山に盛った二杯の飯をすっかり平らげた後で、大きな息を一つ吐き、最後に三杯目となる汁椀を一気に傾けたところ、汁椀の底にキノコを好き放題食い荒らして丸々と太ったヤツが何匹か横たわっていて思わず目を剥いたが、「ご馳走様、うまかった」と言った気持ちにはいささかの無理も世辞もなかった。
 イルカは自在鉤の向こうで「良かった」と心底嬉しそうに笑った。顎に飯粒の付いた朗らかな顔は屈託がない。
 だが「やっぱ鍋も撮っておくべきだったかな…」などと今更なことを呟いてカメラを構えたオレの指先を、あの二つのくっきりとした真っ黒なやつがじいっと見つめているのがファインダー越しに見て取れると、オレはシャッターを切るのを止めてカメラを下ろした。



「――さぁこれでよしっと。畑さん、風呂が焚けましたから、よろしかったらどうぞ」
「ぇ…?」
 食事の後片づけが終わり、奥の方にあった竈の前で屈んでいたイルカがにっこりしたのを見た途端、自分の中をかなりハッキリと嫌な予感が走り抜けたのが分かった。竈自体は室内にあるものの、肝心の浴槽とか洗い場がどこにも見当たらないのだ。さっきからそのことが気になってはいたのだが、やはりそいつが風呂の一部だったとは…。
「でも、入るって、言ったって」
「あ、外から回って下さい。風呂は湿気が回って建物が傷みやすいんで、焚き口だけを中に設えてあるんです。カンテラを持っていけば大丈夫ですから。あ、これ脱いだ服を入れるのに使って下さいね」
「ぁ……はァ…」
 どういうわけか、断るタイミングを完全に逸していた。だが「風呂は遠慮しておく」と言い出せなかった以上は、何事もなかったように入ってくるしかない。
 柱に掛けてあった大きな手編みの竹籠をはいと渡され、それに一通りの着替えやらタオルやらを入れると、カンテラを下げて漆黒の屋外へそろりと踏み出した。


「…さっ…む…!」
 引き戸を閉めた途端、すぐそこだからと上着を羽織っていなかった薄着の体に、山から勢いよく吹き下りてきた冷風が当たってぶるりと身震いする。
 さっきまでは結構明るいと思っていたカンテラだったが、漆黒の暗がりではその光が周囲の闇に吸われてしまい、足元とその少し先までを朧に照らすのが精一杯になっている。右側一面にどこまでも広がる森は真っ黒で、その中から何が出てきたとしても不思議ではない深さを湛えている。
(とはいえこの寒さ…、シャワーだけなんて、とてもじゃないけど無理だぞ…)
 とっとと手早く済ませてしまおうなどと思っていたが、この気温でそんなことをしようものなら、浴後戸口に辿り着くまでに芯まで凍えてしまいそうだった。二晩続けて震えて寝付けないのだけは勘弁して欲しい。

