炭焼き小屋に戻ると、囲炉裏の回りで動き回っているハヤテと出くわした。箸を手にしているところをみると、食事の用意をしているらしいのだが。
「もう、いいの?」
「ええ。いつものことですから」
 元の血色の悪い顔色に戻って、まるで独り言のように答えている姿は、マイペースと言えば聞こえはいいものの、かえってそのことが相方を内心で苛立たせているであろうことは、想像に難くない。
 無言のまま米を研いでいる、細い手首をじっと見つめた。

 時間は既に四時を回っているが、これが昼食なのか夕食なのかは敢えて聞かずに、有り難く頂くことにする。でないとあと幾らもしないうちに、足の痛み以外の原因で動けなくなってしまうだろう。
 ハヤテに炭焼きの手法を詳しく聞きながら小屋の外まで付いていくと、鉈を手にして丸木を割りだした。炭は売り物だから、普段の煮炊きには拾い集めた枯れ木を使っているのだという。何の木だろうか、男の手首ほどの乾いた細い丸木が小気味よい音と共に断ち割られるたび、風に乗って微かに香気が漂ってくる。
 話を聞いている途中で、少し離れた所から「オイ、兎潰してるとこ見せてやっから、撮れよ」と、ゲンマが声を掛けてきたが、その言葉を聞いただけでこっちはもうげんなりだった。そんなデータどのみち使わないし撮りたくない。
 男は、オレとハヤテが話している間は、どういうわけか決して近寄ってこないため、丁重に断って再び質問を続けた。

 黒炭を焼くために、ゲンマが窯の前に櫟の丸太を積み上げはじめている。そう言えば、さっき窯から掻き出した大量の白炭が、いつの間にか一つ残らず無くなっている。どうやらオレ達が狩りに出掛けている間に、ハヤテが全て片づけたらしい。ゲンマが言うとおり、確かによく動く男だ。
「畑さんには、天涯が凶暴なだけの生き物に見えたかもしれませんけど、それは違いますよ」
 と、それまでこちらが聞いたことにしか答えていなかった男が突然話題を変えてきて、気持ち面食らう。
「違う? 凶暴じゃないってこと?」
「ええ。対等な関係さえ築けていれば、彼女は山鳩やカラスより余程大人しいですから」
「や、そうは言いますけどねぇ」
 再び脳裏を、巨大な黒い翼が視界を覆っていく不気味な光景が過ぎてぞくりとした。あれは鋭い牙も爪も持たない丸腰の人間にとっては、脅威そのものだ。
「鷹は腹さえ減ってなければ、目の前をどんなに丸々と太った兎が走ったって見向きもしません。ゲンマさんがどんなに腹が減っててけしかけたって、天涯は梃子でも動きませんから」
 その言葉には、思わず噴き出していた。どこかおっとりとした静かな語り口なだけに、余計可笑しい。
「ハヤテッ?! お前、余計なことを…!」
 案の定、こちらの会話に耳を傾けていたらしいゲンマが、口に銜えていた楊枝を片手で抜き去るや目を剥いている。だが痩せ細った黒髪の男は眉一つ動かさず、黙々と鉈を振るい続けている。子供の頃から全てを燃やし尽くす猛火と向き合ってきた男に、優形男の眼光など焼け石に水だ。
 そう言えば鷹匠の名前は『不知火』だったな、と思い出すと、また一頻り口元が弛んだ。

 この愉快な流れを途切れさせるのも勿体ないかと、彼に倣ってちょっと意地悪な質問をゲンマに投げてみる。
「じゃあ不知火さん、鷹よりも、銃や猟犬の方がいいなと、思ったことは?」
「あァ?! ないね! ――ああ、村を飛び出す前は思ってたこともあるが、今はねぇよ!」
「ったくどいつもこいつも…」とブツブツこぼしながら、丸木を組んだ止まり木にじっとしている鷹の飲み水を交換している。
 昼間はあれ程猛々しかった生き物も、今では瞳の中程まで瞼を下ろして、西の空へ向かって走っていく幾本もの筋雲の先を静かに見つめている。

