翁に「無理を言うて済まなんだの」と言われたイビキが渋々といった様子で建物から出て行くと、長は「儂は猿飛と言うが、ここの者は皆三代目と呼んどるのう」と、横座に着くなり名乗った。
 オレは「宜しくお願いします」と頭を下げると、早速「街の酒屋で見繕って貰ったものですが…」と、化粧箱に入った五合瓶の酒を鞄から出して三代目に手渡す。何日か世話になるならこういうものも必要だろうと思い、自腹で奮発したものだ。
「ほぉ〜、これはまた」
 翁はその黒と金を多用した大胆なデザインの外箱をしげしげと眺めていたが、すっと脇に置くと「どうじゃ、山の鍋でも食べてみるかの」と言う。
「いえ、食事なら街でとってきましたので、どうぞお構いなく」
 すぐさま丁寧に断った。実際には夕食どころか昼食すら満足にとっていなかったが、こちらとしてはそんなにのんびりとはしていられないのだ。折角村長と二人っきりで対面しているのだから、この時間から鍋の用意など待っていられない。とにかく仕事の方を前に進めないと落ち着かない。
 すると「ならこっちはどうじゃ?」と、親指と人差し指で輪を作って、くいっと傾けている。
「はい、お気持ちは有り難いのですが、仕事で伺っておりますし、車なので」と、これも辞退をした。いや、自分はかなり呑める方だとは思うのだが、もしもこの老翁が早々に潰れてしまっては、それこそお話にならない。
「それより三代目、初代の方はいつ頃ここを切り開いて住みだしたのですか?」
 早々と取材モードに入って質問を切り出した。囲炉裏端は思った以上に温かく、冷えていた体が瞬く間にじんわりと温まっていく。
「ふむ、そうじゃの…。――かれこれ百年ほど前になるかの。初代も初めはもっとずっと下の、町の方に住んどったらしいが、御上の耕地整理で食いぶちを無くして、兄弟で力を合わせてここを切り開いたと聞いておる。二代目は弟の方が務めたんじゃが、もちろん二人だけではやっていけんから、優秀な山師を幾人も連れてきてここら一帯に住まわせての。お陰で戦後の一時期までは、ここもそれなりに潤っとったもんよ」
「ではその山師の方達というのも、もう既に三代目、四代目になってきていると思うのですが、具体的にはどんな技術を受け継いできているのでしょうか? 私のイメージだと木を育てて切る林業くらいしか思いつかないのですが、イビキさんのように猟を生業にしてる方も、広い意味では山師なんですよね? 他にはどんな仕事が?」
 途端に皺だらけで、こっくりとした色に焼けした翁が破顔した。
「ほっほっほ、畑さんは流石に上手いのう。酒も入っておらんに、うっかり喋りすぎてしまうわい」
 三代目は朗らかに笑って、胡座をかいた膝をぽんと叩く。
「ぁ…あぁそうでした、取材内容の説明がまだでしたね。すみません。今のような感じで、山で働く方達の仕事や暮らしぶりを二、三日かけて写真を撮りながら取材させて頂きたいのですが、どなたか紹介して頂けないでしょうか」
 この三代目という老翁、一見すると人当たりはいいが、かなりガードが堅い部分もあるようだ。なし崩し的なやり方は通用しないと判断し、正攻法でいくことにする。

