「――ご家族は? 滅多に帰ってこないんじゃ、心配してるんでは?」
 それでも小屋に向かいながら、口だけは動いてICレコーダーの空白を埋めていく。
「父は母が亡くなったのを機に、山を下りて街で暮らしてますから、里に肉親はいません」
「…そう」
 その父親が今誰とどうしているのかは、山奥で暮らす彼の知る所にあるのだろうか、などという疑問がふと脳裏を過ぎるが、もちろん訊ねはしない。
「でも私が怠けないでちゃんと働いているかどうかは、煙で分かりますから。皆さん風向きを知るついでに、毎日見てくれているようです」
 男が見上げる方向を辿って振り仰ぐと、抜けるような大きな秋空に、きりりとした澄んだ大気を押しのけるようにして、一筋だけ陽炎のようなものがゆらゆらと高く立ち上っているのが見える。窯からの煙だ。
「まだ火を入れたばかりだと白いのですが、そのうち白が抜けて青みがかってきます。最後には色は無くなってあんな風に透明になりますが、山に入ることの多いアスマさんやイビキさんは、そういう色になるとたまに寄って下さいます」
「その頃には暇になってる、と」
「いえ、そこから一週間かけて中が冷えるのを待つ間だけ窯から離れられるので、次の原木を切り出しに行く手伝いに来て下さるんです」
「はぁ――なるほど」
 それで帰りに、出来上がっている炭を駄賃として持って帰るのだろう。考えればよく出来ている。この木ノ葉というコミュニティ内では、どれほど物が行き来しようとも、現金がやりとりされる事は殆ど無いのではないだろうか。
(まっ、平和っちゃ平和…か)
 加えて通勤電車に押し込まれることも無ければ、ノルマや査定に悩むこともない。
(体はそれなりに大変かもだけど、気は楽でいーよね)
 吹けば飛ぶようなという表現が、失礼ながら最もしっくりくる小屋の敷居を跨いだ。


 イルカの暮らしぶりを、よく言えば仙人、悪く…というか正直言うと世捨て人みたいだなどと思っていたが、やがて通された『炭焼き小屋』の中を見るや(上には上が居るもんだな)と思う。
 里に下りないで、その場にあるものだけで作るのだから、小屋は「建てる」のではなく「掛ける」とでもいった方が余程適切だった。屋根は荒っぽいながらも一応檜皮葺であるものの、後は切り出してきた原木を組み上げて、部分的には蔦などで縛って固定してあったりする。手慣れていると言えばそうなのかもしれないが、四畳半程度の板間のスペースには入り口付近に簡単な囲炉裏があり、その奥にはちょっとした日用品や鍋釜の類、そして布団が一組あるだけで、まるで長期のキャンプ中といった様相だ。まさに生きていくための最低限のものしかないと言っていい。
 これに比べたら、竹筒に生けられた野花や、色んな形の木の食器や、作りかけの仏像なんてものまでがあるイルカの家の方が、まだよほど余分なもののある暮らしに思える。ここまで娯楽の欠片もない、シンプルを通り越して簡素極まりない暮らしがよく続けられるなと感心…の域を通り越して内心で密かに呆れる。
「ね、一つ聞いていい?」
「はい」
「布団が一組しかないけど? あの鷹匠さんは毎日山を下りてるんだ?」
 鷹は夜目が利かないと言っていたから、もし下りるとしたら一緒に下りないと道が分からない……が、それもどう考えても無理そうで、考えるだに溜息が出そうになる。
「布団は二人で使っています」
「……な…っ、えぇ?」
 何やら下世話な想像が脳裏を過ぎり、今まさに出そうになっていた溜息を呑んだ。
(オイオイ、娯楽って……そういうこと?!)
 小さな囲炉裏によく使い込まれた鉄瓶を掛けて、茶を淹れようとしてくれているらしい男の横顔を、穴の空くほどまじまじと見つめる。
「炭焼きは火の加減が全てです。夜は常に交替で、火を絶やさないように見ていないといけませんから」
「ぁ――…あぁそうね。布団は二つは必要ないと」
 そういうことなら了解と、にわかに過ぎった突拍子もない「娯楽説」を、一抹の恥ずかしさと共に即座に闇に葬る。
「ええ。火事を出さないためにも、必ず夜通し火の番はしています。ごくたまに火を落とした時や、アスマさん達が来た時は、あの寝袋を使いますが」
 目線の行った方向を見ると、枕のサイズ程度にきっちりと畳まれて袋に入った、登山用の寝袋が目に入る。
「はー」
(何ともはや、逞しいというか何というか…)
 流石にこの暮らしにカメラを向けるのは憚られた。もちろん撮ったとしても、簡素とか質素と言うよりは、貧しいという表現がぴったりきてしまうこのデータが採用になることはないだろう。今回のクライアントは、誌面の世界に何らかの夢を抱かせてなんぼのスタンスだ。この手のリアルを、そこに集う読者は好まない。
 幸いなことに、このハヤテという男は鷹匠と違って聞かれたことにはちゃんと答えるし、びっくりするほど愛想がないかわりに、照れや物怖じといったものもない。ただ黙々と、本当にひたすら黙々と手や体を動かし続けていて、てきぱきと物事を片づけているところを見ると、仕事自体は出来る男のようで、その点こっちとしても有り難い。
「じゃ、外で炭焼きについて詳しくお話を伺ってもいいですかね」
「はい」
 どうやらここで一夜を明かす事になりそうだが、とりあえず今日下山をしなくていいなら、後はもうどうだっていいという気になっている。
 鉄瓶から淹れられた茶が、この暮らしぶりからは想像もつかないほど上品で旨かったことに少し驚きながら、カメラだけを担いで小屋の外に出た。



