だが逃げるように東京を後にして最寄りの県庁に向かい、「同名の地名はないからこの辺で聞けば」と言われて紹介された「簡易分室」なる公共施設を更に一時間かけて目指したものの、電話番号からナビが導いてくれた朽ちかけた鉄筋の建物には人影は無く、冷えてしんと静まりかえっていた。平日の昼間なんだから問題ないだろうと考えていたが、どうやら隔日開設になってしまっているらしい。
 深刻な過疎とは、公的な業務までも風前の灯火にしてしまうものらしく、都会生まれ都会育ちの常識では推し測れない場所に来ていることに、漠然とした不安を覚える。
 もうそこから先は、半ば意地だった。
 たった数日間体を空けようとしただけで大量発生してしまった煩雑なスケジュール調整や残務を必死でこなし、行ったこともない山奥で数日暮らすことを想定した荷物の準備までして、とにかく昨夜は一睡もしないまま、ようやくここまで辿り着いたのだ。今更取材先の村に辿り着けなかったからといって、はいそうですかとそう簡単に引き下がれるわけがない。
 山肌に沿ってひたすらうねうねと続く、細い道を上り続けた。



  * * *



(――嘘でしょ、ちょっと、なにこれ…)
 ただでさえきつくなってきていた勾配が、より一層角度を増してきて、車のエンジンが一際高い呻りを上げだすと、にわかに帰りのことが心配になりだす。
 道はいつの間にか車幅ギリギリまで狭まってきていて、刈る者もないまま道路に好き放題伸び出した雑草が車体を擦る、キーキーという耳障りな音ばかりがひっきりなしに続いている。待避所になりそうなスペースは一ヶ所も無く、これでもし上から対向車が来ようものなら、切り立った崖から脱輪しないようにしながら、一体何キロバックしなくてはいけないのかと、考えただけでも冷や汗が出る。車の運転は嫌いではないしそこそこ自信もあるが、この先上り詰めた所が行き止まりで、万一Uターンする場所が無かったらと思うと、今にもアクセルを踏んでいる足をブレーキに置いてしまいそうだった。
(あの老人、少し上ったらって、確かに言ってたよな…)
 こちらの言う「少し」とは、一体どれほどのことを指すのか。今まで散々目を凝らして道の両側に注意を払ってきたが、それらしき脇道は絶対に無かった、はずだ。
 いつしかアスファルトの道路とは別れを告げていて、地面は灰色のコンクリートへと変わっている。だが風雪にさらされてあちこちひび割れ、時には谷側に崩れて陥没しているにもかかわらず、長いこと補修もされていない様子のこの道の先に、人の住み家があるとはとても思えない。
(まさか…怪我をして急に入院する羽目になった前任のライターって、こういう所から転落したから…とかいうんじゃ…?)
 嫌な想像が頭をもたげてくるが、錆びたガードレールがごくたまに、思い出した程度にしか設置されていない切り立った山道を見ていると、それもさもありなんと思えてくる。
 大蛇のようにうねりながらひたすら上がっていく先を、ハイビームにしたライトが右へ左へと不安定に揺れながら照らしていく。空はもうとっぷりと暮れて世界は黒く沈み、ライトに次々と集まってきだした白っぽい羽虫のチラつきが、次第に鬱陶しく感じられるようになってきている。

