(――っ…)
 余りの寒さに、腹の奥から震えながら薄く目を開く。もうこれでかれこれ三度目だ。思った以上に疲れているらしいことから、目覚めても暫くすればまた寝入るのだけれど、すぐにまたしんしんと寒さが忍び寄ってきて、足先から背中から、とにかく辺り構わず温もりを奪われてはまた起きる、を繰り返していた。
 起きるたびに眠いのを我慢しながら、持ってきた服を重ね着して掛ける物も増やすのだけれど、一度芯から冷えてしまった体は、なかなか新たな熱を生んでくれない。
 先程まであたっていた囲炉裏の火を、たとえようもなく恋しく感じはじめていた。三代目の「泊まっていけ」という誘いを断ってしまった事を心底後悔するが、夜半も過ぎた今頃になって再び戸を叩けるはずもない。
 慣れない固い寝床に全身がギシギシと痛みはじめていて、それも束の間の安眠を邪魔していた。エンジンをかけてヒーターを付ければすぐに温かくなるが、それを朝目覚めるまでやってしまうとガス欠になる可能性があることから、怖くて出来ないでいた。
 手が冷たくてどうしようもなくなり、指先の無い黒皮のドライビンググローブまで付けてみるが、冷え切った鹿皮にかえって体温を奪われただけだった。
(……ぇ…?! もしかして…)
 無理矢理にでも眠ろうとして再び横になったその時、突然あることに思い当たって目を見開く。
 ――ひょっとして、三代目が鍋でも食べていけと言ったのは。
 ――そして飯が要らないなら酒はどうかとか、布団はあるから泊まっていけと言っていたのは。
(全ては都会から突然押しかけてきた、畑カカシという見ず知らずの人間を少しでも分かろうとして、必要から言ってくれていた、とか…?)
 それを自ら、片端から断っていたのだとしたら。
(――ハハッ、何が時間優先? 何が効率第一なわけ?)
 思わず鼻で嗤ってしまう。その場で不要と判断したものは何もかも片端から一瞬で切り捨てていき、それらが持っていた意味が何だったのか考えもしなかったなんて。
 取材される側の気持ちも知らずに、オレは誰から何を、どう聞き出そうとしていたのだろう?
(ちょっと業界で知られるようになったからって、図に乗ってんじゃないよ)
(――ったく…どうしようもないな…)
 でも今頃気付いたところで、事態が好転することはないのだ。ここでの件は、もう全て終わっている。
(いいか、次に起きたら、暗くても出発だぞ)
 固く心に誓って目を閉じた。



  * * *



(――ん…)
 遥か遠くで、何かを軽く叩いたような固い音を聞いた気がして、ふっと目が醒める。
(……ぁ?)
 さっき目を閉じた時には、手元の懐中電灯無しでは鼻をつままれても分からないほどの漆黒の暗闇だったのに、いつの間にか車内の乱雑な光景が、灰色のフィルターをかけたように朧に浮かび上がってきていた。外は相変わらず冷えているらしく、窓の内側は真っ白に曇っていて、所々水滴が滑り落ちた跡が付いている。
(朝か…)
 結局あれから一度も起きることなく、深く寝入ってしまっていた。習慣から手元に転がった携帯の時計を見ると、まだ六時前。いつもなら寝る時間だ。
 なのにこんな山奥の車中で、着の身着のまま寒さに震えながら目覚めることになるなんて…。未だに信じきれないでいる自分がどこかにいる。
(さて、行くか)
 そう思ったとき、今度はもっとずっとハッキリと、しかも頭のすぐ近くで、誰かが軽く窓ガラスを叩く音がしてむっくりと起き上がった。
「…?」
 振り向くと、確かに白く曇ったガラスの向こうに、黒い人影のようなものがぼんやりと見えている。
(――誰だ…?)
 何となく怖いような気がしつつも、窓ガラスに指先を押し当てて、きゅっきゅっとこすった。
(村の、男…?)
 すぐそこに、紺色の作務衣に厚手の綿入れを羽織った男が立っていた。黒髪を高く括っている。
 何を思ったのだろう。目が合った途端、男は真っ黒な瞳を大きく見開いた。


