「酒なんて、あんの?」
 そっちの方は嫌いではないので、思わず訊ねる。いや、何はなくともそれは欲しいところだ。
「あはっ、実は頂いてしまって」
 イルカが背負子に乗せてあった大荷物の中から取りだしてきたのは、夕べ自分が三代目に手土産として差し出した、まさにそれだった。
(へえ、あの人もいいとこあんじゃない)
 例えそれが、オレをこの小屋に一晩留め置くための切り札だったとしても、ここは一つ有り難く頂くことにする。
 それくらい、慣れない仕事に疲れた体には「熱燗にしましょうか」という響きは心地よく、逆らうことなどとても出来そうになかった。
 
 囲炉裏の片隅に、アルミで出来た大きめのカップが二つ繋がったようなものが灰の中に埋めるように置かれていて、一体何に使うものかと思っていたら、そこに酒を注いだ徳利を入れている。
「中に入れてある水がかなり熱くなってるんで、こうしておくとすぐに熱燗になるんです」
「なるほどね。囲炉裏って薪さえ確保出来れば、そこで鍋も作ればキノコも焼けるし燗もつけられて、暖をとりながら同じエネルギーで色んな事が一度に出来るから、考えてみれば結構合理的で便利なのかもね?」
 少なくともエアコンで燗はつけられない。
「あはっ、でしょう?」
 その時のイルカの笑顔は心から嬉しそうで誇らしげで、不意を衝かれたこっちが驚いていた。
「囲炉裏では他にも室内や衣類を乾かしたり、食べ物を燻して日持ちするようにしたり、建物につく虫やカビ除けなんかにも一役買ってます。それに色んな事に使える灰も一緒に作れて、もちろん灯りにだってなりますから、こんなに便利なものは他にないですよ」
「ま……そうね…」
 そこまで断定口調で力説されると、思わず「都会にだってこれよりもっと安全で便利なシステムは幾らでも」と片端から例を挙げていきたくなってしまうのだけれど、今は泊めて貰っている身でもある訳で。
 郷にいれば何とやらかとその場はぐっと呑み込んで、とりあえずはいはいと頷いた。

「あそうだ。そのコウタケって、一度に沢山食べ過ぎると舌が痺れたり切れたりするんで、あんまり食べ過ぎないで下さいね」
「…っ?!」
(香り酒にすると、あの独特の匂いもなかなかどうして…)などと、朴葉味噌と共に悦に入っていると、にっこりとしたイルカが明るくそんなことを言いだす。
(こっ…この男…っ)
 やっぱり反りが合わない。
 赤く静かに燃えていた囲炉裏の中の薪がまた、ぱちんと爆ぜた。





「え? ひょっとして、今からご飯炊くの?」
 土間に降りて、鉄製の重そうな羽釜を竈にかけている男に声を掛ける。
「はい、すぐ出来ますから」
「あ、待って! 撮る、撮らせて!」
 慌てて大型の三脚を開き、カメラを固定する。カンテラと竈の柔らかな灯りが、擦り切れた木綿の半纏を羽織った下駄履きのイルカを、思わず笑ってしまいそうなくらいイイ感じに照らしている。
 火吹き竹を持って膝をついた彼が、竈の奥に奥に向かってぷーっと息を吹きかけると、その度に彼の横顔が明々と照らされる。恐らくこの写真、担当者が見たら「ヤラセ過ぎだよ。かえってリアリティがない」とか言われそうだが、これが嘘偽り無い現実なのだから仕方ない。
(――まっ、たまにはそんなのも、いいでしょ)
 ファインダーを覗きながら、小さく口端を上げた。