(! よしっ、開けたぞ!)
 ならばもう目的地も近いだろう。
 そう思ってホッとしたのも束の間。ライトに照らし出された眼前に、道路をすっかり分断する形で幅十メートルほどの川がどっしりと横たわっている光景に、うっと息を呑んだ。確かにナビにも川は描かれていたが、普通誰だってそこには橋が掛かっていると思うだろう。あの老人だって、そんなこと一言も言ってなかった。
「――も……勘弁してよ〜…」
 停止したまま、思わずハンドルに伏して溜息を吐く。
 今はまだ、渡ろうと思えば渡れそうな深さだが、帰りの天候次第では渡れなくなる可能性もある。携帯だって、もうとっくの昔から圏外になっているというのに、こんな山奥で一人で立ち往生なんてまっぴら御免だ。
 ふと(このスペースを利用して強引にUターンしようか?)と考えたが、インターフォンの前に立つ女性の映像が脳裏を過ぎると、それはそれで余り良い選択とも言えない気がする。
(どこの誰よ、人のこと王様なんてはやし立ててたのは…)
 この状況のどこが王様なんだと、腹立ち紛れに問い質したい気持ちを、片手でガシガシと頭を掻くことで蹴散らす。
(くそっ、こうなりゃ行けるところまで行ってやる!)
 幸い愛車は四駆だ。川の中でスタックして立ち往生さえしなければ何とかなるだろう。この車は新車で買ってからというもの、今の今まで完全なシティオフローダーだったが、まさか初めての本領発揮がいきなりこんな本格的な川渡りになるなどとは、夢にも思っていなかった。

(――よし、いくか)
 一旦車から降り、ヘッドライトに照らされた河面を注意深く眺める。そして再び車に乗り込むと、思い切って車を川に突っ込んだ。
 ザンッと音がして、車の両脇に大きな翼のような水飛沫が盛大に上がったのが見えた、その瞬間。
 ふと何の脈絡もなく(もしかして、この川がこの世とあの世の境になっていて、向こう岸に渡ったが最後だったりして…)などという至極馬鹿馬鹿しい思いが脳裏を掠めたが、構わずアクセルを踏み込んだ。



  * * *



(――っ…?! …なんだ、犬……いや、狸か…)
 きついヘアピンカーブを曲がった直後、道のド真ん中に数匹の獣がたむろしているのが目に飛び込んできて、咄嗟に急ブレーキをかけていた。緑色のまん丸い瞳が一斉にこちらを見たかと思うと、茶色いずんぐりとした体が驚いたように茂みへと飛び込んでいく。
「も…おどかすなよ…」
 無事川を渡りきった直後こそ、達成感とも征服感とも言えぬ独特の興奮に体を熱くしていたものの、聞いていた左に入る道がいつまでたっても出てこない事から、再び焦りを募らせていた矢先だったのだ。シートにもたれ、ほうと溜息を吐く。
(まずいな…)
『道を、間違えた』という、出来れば認めたくない現実が、刻一刻と現実味を帯びながら音もなく近付いてきている。
 最終的にはナビがあるから、燃料がある限りは下山することは出来ると思うが、こんな急坂の細い一本道の真ん中では、危なくて車中泊も出来ない。
(どうしたらいい…?)
 このまま無闇に走り回って、ガソリンを浪費するのも危険な気がする。この先に本当に言われた通りの道があればいいが、もし無かった場合…。
(でも、戻るったってねー)
 バックミラーで後ろを見ると、山肌から長い草木が覆い被さるように張り出した車幅ギリギリの細いでこぼこ道が、赤いブレーキランプの灯りにぼんやりと浮かび上がっている。更にその向こう――遥かに連なる山々――は、既に道路灯一つすらない漆黒の暗闇だ。
(Uターン出来なきゃ、無理でしょうよ…)
 やはりどう考えても、とりあえず今は前に進むしかないと思う。
(やっぱりあの川は、渡るべきじゃなかっ…)
 パーキングに入れていたシフトレバーをローに入れ、ゆっくりと坂道発進をしようとした時だった。
「ッ?!」
 ギョッとして、思わずブレーキを蹴飛ばすように踏み込んだ。車体がガクンと前にのめり、そのままエンストする。
 白いヘッドライトの中に、山の中から出し抜けに飛び出した人影がくっきりと照らされていた。本来なら道を聞く絶好のチャンスだし、これなら人家も近いと喜ぶべきところだが、男の現れ方と異様な容姿にただならぬ気配を感じて、喜ぶどころか動くに動けない。
 男はがっちりとした大柄な体型で、自分よりもまだ一回り以上も大きく見えた。丈夫そうな紺の上下に、袖のないポケットの沢山付いた深緑色のジャケットを羽織り、足にはごつい靴を履いている。頭には茶色い帽子を被っているが、大股で近寄ってきたその男の風貌を見るや、オレはバックで逃げるか、それとも猛然とアクセルを踏み込むべきかを真剣に考えた。
 男は腰に、刃渡り30センチはゆうにあろうかという、大きな鉈を下げていた。目深に被った帽子の鍔の下から、針のように細く鋭い目が真っ直ぐにこちらを見ているのがわかる。その鋭さは、間違ってもライトの眩しさからくるものなどではなく、男が日頃から内側に密かに隠し持っているものの現れのように思えた。
 しかも大きな背中に隠すようにして背負っている黒い長筒は、ライフル銃ではないだろうか。男が近付いてくるにつれ、その顔に幾つもの傷が縦横に走っているのが見えると、堪らずキーを回して再びエンジンをかけた。
(冗談じゃない!)
 頭の中を、日々途切れることなくマスコミ上で繰り返される、理不尽で凶悪な、血生臭い事件の数々が次々と過ぎりだしていた。こんな所でトラブルに巻き込まれるなど真っ平ごめんだ。
 だが、再びギアをバックに叩き込んだ所で、運転席のすぐ側まで来ていた男が、大きなごつい右手で帽子を取るのが見えてハッとした。
(…………)
 今にも急発進したいのを辛うじてぐっと堪え、ロックしたドア越しに男の顔を見上げる。
「――アンタかい、東京から来ると言ってたのは」
 坊主頭の男が発したバリトンは、まだパワーウインドを下ろしていないにもかかわらず、腹の奥にずしんと響いた。