 炭焼きの窯は、山の斜面を上手く利用しながら設えてあり、一応と泥土で煙突も作ってあるが、随分と素朴というか原始的な印象の外観に、早速カメラを向ける。
「ふん、運だけはあったみたいだな」
「お陰様で」
 ゲンマを軽くいなしながらシャッターを切りだすと、すぐに温かい空気が肌を撫でてきた。出入り口が殆ど塞がれた窯の中では、勢いよく炎が燃え盛っているらしい。
「どんな木を炭にしてるの?」
「それは炭の種類によって違います」
「炭の、種類?」
「ええ、黒炭と白炭を」
「白炭? 白い炭なんて、あるの?」
 即座にゲンマに「オイオイ、これだぜ」と鼻で嗤われながら聞いたハヤテの話によると、炭にも色んな種類があり、茶の湯で使うクヌギ炭や、鍛冶屋が使う松炭、コタツや火鉢などの暖房や調理に使う楢(なら)炭、そして高級炭の代表格である樫炭――いわゆる備長炭など、用途や価格によって様々に使い分けられているのだという。
 樫類で作る、火持ちがして火力の強い炭を白炭と呼び、それ以外の炭が黒炭と呼ばれて、市場価格が全く違うらしいのだが、この一帯には樫が少なく、まとまった量が伐採できた時にのみ焼くらしい。

