再びうねうねとどこまでも続く轍を必死に歩き始めたものの、頑として振り返る気配のないゲンマと天涯の後ろ姿は、ものの数分と経たないうちに木立の向こうに見えなくなっていた。山歩きに長けた者が本気を出すとこうも違うものなのかと、男が風のように消え去った方角を見ながら唖然とする。
 「もう少しゆっくり歩いてくれ」と何度喉元まで出かかったかしれないが、こうなるかもと思いつつ彼を怒らせたのは自分だ。
 歩き出してすぐ、何の予告もないままゲンマがいきなり数段上のギアにチェンジアップしたことに気付くと、(いいさ、不用意に焚き付けた代償なら払ってやるよ)とすっかりヘソを曲げ、半ばヤケを起こしてついていくのを諦めていた。
 幸いなことに道は一本のまま、様々な種類が混在しながら密生している落葉樹の間をどこまでも続いている。この道から外れない限りは、恐らく大丈夫なのだろう。ゲンマも人一人遭難させても平気なほど無責任でもないだろう……と思いたい。
(まっ、ここらでずっと見送ってきていたイメージカットを撮っておくのもいいか)と無理矢理頭を切り換えて、巨樹の間から白く射し込む真昼の光線や、名も知らぬ小さな鳥、赤や黄色に鮮やかに色付いて木々に絡んだ蔦などを、気の向くままにファインダーに収めてはシャッターを切っていく。
 だがそうやって辛うじて被写体が目に入っているうちは、まだ良かったのだ。



 その後小一時間も歩き続けて、いよいよ喉の渇きが耐え難くなってくると、突然全身から一気に力が抜けるような恐ろしい倦怠感に視界までが傾きはじめた。直後足が重くなってもつれだし、(あぁいけない)とぼんやり思った時には、もう服が汚れるのを厭う間もなく、あっという間にその場に膝から頽れていく。もはや汗すらも出ない肌は熱く乾いていて、息を吸っても吐いても胸の悪さは増していくばかりだ。
(…やっぱ……マズイか…)
 地面に伏していると、湿った泥が頬に触れて気持ち悪いのに、ひんやりとしているせいでちょっと気持ちいい。生まれて初めてこんな近くで土の匂いを嗅いだが、もう十分だ、次はなくていい。
(大丈夫、か…?)
 それでもライター根性だけは健在だった。倒れる際、無意識のうちに手に持っていたカメラと、ベルト通しに提げていたボイスレコーダーを庇って体のあちこちをぶつけていたことに、どこか他人事のように感心しながら、損傷がなかったことにホッとする。
(…なに…、やってんだろ…ね…)
 このまま彼が戻ってこなければ、行き倒れてしまうのも時間の問題だ。一帯は何の意味があるのかと思うほどに隙間なく緑に覆われていて、秋の涼気に潤っているというのに、自分の体だけが熱波渦巻く砂漠と化しているのが不条理に思える。
(…こんなはず、じゃ…)
 とにかく土の上で伏したままなど、格好悪いし汚い。のろのろと半身だけ起き上がって、そのまま背中を巨木に預けた。口の中が、丸一日ずっと開けっ放しだったみたいに乾ききっている。
(――あーあ…)
 上を向き、葉が落ちだしたことで面積の増え出だした、まだらに青い部分をぼんやりと見つめた。猛禽が通ったことで散り散りに逃げていたらしい小鳥の軽やかな囀りが、少しずつ戻ってきている。
 ついさっきまでは、何をどうしようとも「水」としか考えられなかったが、今は少し違っている。
(…天涯……か…)
 極限まで絶食を強いられたのであろうあの天空の覇者も、ゲンマに捕らわれ、真っ暗な闇の底でこんな風に絶望したりしたのだろうか?



