坂道を右へ左へと曲がりながら走る車の中で、まずは今回の取材目的をごく簡潔に説明する。が、「何か質問は?」と聞いてもイビキは「いや」と短く応えただけだった。
 だが、それまで黙って話を聞いていた男が急に「アンタ四時半頃から山道に入って、一度川の手前で車を止めてただろう?」と問いかけてきて、思わず眉が寄る。
(ぇっ…?)
 前後左右にガタガタと不規則に揺れ続ける車内で、オレは出来るだけ前を見ながらも、イビキの方に注意を向けた。それまで圧迫感や威圧感ばかりだったはずの大男の印象に、新たな何かが加わったように感じたのは気のせいだろうか。
「聞こえてたぜ」
「まさか」
 あの道を跨いでいた川でさえ何キロも下だったというのに、一時間以上も手前の登り口から車のエンジン音が聞こえていただって?
「だから迎えに来たんだ」
「――――」
「風向きや天候にもよるが、大抵聞こえるもんだ」
 たまにしか聞かない音だから余計にな、と男は言った。
(へぇ)
 にわかに彼に興味が沸いてきて、早速「そのライフルでどうやって熊を撃つのか、詳しい手順を聞かせて欲しい」と訊ねる。
 けれど男は少し視線を下に落とすと、「まぁ…色々さ」と答えただけで黙ってしまった。
(は……色々、ねぇ?)
 てっきり猟は彼の得意分野だろうから、幾ら無口な男でも何かしらは話してくれるものと思っていただけに、あてが外れてしまう。
(何だろうねぇ、よそ者に猟の方法を知られたくないのか、それとも話下手で上手く説明が出来ないのか…?)
 まさかとは思うが、山の人々というのは皆こんな感じだったりするのだろうか? だとしたら苦労して村に辿り着いても、記事を書くに必要な内容が十分に得られるか、甚だ疑問だ。
(初対面のせいかもしれないけど、やはり「あれ」を持ってきたのは正解だったかもな)
 イビキが思い出したように口を開いた、と思ったら「それを左だ」とだけぼそりと発したその言葉に従って、オレは目の前に現れた二股道の手前で、ハンドルを左に切った。


「ここか…!」
 山道の両側に、まるでへばりつくようにして建っている古い木造の家がぽつりぽつりと見えだすと、程なくして道の終点へと辿り着いた。その一帯だけは、山を申し訳程度に切り開いて作った平地になっていて、暗がりの中に数軒の茅葺き屋根の民家がひっそりと肩を寄せ合うようにして佇んでいるのが、家々から漏れる僅かな灯りの中に朧気に見えている。
(これじゃ、ネットに引っかかってこない訳だ…)
 人知れず、という言葉がこうもしっくりくる集落が、こんなちっぽけな島国にまだあったとは。
(――うっわ…)
 道端に車を止め、ドアを開けた途端に押し寄せてきた、何とも言いようのない独特の気配に辺りを見回す。これがよく文字では目にする「山の空気」というやつなんだろうか。大気は凛として澄みきり、今まで嗅いだこともないような、様々な香気をたっぷりと含んでいる。
(それにしても、またえらいところに建てたもんだねぇ…)
 周辺は気味が悪いくらいひっそりとしていた。家々もしんと静まりかえっているし、山も生い茂る木々が音を吸い取ってしまったかのように押し黙っている。細く長く聞こえてくるのは、そこいらの草陰に居るらしい虫の声だけだ。
 しかし都心では秋が少しずつ始まったばかりといった感じで、日中はまだ夏日の日も珍しくないというのに、ここの空気の冷たさはどうだろう。車の中で度々冷や汗をかいていたせいもあるが、長袖の薄手のシャツ一枚だった体がぶるりと震える。
「来な、長に紹介しとく」
 車から降りたイビキが、足下からライフルと鉈を回収しながら顎をしゃくってみせている。
「オサ…? あぁ、はい」
「そこでダメだと言われたら、悪いがすぐに帰って貰うぜ」
 だが続いた言葉に、後ろのハッチを上げて上着を取ろうとしていた頭が上がった。
「なっ…?!」
「当たり前だろう。オレが仲買から聞いたことは、全て長に伝えてはあるが、まだいいとは誰も一言も言ってないからな」
「や、ちょと、そんな…」
 でも男の言う通り、確かにキーマンとなるような人物はおろか、村の誰からも直接OKを取りつけていたわけではなかった。何とか事前に連絡を取りたくて八方手を尽くしたつもりだったが、この分野に不慣れなこともあって、どうしても上手く辿り着けなかった。
 ただ(前任者が行くことになっていたのなら、まぁ大丈夫だろう)と、連絡が取れない中でもどこか気楽に考えていたのだが、よりにもよってここまで来て門前払いを食う可能性が急浮上してきたことに、思わず落胆とも抗議とも言えない声が上がる。
「悪く思うな。取材などというものを受けても、オレ達には害こそあれ、得るものは何もないからな」
「…………」
 反射的に取材に対する謝礼金の説明や、マスコミに取り上げられたことで村おこしに繋がっていった事例が口をついて出そうになったが、今この頑固そうな男に話すより、その長とやらに話した方が余程効率がいいだろう。敢えてぐっと口を噤む。
 取材を申し入れて断られる事自体は、何ら珍しいことではない。むしろIT業界では「いい気になって受け答えしていると、いつの間にか言わなくていいことまで喋らされてしまう」と、オレの名前や肩書きを聞いただけで断ってくる者も多い。だが、今この状況下でダメ、というのは流石に勘弁して欲しかった。少なくとも、オレの立場から言わせて貰うならあり得ない話だ。
 何やら日本国内の取材ではないような気分になってくるが、ここは間違いなく東京都心部から七時間の「遠い」国内。
(…ま、言葉さえ通じりゃ、何とかなるでしょ)
 いや、なんとかしてみせる。
 厚手のブランドジャケットを掴むと、取材道具一式の入った大きな鞄を肩に掛け、平地の真ん中にある一番大きな茅葺きの民家に向かって大股で歩いていくイビキに続いた。


