかの」
「えっ、鷹匠? あの鷹を操って猟をするという、鷹匠ですか?」
(すごいな。そんな珍しい技術を持った人を取材出来るとは、なんてラッキーなんだ)
 『本格的な山の仕事』というクライアントの指定にもピッタリ当てはまるし、写真にしても記事のトップを飾れるような見栄えのするものが撮れるに違いない。男性読者の割合が多いだけに、これは十分アピール出来る内容になるだろう。一度はすっかり諦めていた取材が急転直下、逆転勝利に向かって動き出している予感に、否応なく気持ちが沸き立つ。

「そうじゃ。だがいずれにせよ、本人が「取材なぞ嫌じゃ、断る」と言うたらそれまでじゃぞ? 儂には無理強いする気も、そんな力もないでの」
「そう…ですか。いや、分かりました。何とか自分からお願いに伺わせて頂きます」
 ここまで来たからには、何としても鷹匠は押さえておきたいところだ。既に頭の中では鷹匠への質問事項や写真の構図などが次々と浮かんでいて、もうはや数頁の構成が出来上がりつつある。





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