   * * *




「――あの…」

 すぐ側から出し抜けに声が掛かった気がして、のろのろと目を開いた。いつの間にか意識が遠のきかかっていたらしい。
「…?」
 目の前で片膝を突き、こちらを見つめている男に見覚えはない。それでも「良かった」と発したつもりの干からびた唇から声は出ず、ぱくぱくと小さく動いただけだった。
「ゲンマさんが酷いことを…。すみません」
 開口一番、小さな声で詫びてきた男はゲンマと知り合いらしかった。黒い瞳に黒髪だったが、イルカではない。当たり前だ、彼が幾らお節介でもこんな所まで来る理由がない。水が合わないと、つい今朝方逃げるようにして別れた者のことを真っ先に思い浮かべるなんて、我ながらどうかしている。
 男が1リットルのプラスチックボトルの水を差し出してくると、礼も言わずにそれこそボトルごと呑み込んでしまいそうな勢いで、途中何度もむせながら夢中で流し込んだ。
 水分が体の隅々にまでひたひたと行き渡りだすと、干からびて殆ど止まっていた全身の感覚が次第に目覚めだして、心底ホッとする。
 最後の一口を飲み干す頃になって、ようやくその水が薄い塩味であることにも気付いた。彼は最初から行き倒れていると思しきオレを探すために来たのだろう。
 肝心の礼を言うのを忘れていたなと、乱れた呼吸を収めながら切り出すと、さほど年は違わないであろうに、余り血色の良くない男がぼそぼそと応えた。
「あの人の様子が何となくおかしかったんで、問い詰めて良かったです」
 その表情や声には、特に嬉しそうな様子も見られない代わりに、焦りや人見知りといったものも感じられない。
「――あぁいや、オレが怒らせるようなことを訊いたから。わざとね、ちょっと、焚き付けてみたくなったというか」
 隅々まで水が行き渡り、たっぷりと潤った体なら、軽口も滑らかに出るというものだ。
「だとしても、簡単に挑発に乗るような人じゃないはずなんですが。――とにかく今すぐ村に戻るのは無理でしょう。簡単な炭焼き小屋で良ければ、暫くそこで休んでいって下さい」
(…え?)
 その言葉にピンとくるものがあって、顔を上げる。
「炭焼き小屋って…あなたもしかして炭焼き職人?」
 改めて手や服を見ると、その髪と同じ真っ黒な汚れが、あちこち無数に付いている。
「職人などと言われることは何もしていませんが、炭なら作っています」
(なんだ、そういうこと?!)
 後でゲンマに会ったら、詫びと御礼を言わねばなるまい。まさか彼自らが、次の取材候補者の元に案内してくれようとしていたなんて。
 オレは「三代目の許可を得て、村の職人を取材させて貰っている畑カカシです」と名乗ると、男は相変わらず淡々とした静かな口調で、「月光、ハヤテです」と言い、二度三度、照れ隠しともとれるような咳をした。



「――そうですか、東京から…」
 前をゆくハヤテが、別段何の感慨も含まない声音でぼそぼそと話している。
 真っ黒な炭汚れがあちこちに着いている薄い白の綿シャツと紺の作業用のズボンは、彼の体がハッとするほどやせ細っていることを、隠すどころか逆にくっきりと浮き立たせていて、ズボンの裾から時折覗く足首の驚くような細さを納得させている。
 ただ歩みはしっかりしていて、一応こちらに合わせてくれているらしく、どれほどキツイ上り坂になってもオレとの距離が変わらない。簡単な自己紹介のあとで切り出したどんな質問にも、特に口籠もることなく受け答えしてくれていることから、これ幸いとばかりにICレコーダーをONにして、『炭焼き職人の系譜』から訊ねていくことにする。