 そのあとは、今朝方寝ずに作った企画書やら、参考になりそうな同社の雑誌記事やらを板間に広げて、可能な限り簡潔丁寧に取材の主旨説明をした。
 今、先進国ではスローライフやロハスと言った言葉が台頭していて、日本にも静かに広がってきているということ。
 それは一時的なブームなどではなく、少しずつではあるものの、着実にライフスタイルの中に取り入れられ、受け入れられつつあるということ。
 そして最近では、日本の里山に伝わる、昔ながらの暮らしをもう一度見直そうという流れにもなってきているということなどを、用語の説明も含めて分かりやすく説明をする。
 もちろん取材の際に発生する謝礼金の話も忘れてはいない。金額的には数日世話になるであろうことから、雑誌取材の謝礼としてはそこそこいい数字が提示出来ているはずだ。三代目も数字を聞いた途端、ほお、と目を丸くしていた。
 最後に「今回の取材が記事になれば、後日またTVや雑誌からの取材の問い合わせが来ると思います。実際にそれを効果的に使って村おこしに成功している所も少なからずありますので、この機会に上手く利用するというのも方法かも知れません」と付け加えた。少々、いやかなりあからさまかとも思ったが、遠回しに言ったところで行き着くところは同じだ。時間優先で話した。



「――以上のような感じで取材をさせて頂きたいのですが、如何なものでしょう?」
 一通り説明し終わった後、満を持して長に回答を求めた。
 手応えはあったと思う。客観的に見ても、村にとって大きな不利益になることは殆どないと思われるし、万が一多少何かしらあったとしても、見返りの方が遥かに大きいはずだ。
 囲炉裏にくべてあった薪から細く煙が上がりだしていて、それがやたらと目に染みるのを堪えながら、三代目の方を真っ直ぐに見る。
 だが長は「おお、こいつはまだ生だったか」と、白く燻っていた薪を火箸で避けながら、「遠くからわざわざお越し頂いたところすまんが、この話は無かったことにして貰おうかの」と、まるで独り言ように答えた。
「なっ?! …あの、良かったら理由を聞かせて頂けますか?」
 予想外の回答に、囲炉裏に身を乗り出すようにしながら勢い込んで訊ねた。どうあってもこのまま引き下がる訳にはいかない。むしろここからが本当の意味での交渉の始まりだ。やるしかない。
 先方の希望を聞きながら、合意に向かって折り合いを付けていく作業に、オレは全神経を傾けた。



 だが如何にも人の良さそうに見えた翁の壁は、思っていた以上に高く、厚かった。小一時間もかけて思いつく限り様々な角度からアプローチを試みたものの、分かったことと言えばこの三代目と呼ばれる小さな長老が、とても一筋縄ではいかない強者だということだけだった。
 どんなに理由を問い質そうとしても、なぜか彼はその理由を話してくれない。こんなことなら酒の誘いだけでも受けておけば、もう少しスムーズに進んだかもしれないと悔やむが、今更切り出すわけにもいかない。
 あれこれ気を回して「こういうことですか? ああいうことですか?」と訊ねてみても、「こちらも色々事情があっての」と言うばかりで、何一つはっきりしてこない。そうまでしても外部から隠し通したい何かがあるらしいことに、物書き根性が激しく刺激されるが、肝心の長が頑として一歩を踏み込ませてくれないことから、そこから先はもうどうしようもなかった。
 まるで二人の間に切られている囲炉裏の火が、そこから先に決して他人を立ち入らせないようにするための「お掘」のように思えた。

「そんなわけで、これは受け取る訳にはいかんの。すまんが持って帰ってくれ」
 三代目は酒の箱を手にとると、ほとほと弱り果てて黙り込んだオレに向かって、最後の引導を渡してきた。
「――――」
 だが言葉を出し尽くしてしまっていたオレは「いえ、それはお納め下さい」とだけ言って、小さく唇の裏を噛んだ。全てが振り出しに戻ってしまったショックもさることながら、フリーに転身するまでになったライターとして、そこそこいけていると思っていた自分が、ジャンルを跨いだだけでこうも使い物にならないことに、内心で愕然としていた。
 そうとは知らない三代目は、更に「お急ぎとは思うが、山を下りるのは明るくなってからにしてくれんかの?」などとのんびりと言ってくる。
「…?」
「ここのもんは夜は動かん。ロクな灯りもないで、明日の朝になってから発ってくれんかの」
(要するにそれは、『同じ谷に落ちるなら、探せる昼間にしてくれ』ってことね…)
 もちろんここで「大丈夫、落ちやしませんよ。すぐに下ります」と言うのは簡単だった。だが心配から言ってくれている部分もあるかと思い直し、とりあえず頷いておく。
 老翁は「遠慮はいらん、布団なら幾つもあるから泊まって行きなさい」とも言ってくれたが、今し方取材を断られた、しかも年寄りの一人住まいらしい家に厄介になるというのもどうも気乗りがしない。
「これから明日の予定を立てる必要がありますので」と言ってやんわりと断ると、丁寧に辞去の言葉を述べて囲炉裏端を後にした。



