「――これって…、昨日の…?」
 台所で何とか顔を洗い終えたところで、囲炉裏端で寄越されるままうっかり手にしてしまった、丼ほどもある大きさの木椀を覗きながら呟く。
 台所の蛇口から勢いよく溢れ出る、顔が切れそうな冷たさの山水にいよいよ目は醒めていたが、その椀内のとんでもないボリュームにはどことなくぼんやりしてしまう。
「はい、鍋は翌日の方が美味いんです。これなら昨日炊いた飯も沢山食べられますし」
「……そ…、ね…」
 しまった、てっきり白飯と汁と副菜は別々に出てくるものだとばかり思っていたから、とりあえず米はいらないと断ればそれで済むかと思っていたのに、すっかりアテが外れていた。
 昨夜と同じくたっぷりと注がれた、(一応毒入りでないことは人体実験で証明された格好の)正体不明の具の中に、すりこ木か何かで潰して丸められたと思しき大きな団子状の白飯が幾つも浮かんでいる。
 つまり、いよいよもって何もかもがいっしょくたの朝食なのだった。
「この辺ではみんな翌朝のこの汁が食べたくて、前の晩に鍋をするようなものなんですよ。私は昼頃になって、団子にもっと味の染みたのが好きですが…。もうずっと昔からこのやり方なんだそうです」
「…そう、なんだ…」
 この形態で注がれてしまった上にそこまで言われると、「朝は食べない主義なんで」とも言い出せない。
(やはり朝食の有無を自由にチョイス出来るホテルに泊まっておけば良かった…)と後悔しながら、何度もこっそりと溜息を吐きつつ、椀の中身と対峙する。
 味はどうだったかって? いやとにかくオレは、朝は全く腹が空いていないのだ。いつもならこのくらいの時間にひと仕事終えてベッドに入っているのだから、時差ぼけ状態もいいところなのだ。
 味なんて美味いか不味いか、最後の最後まで分からなかったとしか言えない。



「――じゃ、色々ありがとね」
 普段、取材が済んだ後の食事でも、ここまで無口になったことなどただの一度もなかったはずが、自分でも驚くほどテンションが下がっていて、殆どイルカと話をしないまま荷物を肩にかけて立ち上がった。
 その理由は、食べたくないものを無理に食べ、シャワーもない中で嫌な臭いに始終まとわりつかれ、疲れるばかりの寒い寝具で一夜を過ごし、既に頭の中は次の鷹匠への取材で一杯で……と、挙げていけばキリがないのだろうが、詰まるところはあの男と性格や考え方や生活スタイルをはじめとした一切合切何もかもが、それこそ細胞レベルから決定的に合わないんだという結論に至っていた。
 そう、オレはこの男と暮らしが好きになれない。
 詰まるところ、そういうことだった。

「はい、お気を付けて」
 そんなこちらの内側になど、あの男は全く気付いてないだろうが、紺色の作務衣の上に半纏を羽織り、きちんと板間に正座した格好で返事をした姿勢のいいイルカを見ると、丸くなっていた背中がなぜか意識せずぴんとなる。
「――――」
 しかし坂道を下りだす時に何気なく振り返った際、まだあの男が戸口の辺りで突っ立ったままこちらを見つめているのが見えると、なぜか背中は再び丸くなっていった。



 久し振りに訪れた酷い筋肉痛は、慣れないせいかかなり辛かった。しかも足が筋肉痛になると、登るよりも下りる方がより一層辛い。
(…ッ、…ぃってー…)
 膝から下の部分は、とても自分のものだと思えない。けれど一歩踏み出すごとに響いてくる痛みが、他でもない己のものなのだと、延々主張し続けている。
(東京に帰ったら、スポーツジムには即刻退会届を出してやるからな!)などと、あらぬところに八つ当たりしながら、昨日の五割増しの時間をかけて山を降りた。




