体長70センチの鷹は、羽を伸ばすと突如としてその姿を変え、差し渡しはゆうに170センチを越えていた。その真っ黒で分厚い天幕が自身に向かって目の前一杯に音もなく広げられると、視界を完全に塞がれたショックだろうか? 逃げなければという思考能力も、逃げようという運動機能も、その一切が元から断たれたように停止してしまっていた。
「おっと! もうかよ」
 しかしゲンマの声がかかると、大きな鷹は空中で不自然にバランスを崩し、飛びかかってきた逆のコースを辿るようにして、元の止まり木へと逆戻りしていた。見れば左の足に頑丈そうな皮の紐が巻き付いていて、その数メートル先の端をゲンマが握っている。要するにこの鳥は犬と同じように紐で繋がれていて、すんでの所で引っ張り戻されたのだった。
「あー、悪い悪い。アンタ頭白いから、雪兎だと思ったんじゃねぇの」
 こんなことは何ら取るに足らないとでも言うように、ゲンマは全く慌てる様子もなく、楊枝をゆらゆらと揺らしながら愉快そうにくっくと笑った。だが尻餅をついたオレは苦笑うことも怒ることも出来ずに、ただ枯れ葉の上にへたりと座り込んでいた。今し方目の前を過ぎ去った大きな黒い翼の不気味なシルエットが、頭の中を何度も繰り返しループしている。
 止まり木に強引に引き戻された鷹は、大きな翼をバサバサと激しく羽ばたかせながら、耳が劈けるかと思うような甲高い声でもって、何度も何度も忌々しげに啼き叫んでいる。
「やられた…」
 ハッとしてカメラを見ると、ストロボの光を拡散させるために装着していたプラスチックのディフューザーに、大型のカッターで力一杯切りつけたような傷が深々と付いていた。幸いにも体やカメラ本体は無傷だが、本当に数センチの危ういところだった。今頃になってドクドクと早鐘を打ち始めた鼓動を感じながら、その生々しい傷跡を指先でなぞる。
「鷹とか鷲ってのはよ、犬猫と違って、オレをボスだとか御主人様だなんてこれっぽっちも思っちゃいねぇ。だから命令なんてものはあってないようなもんでよ。自制なんて言葉もコイツの頭にはねぇから、腹が減ってて自分より弱いと判断した獲物は、一瞬たりとも迷わずに襲いにいく」
「――――」
 どこか軽薄な空気を漂わせていた男が一転、凄みのある声で話し出した。
「鷹が獲物を獲るのは、義理でも媚びでも恩でもない。ただ己が生きんがためにやってんだ。己の身に何があっても、そのことしか考えないコイツに絶対にナメられないように、オレは昔っからの言い伝えに従って、対等の位置を保ってるだけなのさ」
「――――」
「分かったか? その性質を利用して、わざと鷹をギリギリまで飢えさせておいて、獲物を見たら必ずその本能が剥き出しになるように仕向けておく。それが鷹匠だ」
 そこまできてようやく、この男は天涯がオレに襲いかるのを重々承知していながら、あえて黙認していたのだと気付いた。そうすることで、狩りの取材に出て行く手間を省き、同時に恐ろしくリアルな狩りの実体験までをさせた訳だ。
(くそっ、一杯食わされたな…)
 悪趣味も甚だしいが、侮れない男であることは間違いない。恐らくオレが同じ立場で取材を受けて面倒だと思っても、やはり似たようなことをして、少し脅かすことで追い帰そうくらいのことは考えただろう。
 そもそも面倒云々以前に、如何にも筋肉痛で足の痛そうな都会者が、山を越えるような狩りになどついていけるはずがないのだから。
「…分かりました。では是非、狩りの実践も取材したいのですが」
 しかしそんな男の目論見など素知らぬふりをして、臆面もなく食い下がった。彼には悪いが、ここでの写真とインタビュー記事だけでは、余りにもリアリティに乏しく、迫真という部分に欠けてしまう。鷹で狩るというからには、獲物を仕留めているシーンをモノにしてこそ全ての記事が真実味を帯びてくるというものだ。獲物も獲らない鷹と鷹匠の話を、世の男性読者の誰が面白がってくれるというのか。
 こっちも偶然や幸運だけでこの業界に頭角を現してきている訳ではもちろんない。常日頃から押さえるべきところは何を置いてでも押さえてきたからこそ、今の評価が得られているのだ。
(筋肉痛など我慢すればいいだけのことだ。足なんて二本付いていれさえすれば何とかなるだろ)と、鷹に襲われかけた事で、逆に負けん気とも片意地とも言えないものが沸き上がっていた。
 日頃からどんな場面でも勝ち組である捕食者側に居続けていた己が、否応なく被食者にされかかったことで、どこかプライドでも傷付けられたような気になっていたのかもしれない。
(くそっ、こんなことに屈してたまるか!)
 ゆっくりと立ち上がって、呆れたようにこちらを見ているゲンマを見据えると、「後悔すんぜ? 保証する」と鼻で嗤うような声が返ってきたが、「構いません、お願いします」ときっぱり突っぱねた。