 一連の写真を撮り終えて、再び黒光りしている板間に上がると、囲炉裏を挟んで向き合って座る。
「こっちもそろそろいいみたいですよ」
 そういってイルカが自在鉤にかかっていた鉄鍋の木の蓋を取ると、正体不明の色んなものがごっちゃりとひしめき合った液体が目に飛び込んできて、それを見た瞬間からどうしても「闇鍋」という言葉が頭から拭い去れなくなる。
 その中には危うさ満載のキノコ類はもちろん、あのイビキが捌いたという赤黒いイノシシの肉もあれば、イルカが道端で適当にちぎっていた怪しげな草までもが今し方たっぷりと放り込まれている。
(んん〜〜…)
 ここまで徹底的して混沌とした見た目では、例えどんなに上手く撮ったとしても不採用間違いないだろう。魔女の呪術用と言ってもあっさり通ってしまいそうだ。
「ね、これってホントーに、大丈夫、なんだよね?」
「は?」
 木杓子でもって、大ぶりの汁椀に盛りつけていたイルカが、きょとんとした顔でこちらを見る。
「ぃっ…いや、何でもない。……いただき、ます…」
 三代目に勧められた時は、断ったことで大失敗したのだ。ここは少しでも口にしておかなければ。
 だがあまり椀の中を見ないようにしようと思えど、どうしても箸でつまんだ一つ一つの物体をつぶさに見てしまう。あぁ、今のはコクリノ何とかいうキノコだ。芋虫に食い荒らされて穴だらけだからすぐに分かる。キノコは洗ってないから、この分だとそのうち食い荒らしたヤツの方とも椀の底でご対面するんだろう。
 大体、こんな怪しげな食材ばかりを一緒くたにして煮たら、鍋の中で危険な反応とか起こったりしないだろうか?
(――あぁぁもう、いつまでもうだうだするな、食べなきゃ書けないだろうが!)
 ついにあれこれ考えること自体が馬鹿らしくなってきて、決心を固めた。もうヤケクソだ。
 向かいでは椀を持ったままのイルカが、箸を付けないでこちらをじっと見ている。音らしい音と言えば、竈と囲炉裏で薪が燃えている音だけだ。
(ふん、どうせ目的は手の動きなんだろ)と、味噌仕立ての汁を勢いだけで啜った。悪いがナイフとフォークならまだしも、箸の持ち方はあまりきれいでないと自覚している。見たところで何の参考にもなるまい。
(――ぁ…れ?)
 内心少し驚いた。
(言うほどまずくも…ない、か?)
 外食の味に慣れ親しんだ舌には正直野暮ったくて、お世辞にも美味とは言い難いものの。
(まぁ…、食べられないこともない…か?)
 得体の知れなかった道端の草の鼻に抜ける鮮烈な香りと歯触りは、普段口にしている野菜と同じ植物とは思えない独特のキレがあるし、キノコは気持ちの悪い度合いが高いやつほど案外いけたりして、じゃあこれはどうだろう、次はどうだと、まるで生まれて初めて食べ物を口にする子供のように、おっかなびっくりながらも箸を進める。
 見た目からしてかなり萎えていたイノシシは、思っていたより固くなく、げっそりするほど分厚い脂身があったはずが、信じられないほどあっさりとしていて、噛み締めたとき微かだけれど確かに感じた緑の香りにハッとした。
「お代わり、どうぞ?」といいながら自分の前に差し出された、乾いて固そうな手の平に、「じゃあ…」と椀を乗せたのは、決して気を遣ったからではない。
「このキノコ…、最初に食べた人って、勇気あったね」
 だが二杯目に箸をつけだしてもイルカが黙ってこちらを見ている空気に堪えきれず、感想とも言えないような感想を口にする。
「そうですね。当時は今にも死にそうなほど、みんな腹が減ってたんじゃないでしょうか。どうせ死ぬなら食べて死んだ方がマシだと、最後にはそう考えたんだと思います」
「ぁ――…あぁ…、そ…ね」
 その言葉にやたらな説得力を感じたのは、この質素も極まったような暮らしぶりのせいもあったろうし、オレのどうでもいいような問いにイルカが思っていた以上に真面目な返答をしたこととも無関係ではなかったのだろうけれど。
「ね、なんで食べないの? もしかしてオレって、キノコの毒味役とか?」
 そのうち、いつまでも見られていることに耐えられなくなって、つい嫌な言い方が口をついて出てしまった。
「ぁ…いえ! そんな!」
 急に我に返った様子のイルカは、慌てて自分の持っていた木椀を傾けてかき込みだしたが、それの何に驚いたかというと、彼の天晴れなほど真っ直ぐな食べっぷりだった。あれよあれよという間に一杯目を平らげたかと思うと、実に美味そうに気持ちよく二杯目を空けていく。三杯目の途中で、ようやくぽかんとしてその様子を見つめているオレに気付いたらしいが、途中で止められなかったらしく、結局三杯目もすっかり空けてから「あはっ、結構うまいです、よね?」と笑った。
 オレはずっと開いたままだった口から、「ぇ…、あぁ…」という間の抜けた声を垂れ流しながら、カクンと頭を縦に振った。