「天涯と狩りをしてるゲンマさん、格好良かったでしょう」
(? ――ああ)
 心の中で、ごく短く返事をする。
 背後で再び丸木を運びだした男の耳に、果たしてこの静けさは届いているんだろうか。
「彼が鷹を飛ばしているのを見るの、好きなんですよ」
(ん)
 頷くかわりに、幾千もの筋雲に映り込んでいる天一杯の見事なグラデーションを見上げた。




 四、山装う


 小屋のあちこの隙間という隙間から、白い光が一斉に射し込んできている。
(へぇ…まるで、一斉掃射を受けたみたいだな…)
「っ?! ――しまった…」
 目覚めた直後に、思わず後悔の第一声を上げていた。
 夜中には一旦起きて、ハヤテが寝ずに行うという火の番を撮影するつもりだった。一点の灯りもない暗闇の中で、黄金色に燃える木々と男の姿はきっと絵になる。なのに、すっかり寝過ごしてしまっていた。セットしておいた携帯のアラームに気付かなかったなんて、今だかつて一度もなかったことだ。一体どれだけ疲れていたというのか。
 見渡すも、薄暗い屋内には当然のように誰もいない。
(ぅ…あっ…つつつ…)
 寝袋から半身を起こそうとした途端、足全体に広がった不快な痛みに暫し悶絶する。
(今日も、キてるぞ…)
 いよいよ足が使い物にならなくなってきていた。もしこれが自宅だったなら、PCの側まで辿り着けば何とか仕事になるが、ここでは動けなければ何一つ解決しない。
(くっそ…)
 痛みでみるみる不快に目が醒めていくことに内心で舌打ちしながら、情けない呻き声だけは聞かれないようにと奥歯を食いしばる。
 朝は食べない習慣なのに、珍しく腹は減っていた。実は夕べの兎をあまり…というか、殆ど食べられなかった。
 決して働き者の二人に遠慮したわけではない。解体現場も敢えて見てはいなかったものの、捨てる所など何一つないというそのレシピを聞いた途端、白飯と梅干ししか咽を通らなくなっていた。ゲンマに鼻で嗤われようが、ハヤテに「明日動けませんよ」と静かに諭されようが、無理なものは無理だ。
 それにしても、骨や皮を入れるのはまだいいとして、まさか腸の中身までなんて…。いまだに信じられない。
 兎や鹿は最近高級フレンチでもよく見かけるようになり、ジビエなどと洒落た名前で呼ばれているが、暫くはチョイス出来そうにない。

「おっと、先客か。悪ィな」
 とその時、角の取れた、当たりの柔らかな低い声がして、全く聞き覚えのない響きにそちらを見る。
(……熊…)
 小屋の入り口でこちらを見ていた男の第一印象は、失礼ながらその一文字だけだった。



   * * *



 昨夜ハヤテは、新たに点火した窯の火加減を夜半過ぎまで見続けて、その後いつも通りゲンマと交替したという。途中電子音が鳴っていたのは二人とも気付いていたらしいが、「それがどうかしたのか?」という顔をされただけで、朝の挨拶は終わっていた。
 そんな話をしている間にも、やたらと存在感のある大柄な男が嫌でも視界に入ってきていて、彼は誰だと聞かない訳にもいかなくなってくる。
 そのうち、ぴいんと張った冷たい山の空気が、頭の芯までクリアにしたらしい。
「ぁ、もしかして…三代目の仰ってた、木樵の?」
 紹介されて猿飛アスマだと名乗った男と、眩しい朝の光さす屋外で向き合って、そのたっぷりとした髭に覆われた堂々たる山男ぶりに直感したままを訊ねてみると、まさにその通りだという。
「おう、良かったじゃねぇか、ちゃんと三代目が取材の候補に入れておいてくれてよ」
 脇からゲンマが茶化している。ハヤテは黙ったまま囲炉裏端で茶を淹れだしていて、アスマが背中に背負っていたリュックから、アルミ製のカップをいそいそと手渡している。山男達の一日は、もうとうに始まっている。
「ああやめてくれ、俺は喋ることなんざ何にもねぇぜ」
 男は紺色の作業服の胸のポケットから煙草を取り出すと、手慣れた様子で火を点けた。


