「!?」
 最大限用心しながら踏み下ろしていたはずの足が、いきなりずるりと滑った。
(く…っ…!)
 咄嗟に手でバランスを取って転倒こそまぬがれたものの、鼓動は無駄に速まり、嫌な汗がじわりと手や背中に滲んでいくのが分かる。
 こんなことを、さっきからもう何度繰り返しているだろう。
 こうして自身の足運びを迷わせ、遅らせているのが、疲れや山歩きの経験の無さや、夜の暗がりだけではないらしいことも、己を苛立たせている。

「――ああっ、くそっ!」
 急な坂道を急ぎ足で下りていた泥だらけの足を止めると、道端の大木に手を付いたまま、暗く沈みだした森の奥に向かって一つ悪態をついた。
 認めたくないが、頭の中からあの黒髪の男の顔がどうしても払えないでいた。
(あーもー……参ったなー…)
 そもそもオレは最初、単なる流行でしかないスローライフとやらを小バカにしてたのではなかったか? だが一旦その現場に行くと決めて、またとない取材のチャンスが訪れた途端、大慌てで尻をまくって逃げだそうとしている。
(オレって…、アタマおかしいのかねぇ?)
 よく「フリーライターになる」などと言えたものだ。
(は〜〜、おかしいんだろうねぇ〜)
 願ったり叶ったりの千載一遇の究極のスローライフと向き合った途端、もう一方でその対極にある「スピードライフ」を腹一杯享受したくなって、恥も外聞もなくなっていたなんて。
 そんな自分を、次第に滑稽に思いはじめていた。

(それにさー…)
 思えばあの男が、最後の最後まで何かというとオレの手ばかり見ていたのも、正直気に食わなかった。いや、何よりそのことが一番納得いかない気もする。
(ったく…失礼でしょうよ)
 自分の不義理や非礼の数々はすっかり棚に上げて、至極勝手なことをまで考えだす。
(――まっ、やっぱこれは仕事だしー? 来たからには徹底して取材しなきゃダメだからね?)
 今しがた下りてきたばかりの細道に向きなおった。

 もう一度ゆっくりと急坂を登りだすと、たちまち息が上がりだし、足に馴染みのある痛みが走りだして顔が歪んだ。
(ははっ、天罰テキメンだな、こりゃ)
 目に見えない色んなものに逆らっていることを身に染みて感じるが、不思議と予想していたほど嫌な気分というわけでもない。
 オレは片側だけ頬を吊り上げると、足下にぽつぽと見えはじめていた人家の灯りに背を向けた。



   * * *



(…まぁ多分、いる…よね?)
 上がりまくった息を無理矢理押さえつけるようにして静め、刻一刻と紺色に染まりだした背景に薄ぼんやりと見えているだけの、粗末な小屋の木戸を二度叩く。
「そのー、…オレ、だけどさ。途中で足下が暗くなっちゃったから、仕方なく引き返してきちゃった」
 それだけ言ってから勝手に板戸を横に引くと、案の定鍵などというものはかかっておらず、ゴトゴトと低く鳴きながら脇へと滑っていく。
 家主である紺色の作務衣を着たイルカは、すぐには居ると分からないほどの暗がりの中で、板間に四つん這いになって何かしていたらしい。が、ようやくその姿を認めたときにはまだぽかんと口を開けたまま、その格好で固まっている。
「ええっと…もしまだ用意が間に合うようだったら…だけど、……その…今晩、泊めて貰えるかな?」
 その時朧に見たイルカの顔が、まるで泣き笑いのそれのように見えた気がするが、そもそもこんな暗がりでものを見る機会がないから定かではない。
「ぇ…ぁ…ええ! ええはい! もちろんです! いまっ、今すぐ用意しますから!」
 板間から転がるようにして土間に下りたものの、あたふたしながらもう一度板間に駆け上がって小さな箱を一つ持つと、部屋の真ん中辺りでがさごそしている。
(? マッチ?)
 そのまま傘の付いた吊りランプに近付いて、ガラスで出来た筒状のホヤを上げると、オレンジ色の仄かな灯りが一帯にふわっと広がった。
(へえ〜)
 冷たい藍色に沈みかけていた室内が、一転して心落ち着く温かな世界へと劇的に生まれ変わっていく。炎の上にある丸い大きな銀色の傘が集光の役目を果たしていて、ランプの真下でなら本も読めそうなほどだ。
「ランプの灯りってのも、結構いいもんだね。これでどのくらいもつの?」
「はい、朝まで大丈夫です」
「そんなに燃費いいんだ? すごいな」
 イルカは年季の入った四角い真鍮製のカンテラにも火を灯して台所に持っていくと、天井から下がった針金に吊した。なるほど、携帯用か。これがあれば屋外での作業や、必要なら夜間外出だって可能というわけだ。
 土が剥き出しの土間や、一切の内装もない寒々しいはずの板壁に囲まれた空間が、ランプのオレンジ色の灯りによって温かく奥行きのある世界へと様変わっている。蛍光灯の明かりではこうはいくまい。
 油の灯りというのもなかなかどうして雰囲気があって、しかも安価で合理的なものじゃないかと、オレは写真を撮るのも忘れて、暫しの間その慎ましく優しい光に見とれた。

