この男、この調子で身の回りの色んな事象を、迷信やら宗教やら噂やら思い込みやらをごちゃ混ぜにしながらおかしな風に解釈していそうで、取材する側としてどこまで信用出来るものなのか甚だ怪しい。もちろん掲載する内容は全て裏を取るのが当たり前なのだが、もし彼の言葉だけを鵜呑みにして原稿を上げようものなら、後で大量の謝罪訂正文を掲載する羽目になりそうだ。
「ちがいます、本当なんですって! りっ、理由とかは、ぜんぜん…分からない、ですけど…。でもっ、目の詰まってる重い木だと湯がまろやかになって、上がってからも湯冷めしにくいんです」
 イルカは気持ち顔を赤くして尚も言い張っている。だが彼がムキになった気配を嗅ぎつけたオレは、その場であっさり引き下がっていた。
「――はぁ…、そうなんですか〜」
 相手が感情的になったと感じた瞬間、平熱だった頭が急速に冷えていた。いわゆるディベートなら学生の時分から得意中の得意だが、相手が論破されそうになってエスカレートしだし、発言に感情的なものが混じってくるのを感じると、途端に続けるのが馬鹿らしくなって放棄したくなってしまう性分だ。話の土俵にちゃんと上がっていない者と何を話をどう話したところで、得られるものなどあるわけがない。
(も…、いい…)
 今日はもう、お開きだ。
 一家言持った、自意識過剰気味な者達と接する機会の多いライターとして、この『熱しにくく、冷めやすい』性格はおおむね良い方に作用することが多いと思っているし、泊めて貰っている身であれこれ言うのも大人げない。
 イルカは篭編みや鍛冶も出来ると言っていたが、木地師としての仕事ぶりや暮らしぶりは殆ど取材し終わっているだろうから、これ以上の長居は無用だろう。ちなみに仏像云々というのは、話題にするのも面倒だから論外だ。
「――じゃ、先に休ませて貰うね」
「あぁ、ええ、はい…」
 今日の要点だけまとめたらさっさと寝よう。
(明日の朝は早々に山を下りて、鷹匠に取材を申し込みに行くぞ)と頭を切り換えることで、オレは向かいの男が発する、いやに真っ直ぐでそれだけに鬱陶しい空気をやり過ごすことにした。



(っ…?)
 突然ガタピシという耳慣れない大きな音がしたことで、びくりと体が強張って目が醒めた。
「……ぁ…」
 伏していた布団から頭を持ち上げたところで、いつの間にかうとうとしてしまっていたのだと気付く。
「あ…すみません」
 イルカが風呂から上がってきたのだということは、下りた濡れ髪ですぐに分かった。野暮ったい男の下ろし髪姿は、より一層あか抜けない印象を与えながら、上気した頬や額には独特の陰影を落としている。
「…ぃゃ、べつに」
 のろのろと半身を起こして、体の下にすっかり潰されていたノートとペンを取り上げた。帰ってからPCに整理しやすいよう、今日見聞きしたことの要点をまとめていたはずなのだが、うとうとしだした事にさえ気付かなかったとは。
「お疲れなんじゃないですか? 布団の中に入って下さい。今夜は雲がないですから、これからもっと冷えますよ」
「ぁ? …あぁ……そ…」
 二日前から続いていた睡眠不足と、準備運動もないまま一往復余計にやってしまった慣れない急な山歩きが、重く体にのしかかってきていた。
 ぼんやりとした頭のまま、目の前でちろちろと燃えている火を見る。幾ら耳を澄ましても、外から森を吹き渡っていく風が大木を揺らすざわめきが時折聞こえてくるだけで、あとは囲炉裏の中の薪が燃える微かな音しかしない。
 素足のまま板間に上がったイルカは、囲炉裏の上に吊された大きな火棚の木枠に濡れたタオルを干すと、囲炉裏端に膝をついて火の方に気持ち身を乗り出す。
 そうしてよく陽に焼けた固そうな手指が、ゆっくりと髪を梳かしながら乾かしているさまを視界の隅に入れたまま、ただじっとしていた。
「寒く、ないですか?」
 頭を火の方に傾けた男が静かに聞いてくる。その声には、さっきまでの感情的な雰囲気は微塵も感じられない。
「ん…大丈夫」
 本当に寒くはなかった。むしろイルカが風呂に行く前に足しておいてくれた薪が丁度燃え頃になってきていて、囲炉裏に面していた半身が火照ったように暖まっている。
 男の重く濡れて黒光りしていた髪が、紅い焔の色を映し込んでいたのも束の間、次第にさらさらとしだして元の漆黒へと戻っていく。
「――明日は、どうされますか?」
 けれど、こちらを向いていたイルカが静寂を破るようにして問いかけてくると、単なる勝手な思い込みなのかもしれないと思いつつも、その裏側に「私ならもう一日くらいは構いませんよ」という、消極的な連泊の勧めが混じっているように聞こえて、半ば反射的に「明日は朝イチで支度して下ります」と答える。
 するとイルカは体を返して向こうを向き、まだ乾いていない方の髪を同じように五指で梳きながら、「そうですか」とだけ言った。