 だがカンテラの仄かなオレンジ色の灯りに照らし出されたその風呂らしき所に辿り着き、全貌が朧気に見えた瞬間、オレは寒さも忘れて暫く棒立ちになった。
(――ウソだろ…)
 そこは風呂場でもシャワールームでもなく、どう見ても漬け物に使うようなただの大きな「桶」一つだけだった。漬け物が不適切というならあれだ、昔の土葬だ。しかも雨よけらしき板が一枚、頭上に貼られているだけで、真っ黒な口を開けている山側には何の覆いもない。
(これに…入れってか?)
 のろのろと照明を差し上げて、腰までありそうな大きな木桶を照らすと、なみなみと水が張られている水面には湯冷めを防ぐための丸い板がぷかりと浮いていて、カンテラの灯りに湯気が立ち上っているのが見て取れた。そしてその木桶の底の部分には、さっき飯を炊いていたのと同じ形の、ただあれよりはふた回りほども大きな羽釜がセットされていることにも気付く。
(はー…そういうことー…)
 歴史にも名高いあの大泥棒は、恐らくこういったもので処刑されたのだろう。この写真も…まぁ参考資料としては撮っておいた方がいいのだろうが、撮るとしても明日の朝だ。夜間の撮影ではどんな奇怪な仕上がりになるかおおよその見当が付くだけに、ハイクラスの情報誌にはとても載せられそうにない。
 そもそもこういったものとは、設備の整った明るい最新のリゾート施設にあってこそ目新しく、面白く感じられるものではないだろうか。ここではそのチープで無骨な野趣味が、見事なまでに得体の知れない不気味さへとすり替わって、独特の近寄りがたい空気を発散していた。
(どうするって、言ったってね…)
 スポーツクラブでは幾ら服を脱ごうが、全く何も感じたことなどなかったはずが、ここではまずそこからしてためらわれた。こんな所じゃ決して誰も見ていないと頭では分かってはいても…いや、誰一人として見ていないからこそ、かえって薄気味が悪い。
 無数の巨木や草むらが一斉に風に揺られて動き出しただけで、その気配に落ち着かなくなる。何もいないはずの夜の山がこんなにも不穏な気分にさせるなどとは、思いもよらないことだった。手元に持ったちっぽけな灯りの存在が、突然大きく感じられはじめる。
 それでも余りの寒さから、意を決して全ての服を脱ぎ去った時に感じた心許なさは、大変なものだった。普段は衣服に覆われている部分を、ぶしつけな冷気があからさまに撫でていく。自分という人間がとてつもなくちっぽけで、取るに足らないもののように感じる。
 子供の頃から転勤が多かったせいか、どの国の、どの集団に属しても孤独で、連帯感や帰属感といわれるものは得られなかった。でもそれと引き替えにして、どれほど過酷な競争にも揺るがない実力と自信を手に入れたと思っていた。いつの、どのカテゴリーにおいても、常にトップの座をキープし続けてきていた己を、ここまで心許無く感じたことなど一度もなかったはずだ。
 周囲はもの言わぬ木と草がただみっしりと生い茂って、じっと動かない土と空がそれらを上下から挟んでいるだけなのに。
(なのに何をそんなに)と内心ではせせら笑おうとしても、強張って上手く笑えない。
(やば…っ)
 とにかく、一刻も早く無防備な体を防御したくて堪らない。その不本意ながらも切迫した本能に突き動かされて、水面に浮いていた木の蓋を思い切ってえいやっと外すと、まるで生き物のようにぶわっと立ち上った大量の湯気が、たちまち暗闇へと消えていく。湯はそこそこ温度があるようだが、底の方はカンテラの光が届かず真っ暗で、またぞろ「闇鍋」という言葉が脳裏を過ぎりだす。
 それでもそのままいきなり入るのは流石にためらわれて、暗がりに持ち手の付いた木製の手桶を見つけると、何度か体に掛けた。
(ぅぁっ…つぅ…!)
 湯が地面を流れだし、周囲に白い煙が濛々と立ちこめる。けれど直後には身を切るような寒さが全身を包みだして、いよいよ何が何でも中に入らずには居られなくなった。
(――ぇ? …ちょと…待てよ…?)
 だが真っ白な湯気が立ち上り続ける桶の淵に手をついて、片足をそろりと突っ込んだ瞬間、鳥肌だらけだった体がぴたりと止まった。
(このまま入ったら……底はあの鉄製の羽釜、なんだよな…?)
 しかも壁一枚隔てた向う側の焚き口からは、イルカが今でも薪を足しているだろう。その剥き出しの鉄の部分に、素足を着いたらどうなるか?
(もしかして…)
 さっき取り外したこの丸い蓋のようなもの、実は取り外してはいけなかったのでは?
 カタカタと震え、まっ白い息を吐きながら、もう一度外に出した丸い蓋をカンテラの灯りでよくよく見る。と、てっきり湯が冷めるを防ぐための蓋だとばかり思っていたその木の板の裏には、蓋にしてはどう見ても不自然な「脚」のようなものが作られていた。
(これって……もしや…)
 この板は自分が足で踏みながら入るためのもので、この「脚」は丸い底でもぐらつかずに安定するよう工夫されたものなのでは…?
 唐突にそう思い当たると(危なかった…)と溜息を吐く。
 危うく取材はおろか、日常歩くことさえままならなくなるところだった。
(こんな仕掛け、分かるわけないだろ)
 イルカが何の注意喚起もしなかったことに、改めて不信感が募る。
(あの男、やっぱりなんか……だよね…)
 それにしてもどこにも持ち手の無い、しかもたっぷりと水を吸って大人一人分ほどまでずっしりと重くなった分厚い「風呂の底板」を、知らなかったとは言えよくぞ持ち上げたと思う。
 図らずも知った己の『火事場の何とやら』に感心しながら、再びありったけの力でもって元に戻したその数秒間だけは、カンテラの灯りが心許ないことに少しだけ感謝した。