 土間に降りたイルカは、鉄鍋に水を張ったり、竈の火を熾したりと、片時も止まることなく独楽鼠のようにくるくると走り回っている。
(あ、そういや…)
 ふと、人の姿もおぼつかないような暗がりで、彼が一体何をしていたのかが気になって、いまだ片づけらないまま囲炉裏端に放置されたものにそっと近付いた。
 そこには硯と細筆、それに数枚ばかりの半紙が広げられていただけなのだが。
(――も…負けたよ、ホント…)
 口先ばかりでろくに行動が伴ってないオレなんかより、あの男の方がよほど物事に対して真摯で貪欲だ。
 薄茶色い半紙に墨の濃淡だけで一息に描かれている幾つもの「手」が、どれも生き生きとしてしなやかで、しかもどこか艶めかしいことに、形容しがたい驚きと気恥ずかしさを覚えたオレは、俯いたままその場を離れた。



「お腹空きましたね、すぐ鍋にしますから!」
 使い込まれた木のまな板に、次々と色んな材料が乗せられては刻まれて、竹笊へと盛られていく。巷では一日30品目などと言われだして久しいが、一食で楽々達成出来る品数だ。
 だが端で見ていると「ちょっと待て! それは本当に食べ物なのか?!」と言いたくなる、どうひいき目に見ても雑草としか見えないものも混じっているのが気になる。今朝イルカが山道を歩きながら、なかなか追いつけないオレを尻目に藪や沢に入って手当たり次第むしっていたのを入れているようなのだが、一体どんな味になるのか…想像も出来ないし、あまりしたくない。
 続いてまな板に肉塊を置いたのを見て、今度はちゃんと聞いておかないとと慌てて質問すると、イノシシだという。
「そっ、それってもしかしてさ、森乃って人が獲ってきた…とか?」
「あ、イビキさんご存知なんですね! そうなんです昨日獲ってきたんですよ。90キロもある大物だったそうです。でもイビキさんは猟の腕はもちろんですけど、獲った後で捌くのもすごく鮮やかで手早いんです。腸(ワタ)抜きも上手いから肉の質がいいって、いつも業者さんが褒めてる猟の名人なんですよ」
「…は……そう、なんだ…」
 肉に関しては詳しく聞かない方が良かったと後悔するが、もう遅い。したくないのにどうしてもその一連のビジュアルをリアルに想像してしまって、食欲の減退を感じる。
 けれど何より気になったのは、その後に用意しだしたキノコだった。
「畑さんとってもいい時に来て下さいました。今この辺ではキノコが盛りなんですよ。先週まで雨が多かったから、今年は特に豊作でして」
 そういいながら縁側に干してあったのや、土間に並べてあったもの、今朝道端でちぎっていたものなどを、目立つゴミを適当に取り除いただけで洗わないまま、どんどん笊に並べている。ひょっとしてこのまま鍋に放り込むつもりなのだろうか?
「あっ、洗おうかっ?」
「いえ、洗うと味が落ちるので」
「…ぁ……そ…」
(や、んーまぁー、そりゃ…別にホラ、農薬がかかってるって訳じゃないからぁ?)
 いいっちゃいいのかも…だけど、さー…
 あぁいや、それよりも何よりも最大の問題は、色や形が余りにも異様で、常識的にはとても食べられるとは思えない、不気味なヤツばかりがゾロゾロと並んでいるということだ。ちょっとなにこれ? キノコグロテスク大会決勝? しかもこれを全部一緒くたにして食べる?!
「…すっ、すごい種類だけど、名前、聞いてもいいかな…?」
「ええ。この桃色のとてもキノコに見えないボサボサなのがホウキダケ、黄色いヌルヌルしたのがコクリノカサです。あ、今ちょっと芋虫が食ってますけど、こいつ自体も生で食べられますから大丈夫ですよ? 昔はキノコよりこっちが目当てだったくらい珍重したそうです。このハツタケは裏が青カビが生えたみたいになってますけど、もちろんカビじゃないですから安心して下さい。カラスタケはこんなに毒々しい紫色をしてますが、すごく歯ごたえがいいんです。こっちの一番大きくてゴツイ毛むくじゃらなのはコウタケで、主に香りを楽しみます。逆に真っ白くてツルツルなのがスギヒラタケで、何年か前に人死にが出たから食べないようにって下の町あたりでは言われてたみたいですけど、この山のは私が子供の頃から毎日食べてますから大丈夫です。紅色をしてるのはアカダケで毒があるんで生では食べられませんが、塩漬けにすると抜けるんで助かってます」
 ICレコーダーをオンにしておいて良かった。一度ではとても覚えきれな……いや、そうじゃないだろう?!
(オレって自宅でもう一度、この録音を再生出来るんだろうか…?)
 すごく、すごく不安だ。