 見た目は熊並みに立派だが、初対面の者と相対すると、幾らもしないうちに間が持たなくなるらしい口下手なアスマに次々問いを投げかけてみたところ、彼は一昨日から山に入っていて、沢沿いの小さな小屋で寝泊まりしながら、所有している山林の手入れなどをやっていたという。
 所有地は広大で、この辺の山は大抵猿飛家のものと聞いて、ようやくこの男が三代目の息子なのだということにも気付いていた。ただ、今時道路をはじめとする一切のライフラインが通らないただの山林を所有し続けることに、どれほどの価値があるのかまでは具体的に聞かなかった。間伐材が安すぎて、山に放置されたままになっているという話は、こういったことに興味のないオレですらよく耳にしている。いずれは聞くにしても、もう少し後の方がいいだろう。
 男はがっしりとした大柄な体に似合わず、随分と小さな帆布製のリュックを背負っていた。中を見せて貰ったところ、愛用なのだという意外なほど小ぶりの両刃の鉈と、きっちりとまとめられた太いザイル、普段は余り出番はないという鋸、木製のメンパというらしいでかい弁当箱が二つ(中身は既に空だった)、それにタオルが一本という、実に簡素なものだった。
 彼曰く「んなにあれこれ担いでたって、邪魔なだけだろうが」ということなのだが、ゲンマによると「見た目はこの図体だけどよ、木から木へ、下に降りずにロープ一本で飛び移るんだぜ。まさに猿飛よ!」ということらしい。
「えぇ〜飛び移るは流石に冗談……じゃなくて?! じゃあ落ちた事とかは?」
「落ちてたらここに居ねぇよ」
「なるほど」
 体格が体格だけにいまだに信じられないが、どうやら落ちたら死ぬ程度の高さには登っているらしい。
 地下足袋がやたらと分厚いゴム底仕様で、脛を鎖と綿の入った脚絆でがっちりガードされたその出で立ちは、髭面と相まって無駄にゴツイことこの上ないものの、木々に登って飛ぶという話は、次第に呑み込めてくる。
「横枝は、その鉈だけで払うの?」
「ああ。機械や鋸だと、切り口から病気になったり、切り残した僅かな部分からまた枝が伸びたりするからな。切れ味のいいコイツで、完璧に削ぎ落とす」
 手持ち無沙汰なのか、かなり使い込まれていると思しき鉈を、手の中で無造作に回している。
 だが、「髭だってきれいに剃れんぜ」という台詞だけは、残念ながら今一つ説得力がなかった。



「――じゃ」
 ちょいと上げた手を下ろして、一夜の宿と世話になった男達に背を向ける。
「またブッ倒れんなよ」
 背後から楊枝を銜えていると思しき冷やかし声が掛かるが、こっちはこれからこの身軽そうな男について下山なのだ。いちいち相手にしてる場合じゃない。
 唯一内心でホッとしたことといえば、アスマが背だけでなく、両手にまで丸木のままの炭を担いだことだった。これなら何とかなるかもしれない。

 だが、そんな心配など無用だったことは、歩き始めて五分もしないうちに分かった。男は間違っても夜道で突然会いたい風貌ではないが、見かけによらず細やかなところがある。決して後ろを振り返ったりはしないものの、前を行きながらもちゃんとこちらの様子を伺っていて、定期的に休憩を取っていた。その辺の気配り具合は、あの村長の息子といったところか。
「歩きながら吸う煙草は、イマイチうまくねぇからな」などと言いながら、一向に姿の見えない小鳥達の囀りに耳を傾けているが、どうやら取材の機会まで設けてくれているらしい。これを利用しない手はないだろう。昨日寝過ごしてしまった分とばかりに、有り難く質問攻めにさせて頂くことにする。





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