「ちょっ…大丈夫?!」
 覗き込みながら、脇に落ちていたペットボトルを拾って顔の側に差し出す。思えばついさっきの自分と立場が完全に逆転した格好だったが、症状としては一番火に近いところで率先して作業を行っていた彼の方が遥かにヤバイだろうと本気で心配になっていた。例えどんなに容態が酷くなっても、携帯の電波も届かないこんな山中では、医者にかかることなど到底不可能だというのに、あそこまで無茶をせずとも食える方法を考えたりはしないのだろうか?
(ぁ)
 しかし、脇から伸びてきた真っ黒に汚れた手がペットボトルをひったくり、そのままハヤテの頭に向かって真っ逆さまに傾けられていた。止める間もない。いや、予想外に強いものに気圧されて、すっかり止める機会を逸してしまっていた。
「余計なお世話だ」
 ボトルの中の水が全て無くなると、男はその場にボトルを投げ捨てて、薄い色の髪を首筋にべったりと張り付かせたまま、小屋へと消えていった。
 頭から水をかけられた方の男は、それでも身じろぎ一つしなかった。辛うじて瞼を薄く開きはしたものの、何かを喋る気力など欠片も残っていないようだった。


 暫くしてゲンマが小屋から出てくるなり、まるで独り言のように「行くぞ」とだけ発した。
「?」
 その意味が分からずに、相変わらず側で伏したままのハヤテと交互に見比べていたものの、着替えた男の左手にカケが付けているのを見るや、慌ててペットボトルに水を汲むべく駆けだす。
 いよいよ鷹匠が、鷹匠として出掛けようとしていた。
 いまだ冷めやらぬ体の火照りに、いつまでもうだっている場合ではない。

(よし)
 さっき聞き逃していたことや新たに生じた疑問を、洗いざらい聞いていく絶好のチャンスだ。質問の内容と順序を素早く慎重に吟味して、大きな鷹を左手に乗せて足早に歩き出した男の背中に早速話しかける。
「それにしても白炭を焼くのって、とてつもなく過酷な作業なんですね。昔からあの製法なの? それともあれでも改良されて、楽になった方?」
「――――」
「年に何回くらい焼いてるんです? その間も昼夜交替で火の番をしながら、ずっと黒炭を焼いてるんですよね」
「――――」
「あの人、あんまり具合良さそうには見えなかったけど、あのまま残してきて大丈夫? いつもあんな感じなの? 熱中症とかになったりしない?」
 しかしこちらの意図を敏感に察したのか、大きなクマタカを腕に留まらせた男は前を向いたまま、一向に答える素振りを見せない。男の足はあんな過酷な作業をしたばかりだというのに、相変わらず山道を滑るようで、すぐについていくのがやっとになる。


 そうして一体どれほどの距離を歩いただろう。ままならない足の痛みが道のりを数時間にも感じさせていたが、時計によるとまだ三十分も過ぎていない頃。
(ぁ…)
 鬱蒼として薄暗いほどだった周囲の景色が唐突に明るくなり、無数の切り株が点在する広い斜面地が眼下に開けたことで、抜けるような青空の下、深く息を吸い込みながら目を細める。
 と、それまで揺られるがまま周囲を見渡していた天涯が、じっと一点を見つめだした。鋭敏な野生の本能が、早くもこの一帯のどこかに獲物の存在を感じているらしい。
(なっ、ええ? ウソ、どこよ?)
 自分にはどんなに目を凝らしてみても、生い茂る雑草と切り株と向かいで連なる山々しか見えないが、傍目にも明らかに出撃態勢に入っているその姿に、足の痛みも忘れて慌ててカメラを構える。
 見る間に全身の羽毛がぴったりと体に張り付いて、全身がぎゅっと引き絞られていく。ただでさえ鋭かった眼光が、間違ってもこっちを見るなよと言いたくなるほど険しくなっている。ぞっとするような大きなかぎ爪が分厚い皮の綿入れを力任せに掴んでいて、今にも突き破らんばかりだ。
(ああくそっ、間に合え!)
 狩りは余りに唐突で何の予告もなく、そうと気付いたときには早くもクライマックスを迎えていた。待ったなど通用するはずもない。全速力で構図を変えながら、(まだだ、待てよ、もう少し留まっていろ!)と念じる。
 と、それまで楊枝を銜えたまま相方の様子を横目で見ていたゲンマが、呼吸を合わせて左の腕を天涯ごとぐっと引く。
 それが彼女への「合図」だった。今まで天涯の自由を奪い続けていた、足首に巻かれていた革紐が離されて、高い空へ…と思いきや、意外にも眼下に広がる空と陸との境目辺りに向かってほぼ水平に放たれると、真っ黒な影が景色を裂くように真一文字に飛び立っていく。
(速い!)
 とてもじゃないが、走って「その瞬間」に追いつけるようなスピードではないことは、見たと同時に理解していた。
 だが、余りのことにどこかぼんやりしていたのも束の間、目の前のゲンマが走り出したのを見て、慌ててそれに続く。足の痛みなど、感じている暇もない。
 草を蹴散らし、切り株を跳び越えて、彼女が向かった方向へと駆け出した。