「おう。――出来たのか、取材とやらは」
 三代目に鷹匠の居場所を訊ねに行く前に、停めてあった車に立ち寄ってバッテリーのチャージや荷物の詰め替えをしていると、背後から聞き覚えのある太い声がかかって振り返った。
「ああ…どーも。――ええまぁ…ある程度は」
 ゆっくりと振り返って、自分よりも更に高い位置にある傷だらけの顔を見上げる。夜中に見た時は真剣に警戒したが、いよいよ明るくなりだした陽の光の下でもやはり相当なものだと思う。しかも先日よりラフな格好をしているにもかかわらず、腰にはあの時と同じ大ぶりの鉈がやはりこれ見よがしに下がっていて、相変わらず無言の威圧感を放っている。
「なんだ、まだ足りねぇのか?」
 イビキは針のように細い目でもって、胡散臭そうにこちらを見ている。勝手に押しかけてきてあちこち嗅ぎ回っているよそ者に対して「いいからさっさと帰れ」と言っているのは明らかだ。
 しかしこの手の圧力にいちいち屈しているようでは、中身のある記事が書ける訳もなく。
「ええ、そうなんです。イビキさん、すみませんが鷹匠の方をご紹介頂けませんか? お忙しいようでしたら、家を教えて下さるだけでも構わないのですが」
 白々しくも正面から訊ねた。ここはひとまず逃げて、あとで三代目に聞くなどという遠回りはしない。
「ふん、お前には奴の取材は無理だと思うがな」
「ま、それは直接伺ってお願いしてから、自分で判断しますんで」
 イルカとは根っこの部分から合わないと思ったが、この男とも相容れない部分が多そうだ。もちろん仕事で来ているのだから、合うも合わないもないのだが。
「――あの、一番高い欅の下にある家だ」
 一拍後、イビキが顎をしゃくってみせた方角を見る。
 と、半分以上葉が落ちているものの、それでも一帯では群を抜いて存在感のある巨木の下に、置き石屋根の小さな荒屋がひっそりと建っているのが目に入った。
「ありがとうございます。ちなみにその鷹匠の、お名前は?」
「直接伺って聞くんじゃなかったのか? …ゲンマだ。不知火ゲンマ。――家にいなきゃ、裏にでも回ってみるんだな」
「分かりました」
 オレは初めて男に頭を下げると、鞄を肩に掛けて歩き出した。そして数歩歩いた所で思い出したように振り返ると、手にしていたリモコンキーを押して車に鍵を掛けた。




 鷹匠の家というからには、鳥の声の一つや二つ聞こえてくるのではないかと耳を澄ましていたが、戸口と思しき前に立って戸を叩いても、「ごめんください」と声を掛けても、中からは何の気配も伝わってこなかった。
 すぐにイビキの言葉に従って大木のそそり立つ裏へと歩いていく。足元には一度も掃かれたことのなさそうな広葉樹の落ち葉が堆く降り積もっていて、踏み出すたびに響くさくさくという乾いた音が、やけに大きく聞こえる。
(いた…!)
 百メートルほども向こうの、森の中に申し訳程度に切り開かれた空き地の一角に、長身と思しき男がこちらに背を向けた格好で立っているのが、木々の合間にちらついていた。確かにこの距離では、幾ら戸を叩こうが聞こえない訳だ。
 そしてそのすぐ近く……太い木の枝を組み合わせて作られた、彼の胸ほどの高さの止まり木に、一羽の茶色い鳥らしきものが留まっているのが、ちらりと見える。
(あそこが、訓練場だな)
 だがまだこちらに気付いていない鷹匠に向かって、一歩踏み出した、その時だった。
(?!)
 男の方を向いていた鳥の、小さな頭がくるりと動いたかと思うと、まるで射抜くように真っ直ぐこちらを見て――いや見たような気がして、一瞬足が止まる。
(…っ)
 これも動物である人間の本能だろうか。その瞬間なぜか『見つかった』ように感じて、訳もなく足が竦んでいた。
 こちらに背を向けていた男がその視線に気付いたらしく、ゆっくりと振り返るが、遠すぎて顔の造作などは全く分からない。軽く頭を下げると、そのまま草に覆われた鬱蒼とした小道を、空き地に向かって小走りで進みだした。もう足が痛いなどと言っていられない。