  * * *



(――あーあー、何もかもすっかり煙臭くなっちゃってまぁ)
 すっかり冷えきった車に乗り込むや、がっくりと肩を落として運転席のシートに凭れかかった。
(――ハァ……参ったな…)
 煙の染みた目を指先でぐりぐりしながら、ここ最近にない大きな溜息を吐く。
 念のためにと携帯を開いてみるも、黒々とした「圏外」の文字が目に刺さるばかりで、あれほどひっきりなしに鳴り響いて鬱陶しいほどだった機械は、煙か何かで壊れたのではと訝しみたくなるほどむっつりと押し黙っている。
 唯一の頼みの綱だった交渉が決裂した後だから余計にそう感じるのかもしれないが、情報社会から切り離されることがこんなにも堪えるとは思わなかった。今この瞬間にも世の中でどんどん大きな出来事が起こって、一人だけ取り残されてしまっているんじゃないかなどという、漠然とした不安が拭い去れない。
 それにしても恐ろしく厄介な仕事を受けてしまったものだと、今更のように思う。それでもこれがいつもの自分のフィールドであれば、次の取材先なり新たな切り口なりが幾らでも思い浮かぶのだけれど、全く未知のこの業界では途端に全てが行き詰まってしまう。
(甘かった…)
 殆ど思いつきだけで行動していた自分に歯噛みする。彼女から距離を置きたかったなら、都内のホテルでも借りて単に仕事場を移せば良かったのだ。いつの間にか、随分と思い上がっていたことに気付く。己の力量も考えずに安請け合いしてしまったツケが、ここにきて一気に回ってきていた。
 でも一旦請け負った仕事をここでキャンセルなどしようものなら、フリーとしての第一歩に自らの手で手痛いブレーキをかけてしまうようなものだ。
(こんなとこで、つまずいてらんないでしょうよ…)
 今までだって幾多の激しい競争を、先頭を切って勝ち抜いてきたのだ。例えジャンルが違ったとしても、全く通用しない訳がないではないか。
(お前の能力とは、そんなに潰しの効かない薄っぺらなものなのか?)
 まさか。冗談じゃない。
(否であることを、証明してみせる!)
 住所も分からず、携帯の電波も人家の灯りさえも届かないこんな場所では、どのみちそうやって自分自身を叱咤する以外に乗り切る術はない。
(眠って仕切り直しだ)
 バッテリー上がりを防ぐため、手早く手持ちの紙資料を見終える。そしてリアシートを倒してフラットな広いスペースを作ると、ルームライトを消して毛布にくるまった。



 だが横になった途端、耳が痛くなるような静けさが、頭のてっぺんから爪先までをぴんと押し包んでゆく。
「…………」
 ふと、『じっと黙してただそこにあるだけの真っ黒な森が、自分目がけて山ごとのし掛かってくるような滑稽なイメージ』が、脳裏を過ぎった。
(…たく、子供か)
 分厚い鋼鉄の塊であるはずの車を、ほんの一瞬であれ、まるで卵の殻のように感じてしまったことに苦笑う。
(――バカバカし)
 一つ寝返りを打つ。
 と、すぐに森ではなく、溜まりに溜まっていた疲れが音もなくのしかかってきて、ことりと寝付いた。






        TOP    書庫    <<   >>