「…っ、とれ…、……た…?」
 急な下り坂を、荷を担いで色んな障害物を跳び越え、時に鞭のように叩かれながら走るのは本当にキツイ。カメラを構えることすらままならず、上がりきった息の合間にようやっとそれだけ発する。
 大きな翼は、一匹の茶色い毛皮の上に舞い降り…いや恐らくはほぼ無音のまま猛然と掴みかかって、その八本のかぎ爪を勢いよく打ち込むことで止めを刺していた。足の下に獲物を組み伏せたまま、耳を劈くような声で啼き叫ぶ様は、鷹匠の腕に留まっている時とは比べ物にならないくらい猛々しく、見るからに誇らしげだ。その様子を目の当たりにして、ようやく自分がすべきことを思い出してカメラを構える。
「あぁ。一撃だ」
 荷からナイフを取りだしたゲンマは、ぴくりとも動かなくなった野兎の前足を素早く切り取ると、相棒に与えた。そして飢えきった彼女がその僅かばかりの報酬に気を取られて夢中で呑み込んでいるうちに、まんまと足の手綱を握られて元の左腕へと戻され、兎本体は持参した布袋の中へと入れられていた。
「ぁ…もしかして、これで、終わり…ね?」
 唐突に始まり、唐突に終わったそれは、余りに鮮やかな一瞬だった。
「見りゃ分かんだろ」
 だが日頃から高速連写する機会などないため、すっかりモードを切り替えるのも忘れてしまっている。放鳥の決定的瞬間も、ブレずにちゃんとフレーミング出来ているか甚だ怪しい。
「もう一度…」
「ハッ、何なら天涯にそう言ってみるんだな。今のでこの一帯の獲物はみんな逃げちまってる。こんなに早く狩り終わることなんてまず滅多にないんだ。せいぜい有り難いと思うこったな。――帰るぞ」


 炭焼き小屋に続く戻りの山道は、当然ながら緩い下りの連続だ。登りの時とはまた違った耐え難い足の痛みに、ついつい本音が漏れてしまう。
「ぁ――くっそ…それにしても…人間の足っていうのは、もどかしくて…不自由、だな…」
「翼と比べること自体、間違ってるけど」と、自嘲気味に笑う。どうやらゲンマはあれこれ質問しても何も答える気はないらしいから、全ては帰ってハヤテに聞くつもりだ。

「――鷹匠としての暮らしが嫌になって、村を出た時な」
「? …あぁ?」
 だが唐突に始まった、前をゆく男のぶっきらぼうな切り出しに、すっかり下がってしまっていた頭とテンションを急いで上げる。
「色んな事が不自由で、結局逃げ帰ってきたと言ったがな」
「まぁ…、言った、ねぇ?」
 一体何を言うつもりなのだろう。その先は、鬱蒼としたこの獣道のようでもあり、見えそうで見えない。
「オレはそうやって、好きなときに好きなように逃げ隠れ出来るがよ。アイツは体が少しでも動く間は、この山から出られねぇ」
「? 出られないって?」
 アイツとは、ハヤテのことを指しているのだろう。どうやら余所者で後腐れのないオレに、個人的なことを吐き出そうとしているらしいが、あれこれ聞かずに本人が言いたいに任せることにする。
「アイツはオレと違って、自分の置かれた過酷な境遇を悲観したり、他人と比較して羨んだりしねえ。開けても暮れても炭を焼き続けることに、何の迷いも疑問も持たねぇ」
 周囲の小鳥達も一様に押し黙り、木の葉の影で息を殺して男の話に耳をそばだてている。
(…で?)
「その上、体を限界越えてまで酷使することをこれっぽっちも厭わねぇ奴に、これ以上どうやって養生させるってんだ、あ?」
(ああ、そゆこと?)
 鷹と互角に渡り合って組み伏せるような男にも、不安や迷いはあるらしい。
「んーまぁ、そりゃ精のつくものを獲ってきて食べさせる…とか?」
「――――…」
 でもそれ以外の具体的な解決策は、最後まで思い浮かばなかった。ゲンマの本職が、本人すらまともに食っていけない鷹匠なのは、一見すると最悪な気もしたが、そのお陰で炭焼きを終日手伝えてもいるのだ。結局はハヤテ本人が方針を改めない限りは、誰が側にいても暮らしは良くならないだろう。
 それにしても、あのハヤテという男、そんなに体調が良くないのだろうか。
(良く、ないんだろうな)
 彼らには悪いが、都会で生きるということは、やはり何ものにも代え難い安心感があると思う。
「ありきたりの答えで悪いんだけどさ、あんたがここで作業を全面的に手伝って、多少強引にでも食べさせてることが、一番の助けになってると思うけど? それじゃ納得できないわけ?」
「――――…」
 鷹匠はまたしても何も答えなくなっていた。自分が勢いのまま吐き出してしまったことを、後悔しているのかもしれない。
 こちらとしても、こんな所でいつの間にか人生相談をしていることに内心で苦笑うが、『解放的な環境で閉鎖的に暮らす』者にとっては、それもまた大きな悩みだったりするんだろう。到底記事にはならないが、わざわざ鷹狩りなどという珍しいシーンを提供してくれたのだ、もう少しなら付き合ってもいい。
「こんな山深い所じゃなくて、もっと村に近い所で炭を焼くとか?」
 そうすれば、万一具合が悪くなったとしても、まだ何とかしようもあるだろう。出来た炭を下ろすのも、現金化するのも楽になるし?
 だがそれは、都会で生まれ育った者の短絡的な意見でしかなかったらしい。
「ふっ、相変わらず分かってねえな。――炭って字はよ、山を灰にするって書くんだぜ」
「ぁー……そーね」
 そうだった。ハヤテの作業場が里に近ければ近いほど、利害が対立する者もまた多くなるのだ。ゲンマだって、森が無くなればますます獲物が減って困るだろう。
 ひょっとするとオレにとってはある意味絶望的とも思えるこの山深さが、彼らにとっては理想的な人里との距離なのかもしれない。
(ふっ、自由ってのが言うほど楽じゃないのだけは、どこも同じ、か…)

 豊かな森がなくては生きていけない鳥と男が、山を次々灰にしていく男と共に、自由と不自由の狭間でひっそりと暮らしている。





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