(うわー…)
 運転席のドアを開けると、ぴしりと冷えた山の大気にまず驚いた。外出する時くらいしかマンションの空調を消さないオレが、こんな中でよく眠れたものだと思う。
「えーと、――何か?」
 きっと酷い寝癖がついているであろう頭をばりばりと掻きながら、まだしょぼついた目のまま、皮靴をひっかけて車から降りる。
「っ、おはよう、ございます。あの、三代目が、これを」
 今度はオレの方が目を丸くする番だった。
 差し出された小さな朱塗りの丸盆に、赤や黄色に色付いた、目の覚めるような艶やかな木の葉が二枚敷かれている。その上には、大きな握り飯が一つずつ。脇には、蓋付きだが何の塗りも施していない木地のままの素朴な汁椀と、節が洒落たアクセントになっている竹の箸が一膳。
「良かったら、どうぞと」
「――――」
「あの、もし食べきれなかったら、この柿の葉に包んで持って帰って下さい。飯が傷みにくくなりますから」
 思わぬ出来事に黙ったまま突っ立っていると、男が困ったように少し眉を寄せながら話しかけてきた。言っていることの真偽はさておき、昨日のイビキや三代目とはまた違った雰囲気の男に、知らず内側で身構えていたものがふっと解かれていくのが分かる。
「…ありがとう」
「いえ」
 盆を受け取ると、下駄履きの男は軽く会釈をするや、すぐに踵を返した。
「ね、待って!」
 その後ろ姿に慌てて声を掛けると、反応良くぱっと振り返る。
「その…、良かったら少し話を聞かせてくれないかな?」
 昨夜は三代目からの好意を全て断ってしまい、とても後悔していた。もしかしてこれは、長老がもう一度だけとチャンスを与えてくれているのではないだろうか。藁をも縋る思いで切り出した、ものの。
「すみません。三代目に『何を聞かれても決して答えないように』と、強く言われているので」
「――そう」
 途端、肩が落ちていくのが自分でも分かった。己の未熟さを、今一度思い知らされる。
「ごめんなさい」
 俯いた男の吐く息が、ことのほか白く見えたのは気のせいだろうか。
「いいんだ、あんたが謝ることじゃない」
 落胆したのは確かだが、同時に軽くなった部分もある。
「何があったのかは存じませんが、どうか三代目を悪く思わないで下さい。あの方は皆からの信頼も篤い、とても優しい長なんです」
「ああ、分かってるよ」
 ゆっくりと頷いてみせると、男の頬の辺りから少しずつ強ばりが消えていく。
「ね、じゃあこうしない? オレ今ここで、その車の中で食べるよ。食器、すぐ返すから。だから車の中で少し待ってて? オレは絶対に何も訊かないし、君は何も喋らなくていい。それなら、いいでしょ?」
 なぜそうまでして、あの男を引き止める必要があったのだろう。
 でも彼が真っ直ぐオレを見て、それから三代目の住む茅葺きの家を見、そうしてもう一度オレの方を見て「…ええ、はい」と答えると、何やらひどくホッとして車に乗り込んだ。