 こんな山奥に一人で住んでいるにしてはよく喋っていた男が、髪を乾かしている最中とはいえ、ここにきて「もう寝るんですよね?」と言わんばかりに何も話さなくなってしまうと、こちらも無理に目を開けている理由がない。
(――…ぅ、…イタタ…)
 ノートを板間にどかして布団に入ろうと足を動かした途端、両の脛の辺りに鈍い痛みが走って眉が寄った。遠くで(こりゃマズイな)と思うが、あの程度の山歩きで痛いと口にするのも格好悪いし、何となく癪な気もする。
(こんなもの、一晩寝て起きれば治ってる)
 そのまま何でもない風を装って布団に入ると、すぐにどろどろとした重い眠気に、頭の芯まで塗り込められた。



 ぱちん、という何かが勢いよく爆ぜる音が切っ掛けになって、意識が浮上してくるまま、重い瞼を渋々持ち上げる。
(…ぅ…ん)
 暗い中で真っ先に感じたのは(布団が異様に重い)ということだ。肩が凝りそうくらい重くて固いやつが、ずっしりと全身にのし掛かってきている。そしてそいつのせいで(そうだ自分は取材に来てたな)と思い出した。気付けば重さに抗うようにして、右手が布団の端を掴んでいる。いつものフェザーの薄い布団が恋しかった。贅沢を言える立場にないのは重々承知しているが、薄くなった敷き布団は床板の隙間から常に侵入してくる冷気を通してしまっていて、昨日の車内と大差ないように思う。
 寝返りを打つと、囲炉裏の真ん中で静かに燃えている薪が目に入った。あれから何本足したかは知らないが、炎は完全に勢いを失って、向こうがすっかり見えるほど短く弱くなってきている。けれど、赤々とした炭には依然として顔を熱くさせるだけの力があり、そこに浮かんでは消えている輝きは激しくはないけれど、どこか妖しいような色彩を帯びている。
(ぁ…?)
 そのチロチロと蠢く炎の向こうに、板間に四つん這いになって一心に筆を動かしている人影が朧に見えてハッとした。天井から吊されていたランプは消され、台所の方にあった四角いカンテラが床に直接置かれて、男の手元を揺れながら照らしている。
(…まだ、寝てなかったのか…)
 イルカの目の高さからは、自在鉤に掛けられた大きな鉄瓶が邪魔をしていてオレの顔が見えないが、こちらからは筆を持ったイルカの手の動きがよく見える。
 髪は上げていないとみえて、時折鉄瓶の向こうで床に向かって真っ直ぐに下がった黒い髪束が幾筋も揺れている。表情は全く分からないが、床に着いた左腕の突っ張り加減からみて、相当に力が入っていることが容易に窺い知れた。
 時折半紙を替え、筆先が何度も何度も硯との間を忙しなく往復しているその様子は、表からでは決して窺い知ることの出来ない彼の内側にある激しい何かが、後から後から吐き出されているようにも見える。
(…ふ、興味なんてこれっぽっちもないだろうが)
 その動きに暫し見入ってしまっていたことに気付いて、真っ赤な炭に視線を戻す。
(何がいいんだかねぇ…)
 男の考えていることが、全く、これっぽっちも理解出来なかった。食うためにやっているというならまだしも、どうやら商売にする気もない趣味の延長のようなものに、どう見ても豊かとはいえない生活や気力や体力をそこまで削って注ぎ込む必要が、一体どこにあるというのだろう。
(要するに、逃避か?)
 それなら何となく分かる気がした。この苦しい生活から抜け出すには、もう神頼みしかないと考える思考パターンは、あながち間違っていない気がする。でもそれでは悪循環のスパイラルで、結局はとことんまで落ちていくしかない。
(寝ない、つもりか…?)
 いや、この時間になっても布団を敷いてないところを見ると、寝ないというよりは寝られないのかもしれないが。
(人がいいだけじゃ、いずれ自滅するよ?)
 もしも折に付け周囲が助けてくれたとしても、ここまで経済活動から切り離された過疎の村では限界があるだろう。
(ま、オレの知ったこっちゃないけどね)
 この男の考えている『成功のビジョン』がどんなものかは知らないけれど。
 入社してからの数年間、あまたのライバル企業を抑えてトップを勝ち取ってきた成功者達を数多く見てきたオレには、彼の努力が報われるイメージが何一つ思い描けなかった。