「ねえ、竈吹いてるよ?」
 羽釜の上に乗った分厚い木の蓋の間から、半透明の泡がぷくぷくと溢れだしているのが見えて、思わず声を掛ける。
「あ、そろそろですね」
「え、うそ? なに、もう炊けたの?」
「ええ。あの様子ならあと十分もしたら出来上がりです」
 腕時計を見ると、火を焚きだしてから二十分程しか経っていない。かなりの量を研いでいたように思うのだが、こんなアナログで火加減も出来ないような単純な仕掛けで、そんなに早く米が炊けるものなんだろうか?
 なのにイルカは竈の焚き口に駆け寄ると、長い鉄の火掻き棒で一気に中の薪を掻き出して、完全に火を止めてしまっている。真っ赤になった炭がチリチリ、パリパリという音と共に外に掻き出されてくると、覗き込んでいた顔がかあっと熱くなった。
 イルカはその中の大きいものを火箸で掴むと、少し離れた隣の竈へと入れてそこでまた火を熾しだした。長い時間をかけて乾かした大事な燃料だけあって、少しも無駄にしないというわけだ。
(なんか手伝うったって…ねぇ?)
 イルカが余りにもせかせかと、そして些かの淀みもなく土間を動き回っているのを見ると、自分の出る幕などないとしか思えなかった。気付けばカメラを構えるのも忘れて、ただ突っ立ったままその様子をひたすら目で追ってしまっている。

 だがやがて蒸らし時間を経て竈から下ろされた羽釜の蓋が取られた時、上から物珍しそうに覗き込んでいたオレは、不覚にも喉を鳴らしてしまった。
「――っ…うまそう、だね…」
 物心付いた頃には、既に親に連れられて欧米の都市を転々としていたから、その国その土地の高級なものからジャンクなものまで色んな味を知っていた。お陰でどんな味が嫌いとかいうことがない代わりに、何かが特別好きということもない味覚になっている。子供の頃は母親の嗜好から若干小麦を食べる機会の方が多かったようにも思うが、時間に追われ続けたこの数年で、どんなものでも腹さえ満たされれば事足りるようになっていた。…はずなのだが。
「いっぱい食って下さいね。多めに炊いておきましたから」
 その真っ白い湯気を上げるぴかぴかに光ったやつには、何かの魔法でもかかっているかのようだった。
 オレは日頃「体の割りには食べない」と言われることが多い。けれど注がれていた酒のことも忘れ、他には何もないのに――いや正確には幾つかの漬け物もあったのだけれど――結局二杯目も白い飯だけをひたすら黙々と、そして恐らく生まれて初めて箸で茶碗をカツカツと鳴らしながら、まるで何日も食事にありついてなかった子供のように食べた。
(ひょっとしてオレは、竈とか湧き水とかスローフードなんていう物珍しさや耳当たりのいいキーワードに頭から呑み込まれて、味覚まで上手いこと乗せられてるのか?)
 結構な勢いで食べている自分に気付いて、頭の隅で自問する。だとしたら不覚だし悔しい。
 今までどんなに名の通った企業や著名人と言われる人物に取材をしても、肩書きやふれ込みに惑わされたことなど一度もなかったし、内心では密かにそのことが誇りですらあったのに。





        TOP    書庫    <<   >>