「昔は冬の間だけ副業として炭焼きをする人が多かったようですが、うちは代々炭焼きを専業でやってます。初代は『山人』なんて呼ばれて人別帳にも名前が記載されてなかった「存在しない人」だったみたいですが」
「存在、しない? …というと?」
「炭焼きを専業でやるということは、山を降りないということなんです。山から山へ、良い原木がある所に二、三年おきに移っていくので、里に下りるのは炭を売りに行く時だけです。わたしも村には半年に数回程度しか寄りません」
「なるほど」
 要するに炭を現金化する時や、物資や食料の補給の時だけ下りるらしい。にしても、なんと孤独な生業だろう。下の里でやるならまだしも、こんな深い山中でよく続くものだと思う。
「伐り出してきた木は、どうやって炭にするんですか?」
「まずは山の斜面に大きな穴を掘ります。次に珪藻土という土を探して掘り出してきて、壁一面に塗りつけてから一度焼き固めて、窯を作ります」
「えっ、なに、そんな所から?」
「ええ、窯がないと炭は焼けませんから」
 ハヤテはオレの素人丸出しの質問にも別段呆れた様子もなく、聞かれたことにのみ淡々と受け答えしている。
「ちょっと待って。じゃあ新しい場所に移って住むための小屋を建てて、炭が焼けるようになるまでに、一体何日かかるの?」
 幾ら巷で炭がブームになっているとはいえ、そんなに何日もかけて焼いていては、とても食っていけないのではないだろうか?
「小屋を建てるのに二日、山肌を掘る『胴堀り』が二人がかりで二日、原木を伐り出して運んで大きさを揃えるのに三日。そこから内壁を作って炭にする原木を詰め、最後に天井と入り口を固めて火を入れますから、最初は一ヶ月ほど」
「一ヶ月?!」
 予想以上の数字に、思わずおうむ返ししてしまう。
「ええ。でも窯は一度作ってしまえば、少なくとも二年は保ちますから。――その後原木に火が回るまで三日。そこから丸七日間かけて空気を遮断して蒸し焼きにして、出来上がったら袋詰めして木馬(きんま)で里に下ろします」
「それを、たった一人で…」
「いえ、ゲンマさんが手伝ってくれてます」
「あーー…」
 なるほど。それで彼は鷹匠で全く食えなくても暮らして行けているのだな、と合点する。
「炭焼きの仕事は、昔は家族単位でやるのが普通でしたから、とても私一人では出来ない作業量なんで助かってます」
「確かに今伺っただけでもかなり大変な仕事のようだけど、他の職に就こうと思ったこととかは? ぜんぜんないの?」
 自分がこういった分野の専門ライターであったなら、恐らくは遠慮して訊かないであろう微妙な問いかけも、遠慮会釈なくぶつける。
「物心ついた時からこの仕事を手伝ってましたから。他のことなんて何一つ知らないし、出来ませんよ」
「――そう、ですか」
 ハヤテという男は全てを悟っているのか、或いはその逆か。
 どこまでいっても淡々とした語り口からは、どちらかを推察することは出来なかった。



 そうこうするうちに、何かが燃えるような匂いがしだして、やがて嘘のように視界が開けると、ささやかながらも人の生活の匂いが感じられる場所へと辿り着いた。木を切り倒して作ったテニスコートほどのスペースに、話に聞いていたよりもまだ粗末で小さい印象の炭焼き小屋と窯、それに伐りだしてきた大量の原木の山が幾つも見える。
(――ようやっと、終点か…)
 背中の荷物をおろし、積み上がった丸太の上にがっくりとへたり込んだ。
(足が…)
 もう限界だ。今日中に山を下りる算段なんて今はとても考えられないし、考えたくもない。体力にはそれなりに自信があったはずなのに、たかが歩くという行為がこんなにも苦痛になる日が来るなどとは、思ってもみないことだった。
 窯の前で中腰の姿勢でもって中の火を見つめていたゲンマが、こちらをチラと見るなり鼻で嗤ったのが見えたが、それを跳ね返すだけの気力がない。
 ハヤテに「どうぞ、中で休んで下さい」と言われるままに、彼の後ろに付いて小屋に向かうのが精一杯だった。





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