 そのあとどれくらい眠ったかは定かでないが、イルカが朝食を用意する音で再び目が醒めた。
「あ、おはようございます!」
 酷くぼんやりとした頭をばりばり掻いていると、早朝からやたらと元気な男の声が掛かった。いつの間にか雨戸が外されている四角い窓の外は、巨木と灌木が幾重にも折り重なりながら、まだしっとりと灰青色のベールに覆われていて、まるでそこだけ一服の淡い印象画のようだ。
「――あぁ……おはよ…」
 やれやれようやく重い掛け布団から解放されるとそれをどかすと、ヒヤリとした空気が全身を撫でていき、室内が随分と冷えていることが分かる。囲炉裏の火は小さいが、もしもこれが焚かれていなかったら、秋とはいえ完全に凍えているところだ。山とはこんなにも気温の下がる所なのかと改めて驚く。イルカの『冬の間はここを下りて三代目の所に厄介になっている』という話が、いよいよ現実味を帯びて感じられだしていた。

(…うっ…)
 ふと気になって、何気なく厚手のトレーナーの袖口に鼻を近づけたオレは、思わず顔を顰めた。
 昨夜はあんな思いをしてまで風呂に入ったというのに、もう髪も服も肌も何もかもが、一晩かけてじっくりと燻され、すっかり煙臭くなっていた。恐らくは持ってきた鞄やその中身の着替えにまでも染みついてしまっているだろう。このまま放っておいたら、肌の奥にまで染みてそのまま定着してしまいそうだが、どうしようもなかった。ボタン一つで常に脱臭・集塵してくれるエアコンや、コックを捻ればすぐに湯の出る何の変哲もないシャワーが、ここまで有り難いと思う日が来るとは。
 それでもまだ、この山中にいる分にはさほど気にならないかもしれないが、このまま東京に帰ったらどう感じるかは想像に難くない。
(……やれやれ…)
 間の悪いことに、取材から戻った翌日には、午前中から米フラッシュメモリ最大手の、日本法人の代表に取材をする予定が入っていたことを思い出す。そして取締役が元大手経営コンサルタント出身のやり手の女性だったことに思い至ると、内心で溜息を吐いた。
 

 朝食はいつも食べない主義だ。大抵打ち合わせや取材などで、ランチやブランチとして済ませる習慣が付いてしまっているため、まだ薄暗いうちからイルカが用意していたらしい朝食は、正直ありがた迷惑といって良かった。やはり前の晩からいらないと言っておくべきだったかと、全く食欲の無いまま寒々しい三和土へと下りていく。
 土が剥き出しになったそこはとても屋内とは思えない気温で、どこからか冷たい空気が常に入り込んできている。この分なら、まだ半寝ぼけの体が否応なく不快に目覚めるのも時間の問題だろう。





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