「――良かった…もう殆ど諦めかけてたんですよ」
 ドアが閉まって車を出すと、オレは相変わらず男の発する独特の威圧感に馴染めないながらも、数年をかけて培ってきた習性から、そこそこ人当たり良く話を始めた。
 最初車内灯を点けて名刺を渡すと、男は「森乃イビキだ」と名乗った。見た目と違って案外きちんとしていて、どうぞと乗車を勧めると、猟銃と鉈は車体と平行にする形ですぐに左側の足下に置いていた。もしも猟銃を抱いたまま乗ろうとしたなら、断固として後部座席下に置かせていたところだ。
「都会モンにしちゃ、いやに遅えなとは思ってたが、昨日来た仲買いに聞いても何も知らねえって言うしな。こりゃ谷底にでも落ちてんじゃないかとか、明日辺り探しに行った方がいいんじゃねぇかと話してたところだ」
「あ〜そうでしたか」
 自分だけじゃなく、地元民ですらそう思っていたことに苦笑いしつつ、すぐに「仲買さんというのは?」と訊ねる。もう既に仕事モードに入っていて、少しでも疑問に思ったことは殆ど反射のように聞いてしまう。
「あぁ、熊の仲買さ。他にも猪や鹿を専門に買ってくれる所とか、鞣(なめ)した毛皮だけとか、まぁ幾つかあるがな」
「ここ、車通るんですね?」
 つい何の気なしに口にすると、男の顔が片側だけ笑うように歪んだ。
 だが一番の朗報は、彼が「昔は背負って下まで売りに行ってたが、今じゃ電話一本で取りに来てくれるから助かる」と言ったことだろう。一応村には電気も電話線も通っているらしいことに、内心でホッとする。
(まっ、当たり前か)
 この国に、電気のない生活を送れる人間など居やしないんだから。

 恐らく前任のライターは、街の熊肉を扱う店あたりから仲買人の存在を知り、更にそこから木乃葉という、今だに昔ながらの山暮らしをしている集落がある事を知ったのだろう。
(目の付け所はなかなか良かったと褒めてやるが、肝心の詰めが甘かったな)
 現場に辿り着けないのでは、アタリを付けた意味がない。
(…まっ、せいぜいオレが活用させて貰うとするよ)

 イビキに「まだもう暫く、道なりだ」と言われるまま、車を発進させた。






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