 三、矜持


「――しっかし、よくもまぁそんな格好でここに来たな」
 前を行くゲンマが、山道を登りながら呆れた声で喋っている。彼は』一旦やると言った以上は何があっても全てお前の責任だぞ』と言わんばかりに何の引き止めもせず、従って話も早かった。オレが離れたところから望遠レンズを使って天涯を撮っている間に、山に入る支度を手早く済ませてきて、そのままじゃあ行くか、ということになっていた。

「――っ、は…ぁ、まさかここまで山が…、深いとは思わなかった、もので…っ」
 まだ登りだして数分程度しかたっていないが、早くも息を上げながら、何とか離れまいと後ろについていく。最初に一人と一羽の姿を前後から数枚ずつ撮ったのが精一杯で、またもや紅葉の始まりだした周囲の景色を見る余裕はなくなっていた。
「いや実はオレもよ、一度はここの生活が嫌んなって街で暮らしてたことがあったのよ。だからお前見てたらなんつーか、急にあの頃が懐かしくなったっていうかよ」
 男が常に腰の高さにまで差し上げている左腕の拳には、以前天涯が獲ったという小鹿の皮で作られた「カケ」と呼ばれる分厚い手袋がはめられており、そこに重さ三キロの「彼女」ががっしりと爪を立てて留まっている。ゲンマ曰く、止まり木になる手は絶対に揺すってはいけないそうだが、そんな不自然な姿勢を保ちながらも、更に背中には荷を背負い、かつ息一つ乱すことなく急な山道をすたすたと登っていくため、オレは早くもついていくのがやっとだった。男の足取りはイルカよりもまだ早く、気を遣って立ち止まるどころか振り返る気配すらない。
「…あ…ぁ、そうだったん、…ですか…っ」
 彼の第一印象に、イルカやイビキとは違うどこか都会的な匂いを嗅いだのはやはり間違いではなかったのだなと、上がりっぱなしの息の下でぼんやりと思う。
 この山を登る間も貴重な取材の時間なのだから、他にも続けて訊いていきたいことが山ほどあるというのに、苦しくて肝心の質問が続かないのがもどかしく歯痒い。それを知ってか知らずか、ゲンマは前を向いたまま一人で勝手に話を転がしていて、内心情けなくも有り難いことこの上ない。
「言っとくが、オレが里を出た最初の動機なんてのは単純よ? 鷹匠だったオレの爺様の若い頃は、兎もそれなりの価値があって、しかも村田銃なんてのは当時はまだお粗末だったから、連中が一冬で100匹獲る間に鷹匠は300匹は楽勝で獲れてたのよ。でも最近じゃ山に動物がめっきりいなくなっちまったからな。コイツに食わせるのが精一杯で、オレまでは週に一羽も回って来やしねぇ。しかもたまーに回ってきたとしても、一羽数百円の値段しか付かないんじゃ、とても食ってけねぇだろ。もうてんで馬鹿らしくてよ。ある日ついにアッタマきて、鷹匠なんてやめて山を降りてやるって宣言したけど、誰も止めなかった」
「…すっ、数ひゃく…?」
 現状を示す余りな数字の数々に、言葉も出ない。
「でもこれでようやく自由になれると思ったのに、街で暮らせば暮らすほど、どんどん窮屈で不自由に感じるようになっちまってよ。結局二年も経たずに里に逆戻りよ」
「? 不自由、というと?」
「あぁ? まぁアンタにゃ多分わかんねぇだろうよ。とにかく何もかもが恐ろしく不自由すぎて、アタマがおかしくなりそうだったとしか言いようがねえ。結局幸か不幸か肌に合う仕事にありつけなかったってのもあって、恥も外聞もなくすごすごと逃げ帰ってきたってわけよ」
「それって……ホーム…シック…では?」
「はっ、そんな年頃の女の子みてぇなカワイイもんなら良かっただろうけどな」
 そう言って、片手に大きな肉食の鳥を留まらせた男が軽笑している後ろ姿はどこか奇妙で、周囲の大木が林立する景色も相まってか、お伽の世界の如くに現実味がなかった。だが皮肉なことに、強い喉の渇きと体の辛さが現実からの乖離を防いでくれている。
「…やっ、でも、それじゃ…」
「今は何をやって食ってるのか、ってんだろ?」
 この男、人の考えを先読みするのが上手そうだ。長年猛禽との攻防を繰り返すうち、自然と身に付いたものなのだろうか? 或いは街で暮らしたことのある者ゆえの単なる習性か? いずれにせよ、ますます男に対して興味が沸くのが分かる。
「今からそこに連れてってやるからよ。――安心しな、アンタはラッキーだ。もう少し前なら三日かかる場所だったが、今は半日もかかんねぇとこだから」
「は、半日…?!」
 言っている意味がイマイチよく分からなかったが、漠然と一、二時間程度の狩り場に案内されるのかと思っていただけに、半日歩くと聞いて愕然とする。だが今更無理だなどとは、とても言い出せそうにない。
(それに…)
 オレには真っ向から飛びかかってきていた天涯が、山に入るためにゲンマの拳に留まるや否や、嘘のように啼いたり羽ばたいたりしなくなった上、拳の上で器用にバランスを取って早くも『人鳥一体』になっていることに純粋かつ不思議な感動を覚えていて、その『結びつきの秘密』をどうしても知りたくなっていた。