「丁度今、白炭を焼いているところです。――そろそろ、でしょうか」
 窯から立ち上っていた煙をじっと見上げ、続いてゲンマと入れ替わるようにして窯の近くに耳を寄せ、最後に小さな覗き穴らしきところから中を見ていたハヤテが、誰に言うでもない様子で呟く。その一連の動作には、迷いというものがない。
 振り返れば、ゲンマが軍手をした手に鉄製と思しき細長い棒を持って立っている。ハヤテが窯を塞いでいた四角い土塊を下ろすのを待っているらしい。これから何がどうなるのか分からないまま、シャッターチャンスだけは逃すまいと、ファインダーを覗き続ける。
 しかしふと(風向きが、変わった…?)と思った瞬間、横顔に恐ろしい熱さの風の塊ががぶち当たってきて、訳も分からずその場から飛び退いた。
 窯を塞いでいた珪藻土の塊がガラガラと崩されていくと、ぽっかり開いたそこはまさに溶鉱炉そのものだった。いや、山の斜面からたった一メートル奥に、いきなり地球の中心であるマントルが出現していた。
(な…!)
 その中で、数百本はあろうかという黄金色の柱が、直視出来ないほど眩く光り輝いている。あれらが元々はそこらへんに生えていた何の変哲もない木なのだと分かってはいても、とても信じられなかった。目を細めながら、慌ててカメラを構え直す。
「ぼさっと突っ立ってんじゃねぇよ! 邪魔だ、どいたどいた!」
 だが四角い視野は、勢いよく割って入ってきたゲンマの背中によって遮られてしまった。男は熱風をものともせず、鉄の火掻き棒を使って黄金を掻きだしていくが、山の中から引き出されてきた何百という金の柱は、見ている間にもたちまち明るい黄金色からマグマ色の赤へと変わりだした。温度が下がりだしているのだが、そこから広がる輻射熱の凄まじさに、本気で身の危険を感じて更に後ずさる。熱さとそれ以外からくる汗が一緒くたになり、全身から一斉に噴き出すのが分かる。
 ハヤテが初対面のオレや、突然の取材などというもの対して些かも意に介してない理由が、その時になってようやく分かった気がした。この炎熱のとてつもないエネルギーに比べたら、そんな輩など些末でちっぽけな存在としか映らなくて当然だ。
 まだ千度から数百度下がっただけだろうそこに、今度はスコップを手にしたハヤテが、脇から真っ黒な粉状のものを大量にふりかけはじめた。途端、真っ赤に熱した鉄がいきなり水に突っ込まれた時のような連続音が、凄まじい騒音となって山一帯に響きだして、熱だけでなく音にも怖じけて更に数歩後ずさる。そのままでは木は燃え尽きて灰になってしまうだろうから、ああして水を含んだ灰を撒いて、一気に火を消そうとしているらしいのだが、真っ赤な火の粉と真っ白な水蒸気が飛び散ちり濛々と湧き上がるそこは、最早危ないなんてレベルじゃない。暴れる火を力ずくでねじ伏せようとしているその様は、生きんがために繰り広げられる地獄絵図さながらだ。
「あっ…つ…!!」
 再び風が巻いて、押し寄せてきた熱風に思わず悲鳴のような声を上げた。余りの熱さに息が出来ない。吸おうとしても、大気が熱すぎて吸えないのだ。
「ちょっ…」
 咄嗟に息を止め、カメラとICレコーダを手の平で覆いながら、慌ててまた数歩後ろに飛び去る。
「るせぇ! 黙って見てろ!」
 真っ赤な火の粉が熱い上昇気流に乗って、大きな渦を巻きながら龍のように天へと駆け昇っていく。窯から黄金を掻き出していた長い鉄の鈎棒の先が真っ赤に染まっているが、さっきは真っ直ぐだったはずの棒の先端付近が歪んで見えるのは、立ち上る陽炎のせいだけではない。

 額から滝のように汗を滴らせている両者の間に、会話は一切無かった。うっかり口を開くと咽の奥が焼け付きそうだし、何より千度を超えているだろう金塊を一刻も早く掻き出して一気に急冷し、白炭にするタイミングを逃してはならないのだ。ぐずぐずしていると木が燃え尽きて、どんどん灰になっていってしまう。話している暇などない。熱中症で炎の中にぶっ倒れないよう必死で気を張りながら、呼吸を合わせることで精一杯なのだ。
 カメラを構えるオレも、熱風が精密機器に及ぼす影響を心配しながらも、刻一刻とその姿を変えていく木と男達を撮り続けることを止められない。カメラが触れないほど熱くなりだすと慌てて離れ、冷えるとまた近付いていく。


 結局、熱い地中から掻き出された全ての黄金が鎮められて、黒い「白炭」となったのは、小一時間も後のことだった。
 ただ座ってじっとしていればいいだけのフィットネスクラブの高温サウナでも、十分程度が限度とされている。そんな中、一時間動きづめだった二人は、ペットボトルの水を浴びるように飲んだかと思うと、ものも言わず側の丸太を積んだ上へと仰向けに倒れ込んでいた。これが真冬なら雪の中にでも倒れればいいのだろうが、夏場はことのほか過酷な作業に違いない。
 痩せ細った黒髪の男が、伏したまま身じろぎもしないでいる。だが真っ赤に上気したその顔も、血色が良くて健康とはとても言えないものだ。ぐっしょりと濡れたシャツの背中が僅かに上下している以外は、どこも動いていない。





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