「――こんばんわ、お邪魔します」
 上半分が障子になっている、まるで時代劇のセットか何かのような木戸が、現役の玄関であることに何度も目を瞬かせながら高い敷居を跨いで入る…と、すぐに木が燃える匂いがする。
(!)
 直後、目の前の白壁に、生々しい刃の付いた、一体何にどうやって使うのかも分からない巨大な鋸や斧、鉈などがこれ見よがしにズラリと掛かっているのが一斉に目に飛び込んできてギョッとする。どうやら三和土の壁は一面に道具置き場になっているらしいのだが、玄関の壁からしてこの迫力なら、例え薄っぺらな障子のドアであってもここから先に押し入る輩はいないだろう。
 更に左側でぱちぱちと火の爆ぜる音がして、固く叩き固められた土間の土の上でそちらの方を見たオレは、呆然と立ち尽くした。
(な……)
 艶やかに黒光りしている十畳ほどの板間の真ん中に、半畳ほどの囲炉裏が切られていた。そこには赤々と火が焚かれ、一つだけ下がった小さな裸電球の乏しい光を、申し訳程度に助けている。その灯りは、オレの車の車内灯よりまだ暗いくらいだ。
 囲炉裏の上には、竹と鉄で作られた太い自在鉤がしつらえられていて、隅々まで真っ黒に煤けながら湯気を上げている、重そうな鉄鍋をぶら下げている。
 その囲炉裏の向こうには、大きな大黒柱を背にして、一人の老人が胡座をかいて座っていた。小柄な体の痩せた翁は、その重厚な空間に異様なほどしっくりと馴染んでいて、千年も前からそこに座しているかのような奇妙な一体感を醸している。
 何を祭ってあるのか分からない、でも単なるお飾りなどでは決してない、れっきとした実用品として稼働しているらしい神棚も、漆喰で塗り固められた白壁も、手作りと思しき木製の生活道具類も、天井を幾重にも走る巨大な梁も、そして座っている小さな翁ですらも、とにかく囲炉裏の周辺にあるもの全てが長い時間を掛けてじっくりと煙に燻され、こっくりとした栗皮色に覆われて、独特の重い気配を発している。それはこの囲炉裏が今もなお現役で、これに頼って生きてきたことの証しなのだろう。こういった生活とは遥かに縁遠い者にも、それについては否応なく察しがついていた。
 ただ一つ飴色に染まっていないのは、囲炉裏の中で揺らいでいる炎だけだった。
 タイムスリップ、などという非現実な言葉を、実体験とセットで使うことなど一生あるはずがないと思っていた。なのにこの光景の前では、とても精巧でよく出来ていると評判の資料館やテーマパークのセットはもちろん、文化財として保存している現物でさえも、瞬く間に嘘臭く感じられ、色褪せていく。
 おおよそリアリティの桁が違っていた。