 車に乗り込むと、ダッシュボードの平らな部分にお盆を置いて、まずは寒くて一晩中着けっぱなしだった鹿皮のドライビンググローブを外した。続いてエンジンをかけてヒーターをつけると、車内を物珍しそうに見回している男の隣で、「じゃあ、遠慮無く」と軽く頭を下げる。
「どう…」
 言いかけた男が、ハッとしたように口を噤んだ。
(ふっ、律儀だこと)
 それには微笑ましささえ感じて、僅かに口元を緩める。
 男の目元は驚くほど澄んでいて、とりわけ目縁の部分がくっきりとしていた。十人中九人には、ほぼ一目で誠実な印象を与えることだろう。顔の真ん中に目立つ傷があるが、それが全く気にならないくらい、面一杯に生真面目さが滲んでいるな…などと、日頃の習慣から相手の人となりにアタリを付ける。年は同じくらいだろうか。
 箸を手に取り椀を持つと、その食器とは思えないどっしりとした厚みと重さにまず驚いた。自分は、木に見せかけた軽いプラスチック容器に余程慣れていたらしい。そんなことまでが何やら新鮮に感じられる。
「すごくしっかりとした器だね」
 すると、男が如何にも何か言いたげな顔をして大きく息を吸ったものの、また慌ててぐっと口を噤んでいる。
(はーー、隠せない人なんだねぇ)
 思いながら蓋を開けると、車内に何とも言えず良い香りが広がって、丸一日近くまともなものを食べていなかった五感を否応なく刺激しだした。
 手には温もりが殆ど伝わってこないものの、だからこそ汁はまだ十分に熱く、一口啜ると腹の底から深い溜息が出る。驚くほど具沢山なそれは、鍋と言った方がしっくりくるくらいだ。もしかしたら昨夜三代目が勧めてきたやつかもしれない。
「んっ、美味しい」
 すぐに握り飯にも手が伸びた。かぶりついた飯は香り高く、内側にはまだほんのりと温かみがあって、塩加減も丁度いい。米の一粒一粒がしゃんとしていて、米飯とはこんなにしっかりとした味がするものだったかと、やめどきが見つからないまま夢中で頬張る。
「これ、結構大きいけど君が握ったの?」
 こちらを見つめたまま、うっすらと口を開けていた男に訊ねる。
 頂きますと言ってからというもの、もうずっとこちらの動きを目で追っていて、何となく食べにくかったから牽制の意味も込めて言ってみたのだけれど、彼は慌ててうんうんと頷いたものの、また暫くするとこちらをチラチラと見だしている。
(…なんだろね?)
 腹が減っているのだろうか? だとしたらこの状況は確かに辛いに違いない。



「朝飯、まだ食べてないんでしょ。食べる?」
 手を付けていない方を葉っぱ付きで差し出すと、男は慌ててぶるぶると頭を振った。そしてまたこちらを横目でチラチラ…。
(ちょっとは盗み見るってこと、覚えなさいよ?)
 親から貰った…いや、否応なく押し付けられたこの髪色やら何やらのお陰で、遠慮のないぶしつけな視線には慣れているとはいえ、ここまであからさまだと微笑ましいを通り越して苦笑いしたくなってしまう。
 でもまぁこんな長閑な所では、そんな姑息な術を覚える必要もないんだろうなと思い直して、再び飯と向き合った。

(葉っぱの、皿…ねぇ?)
 腹が満たされてくると、ようやくまともに頭が回るようになってきて、今一度彼の持ってきた盆をゆっくりと眺める。
 このもてなし加減は、如何にもあの長老らしい配慮だと思う。都会から突然やってきた不調法者を、だからといって一方的に突き返すのもどうかと、最後の最後まで気に掛けてくれていたらしい。
 ただ囲炉裏端には呼ばず、人を使ってまで車中で食べさせたのは、とにかく取材は断るという明確な意志の表れなのだろう。
 そして何より。
(自分達が長年かけて培ってきた暮らしと知恵に、愛着と誇りを持っている)
 それが、この小さな膳の中にふんだんに盛り込まれていた。改めて『逃した魚は大きい』ことを思い知らされて後悔の念が湧き上がるが、もう済んだことだ。考えまい。

 隣りに座った男は、相変わらずこちらの動きに意識を傾けている。もしや飯粒でも付けているのかと口元を触ってみるが、わずかに無精髭の感触はあれど、飯粒などない。
 ドアポケットに備え付けてあったウェットティッシュで口元と指先を拭うと、すっかり空になった盆を差し出した。
「どうも、ご馳走様。お世辞じゃなく本当に美味しかった。三代目に『色々教えて下さってありがとうございました』と、宜しく伝えてくれる?」
 両手で盆を受け取ると、男はしっかりとひとつ頷きながら「はい、必ず」と言った。






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