「さ、じゃあそろそろ始めましょうか?」
 鍋に殆どの材料を入れ終わると、イルカが囲炉裏の端に小さな炭を数個置いた。そこに鉄の五徳を乗せると、大きな茶色い葉っぱを一枚、何かのおまじないのように乗せている。
「それは何?」
 座る位置に気を付けながら、イルカの手元をカメラで追いかける。
「朴の葉です。これを皿にして、こうして刻み葱や味噌を乗せて炭で炙ると、香りが移って美味いんですよ。さっきの香りを楽しむコウタケも、ちょっと焼いてみましょうか」
 言いながら、恐竜の頭みたいにゴツゴツして不気味なキノコを素手で手早く裂いている。
「うわっ、もうかなり匂ってきてる?! ね、これってホントにキノコの匂いなの?!」
 松茸なんてメじゃない。どうしてこれほどのキノコが広く知られていないのか不思議なくらい、そいつは強烈だ。
(何だろね…、何種類かの香草とチョコレートが混ざり合って、香ばしく焦げたような…?)
 とにかく室内一杯にその独特の匂いが立ちこめた頃、焼き上がった一切れを、良い香りが立ってきた味噌と一緒に恐る恐る口に入れる。
(――んーんーー…なんというかー…)
 今まで全く体験したことのない味と香りであることは確かだ。あんまり不思議な匂いに、これを美味いと評していいのか、不味いと評していいのかさえよく分からない。
 勧められるままにもう一切れ口に運ぶが、やはりこれは何度食べても「独特」としか言いようが無い気がする。
「んーー…すごく好みの別れる味、かもね…?」
 もっと他に言いようがあったと思うのだが、思わず逆ストレートな感想が口をついて出てしまう。
「それを干して乾燥させるとこんな風に真っ黒になるんですが、香りがより凝縮されるので、お茶や酒に入れてもいけますよ」
 オレの感想を特に気にした様子もなく、イルカが窓辺に糸に通して吊してあった呪術用のネックレスみたいなものを持って囲炉裏に座った。よく見ると、コウタケのスライスが何十個も糸に通されている。なるほど、こうやって干すのかと、ここでも囲炉裏を背景に一枚撮っておく。





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