「東京でフリーライター――というのは、雑誌に載せる記事を書いたり、取材をしたりする者の事なんですが――をやっています、畑カカシと言います。夜分遅くに突然伺うような形になってしまってすみません」
 イビキが「三代目、連れてきたぜ」と言うや、オレは土間で頭を下げる。
 鉄火箸で薪をいじっていた翁はゆっくりと立ち上がると、思いのほか温かな声で「おぉー、こんな山の中までよう来たの。まぁ上がりなされ」と言った。



「お邪魔します」
 革靴を脱いで揃え、上がり框から板間へと上がった。足下でギシリ、という低い軋み音がしたが、家自体は案外堅牢らしく、頭上を複雑に走っている一抱え以上もある太い梁や柱をしげしげと見上げる。一番高い部分は真っ暗で何も見えないが、どこかに煙抜きの穴でもあるらしく、匂いの割には室内はあまり煙たくない。
「都会とちごうて山は冷えるじゃろ、お掛けなされ」
 翁の柔らかな声に促されるまま、「はい」と返事をして囲炉裏に近寄る。
 半畳ほどの広さの囲炉裏の上空には、額がぶつかるほどの微妙な位置に木製の四角い櫓(やぐら)が下げられていたが、その上には何かの獣の肉塊らしきものが置かれていたり、串に刺さったままの川魚や、どう見ても蛇らしきものまでがごっそりとぶら下がったりしていて、刃物置き場と同じく一種異様な雰囲気を醸している。
 出来るだけその近くに座るのを避けようと、一番離れた奥へと向かったのだが。
「オイ! そこはお前如きの座る所じゃないぞ!」と、土間に立ったままのイビキに言われ、「ぇ?」と頭を上げた。
(ゴトキってね…、じゃあどこに座れってのよ…)
 一応客なんじゃないのかと思いつつも、下ろしかけた腰を上げ、その左側に行こうとすると。
「そこは嬶(かか)座だ、お前は一番手前だろうが」とぴしりと言われ、結局半周回って一番蛇に近い場所を指定されてしまった。渋々頭上を気にしつつ、やや傾き気味に座る。
「ほっほっほ、まぁイビキよ、カカァはもうとうにおらんのじゃから、そう目くじらを立てんでも良いじゃろうて。――畑さんや、囲炉裏端というのはの、昔から座る位置が決まっとるんじゃよ」
「は…」
「大黒柱を背にした、土間から一番遠いところは横座と言うて、一家の家長が座る場所じゃ。その左側の、水屋に近い方が嬶(かか)座で、家長の妻の場所。そして横座の向かい側に当たる、土間から一番近い所が客座というて、客人やら子供らが座るというのが古くからの習わしなんじゃ」
「なるほど、そうでしたか。いや、失礼しました」
 まさか囲炉裏に席順があるとは知らなかった。オフィスマナーとして応接室やタクシーでの席順はもちろん知っていたが、どうやらそれらは最近になって突然生まれたものではなく、人々が屋内で火を囲みだした何百年も前からあったらしい。
 しかし翁は「そもそも囲炉裏自体がもうどこにも無いでの。知らんで当然じゃ」と言いながらも、その後に「家長以外でその横座に座ろうとするのは、昔から『猫と馬鹿と坊主しかおらぬ』と言うての」とやんわりと付け加えてきた。
「勉強不足で…すみません」
 オレはもう一度囲炉裏端で頭を下げた。田舎だからと、どこか気を抜いていた所があるのは否めない。
 早くもそれを彼らに見透かされ、指摘された気がした。






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