(――しっかしまぁ…)
 板のバランスを、まるでサーフィンみたいに取りながらおっかなびっくり桶に入り、何度か顔を撫で回した後で、視界一杯に広がる山を見渡す。
 その頃になるとようやく目が暗闇に慣れてきていた。完全な漆黒だとばかり思っていた空が本当は濃い藍色で、そこに細かな星が見渡す限り一面に散っている巨大なプラネタリウムのような景色を、特に何の感慨もなくぼんやりと眺める。この山の頂上はまだだいぶ上にあるのかもしれないが、林立する無数の巨木が視界を遮っていて分からない。
(何というか…)
 見るともなく目の前の山を…そして今日一日をぼんやりと見つめる。
(こんな暮らしが、一生続くって…どうよ?)
 とてもじゃないが、オレは絶対に無理だ。三日と堪えられないと断言できる。大自然に囲まれた暮らしなんて不便で疲れて危ない上、貧乏くさいような気もして性に合わない。オレは都会にある適度な緑で十分だ。
(悪いけど、洗っちゃうよ)
 オレは手桶で汲んだ湯で頭を濡らすと、手にしていたシャンプーのミニボトルのキャップを開け、二日分の汗埃を拭い去るべく、思うがまま盛大に泡立てた。
 その大量の泡を流す際に、そのまま体も一緒に洗ったのだけれど、それはボディシャンプーの使用を控えたかったからではなく、湯桶の外が半端でなく寒いために、とにかく一秒でも早くこの場から離れたかったからにすぎない。

(あー、すっきりした)
 ちなみに服を着た後で、カンテラを翳しながら付近をよくよく見回してみたが、湯桶の周囲には家主が使っていると思しきシャンプーはおろか、石鹸の一つさえも見当たらなかった。周辺には、さっきオレが流した泡が、小さな支流の至る所に光っているだけだ。
(ふぅん…)
 それでもまぁあの男自身がこの暮らしを良しとしているのなら、こっちがとやかく言うことではないのだが。
 ただ記事を書く際につい本心が出てしまい、『いまどきファッションでなく、まだこんな暮らしを大真面目に続けている奇特な者がいた』というような匂いを、うっかり文中に漂わせてしまわないようにしないとな…などと、暗がりで髪を拭きながら、他人事のように思った。



 早くも冷たくなってきた手で小屋の引き戸を開けると、囲炉裏端に布団が一組だけ敷いてあるのが目に入って、足が止まった。
(ぇ?)
 まさかとは思うが、このどう見ても客人用のものとは思えないくたびれきった煎餅布団に、男二人で…? などという馬鹿げた想像が脳裏を過ぎって(幾ら何でもそれはないだろう)と即座に打ち消す。そうだ、今はまだ布団を敷きかけているところなのに違いない。でないとこの黒光りした固くて寒々しい板間の上では、昨夜の車内並に夢見が悪そうだ。
 しかし当の本人はというと、また囲炉裏端で四つん這いになってわら半紙と向き合っていた。ドアの開く音にぱっと頭を上げる。
「――お先に」
「ぁ、はい。布団、敷いておきましたから。良かったらどうぞ」
「――はァ…」
「? あの…なにか?」
 この男、本当になんにも気付いてないらしい。そういうものなのか? 自身の常識がそのままこの経済立国の常識で、オレとのギャップなんて、これっぽっちも気付いてないのか?
「重い木でゆっくりと焚きましたから、湯は柔らかだったでしょう?」
「ハ?」
「? いえあの、細くてすぐ燃え尽きてしまうような木ばかりで焚くと、湯がとてもピリピリしたものになって肌に刺激を感じますけど、でもそれは…大丈夫だったですよね?」
「やっ…?!あのねえ? ……あぁもう〜〜それは違うでしょ〜?! 同じ量の湯を同じ温度にするだけなら、薪からは同じカロリーしか伝わってないんだから、ただ水の温度が上がるだけで水質そのものが変化するわけないし、刺激云々なんてのは気のせいでしょうよ?!」
『そんなこと以前に、何かオレに言い忘れていたことは?』と聞くのも馬鹿馬鹿しくなって、問われたことにだけ答える。





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