 近寄っていった男は、思った通り長身だったが痩せていた。眼窩の落ち窪んだ彫りの深い顔立ちで、薄い唇に荒く削った小枝のようなものを銜えている。
 顎の辺りまで伸ばして切り揃えられた真っ直ぐな薄茶色の髪といい、バンダナを帽子代わりに使っていることといい、あちこち汚れたり破れたりしているとはいえ、洋物ブランドの厚手のアウトドアジャケットを着込んでいるその姿や顔立ちなどからも、どこか都会的な香りがして何やらホッとする。年は自分よりも少し上だろうか。
「あー、なんか聞いたぜ。取材だって?」
 木々の下の小道を抜けて近寄っていくと、思いのほか気さくで軽い感じの声が掛かった。
「初めまして。突然伺う形になってしまってすみません。東京でフリーライターをやってます、畑と申します」
 対面するや、すぐに懐から名刺を出して差し出した。そういえばイルカには渡してなかったような気がするが、まぁいい。
 不知火ゲンマさんですね、と聞くと、すぐに「あーゲンマでいいぜー」と返ってきて、その鋭そうなのにわざと力を抜かした感じは自分には馴染みやすく、イルカよりも遥かに近しいものを感じる。
「でよ、こいつがクマタカの天涯号。こう見えても雌なんだぜ」
「早速ですがまずは取材のお願いを…」と切り出すと、ゲンマは分かってる分かってると軽く頷き、それよりも大事な相方を先に紹介させろと言わんばかりにそちらを見やった。鷹匠と聞いて何となく気難しい男を想像していたが、余りにもあっさりと取材を了承されて内心拍子抜けしながら、「クマタカは雌の方が気性が荒いから、狩りに向いてんだ」と説明されるまま、その勇猛な姿を改めてまじまじと見つめる。
 鷹は近くで見ると、想像していたよりまだ一回り大きかった。頭の先から尾羽の先まで、ゆうに70センチはある。白と黒の細かな紋様の浮いた、焦げ茶色のぴったりとした分厚い羽毛に覆われた滑らかな胴体に、筋骨で盛り上がったきれいに折りたたまれた翼。昇りだした陽の光にギラギラと輝いている黄金色の瞳も、中心部分だけはどこまでも真っ黒で、大きく湾曲した太く鋭いくちばしは、まるで極限まで研ぎ上げられたペンチのようだ。加えてこれ見よがしの二本の太い足から真っ黄色い四本の指が伸び、黒々とした猛禽類特有の太いかぎ爪がぎっちりと丸太を掴んでいる様は、この鳥が動物の血肉のみを食べて生きていることを、あからさまに物語っていた。
「写真、撮っても?」
 言いながらもうカメラを構えだしていた。普段は人物しか撮らないし、動植物や風景を撮る機会も興味も、まず滅多になかったが、この孤高の生き物に関しては違っていた。
 危険で得体が知れないと思えば思うほど撮らずにはいられなかったし、何よりゲンマと一緒の構図は絵になる。たかが鳥にこんなにも存在感があるなんで意外だった。ファインダーを覗きながら、鼓動が速くなっていくのが分かる。
「いいけど、あんま近付きすぎんな。こいつ一昨日から何も食ってねぇから結構気が立ってるぜ」
 その言葉が、まだ完全には言い終わらないうちだった。
(?!)
 刻一刻と青さの増していく秋空を背景に、鷹を見上げるようにして覗いていたファインダー一杯に真っ黒な影がサアッと広がって、最初何が起こったのか全く分からなかった。直後上半身に不自然な風圧がかかり、何やら不穏な気配にカメラから目を離す。
「!!」
 直後、カメラに付いていた大型のストロボ目がけて…いやもっと正確に言えば、そのストロボのすぐ向こうにあったオレの額めがけて、8本の真っ黒なかぎ爪が音もなく振り下ろされていた。





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