「――オイオイ、大丈夫かよ?」
 三度目の休憩に入った途端、巨大な切り株の上にがくりと両手両膝を付くや、そのまま頭を上げられなくなったオレを見て、長楊枝を銜えているのにまるで呼吸が苦しくないらしい男がからかうような声で軽く嗤う。
「…いつも…こんな山道…歩いてる、ん…ですか…」
 登り始めは寒くて沢山着込んでいたはずが、あっという間にTシャツ一枚だけになった汗だくの体で訊ねる。今となっては、その脱いだ衣類までもが重い荷物であり足かせだ。ジーンズの膝下から裾回りにかけて、茶色い泥がびっしりとこびりついているのにもとうの昔から気付いているが、構う気力はこれっぽっちも残っていない。
「いいや。いつもはもっと早く歩くし、もっと遠くに行くし、大抵近道もするから道は急だな。なんせ鷹は夜目が全く利かないから、暗くなるともうどうしようもねぇのよ。しかも冬は冬で何もかもが深い雪に埋もれっから、この何倍も歩きにくくなるぜ。まぁその方が獲物は目立つし邪魔な枝葉や下草もなくなるから、狩りに限って言えば断然上手く行くんだけどな」
「…………」
 もう返す言葉もなかった。きっと彼にはこの頻繁に繰り返す急なアップダウンも、子供のハイキング程度の感覚なのだろう。けれどもこちらは、喉は乾くは腹は減るわ足は痛いわで、最早どうしようもなくなっていた。イルカの家で、勧められるまま渋々ながらでも朝飯を食べておいてまだ良かったと思う。もし「朝は食べない習慣だから」などと断っていたら、本当に途中で燃料切れを起こして、前にも後ろにも動けなくなっていたところだ。
 天涯はと見やると、皮紐で繋がれたまま少し離れた立木に留まらされていて、木々の間から見えている目の前の谷や、遠くの山々を瞬きもせずにじっと見つめている。先程のごく短い休憩の際に何とか訊ねたところによると、クマタカの視力は2キロ先の木陰を走るリスの動きさえ見逃さないとのことだが、その爛然と輝く瞳は、一点の混じりけもない琥珀と水晶で出来た宝玉のようだ。





        TOP    書庫    <<   >>