男が慣れた様子で炭を足しだして、裸電球の明かりの中で三脚を立ててその様子を撮影する。食事の準備でもしようとしているのだろうか。
「そういや海野さんの所で、猪を頂いたんですけどね」
「ぁ? あぁ、あれか」
 あいつも相変わらず気前がいいなと口端を上げている。その表情は、先程までとは比べ物にならないほど穏やかだ。
「肉を噛んだとき、遠くで八角のような味がするのがありましたけど、気のせいですかね?」
「ハッカク? …なんだそりゃ?」
「中華料理の高級食材で、星みたいな形をした香辛料だと思いますが」
「へぇ、そうかい。――まぁ奴等には縄張りがあってその範囲内で気に入ったものを食ってるから、肉にも主食にしてたものの味が出るんだ。当たり前だろ? 猪だけじゃねぇ、どんな獲物でもみんなそうさ。要するに我々は、熊や猪や川魚を通して、山にある木の実や草や虫や水苔を幅広く食ってる」
「…………」
「ふっ、気持ち悪いって顔してるな。――じゃあ聞くが、お前たち町の奴等が毎日買ってる豚や牛や鳥や養殖した魚が何を食ってるか、お前は本当に知ってるのか?」
「そっ、そりゃ…家畜用の飼料、でしょうよ」
 少なくとも、何が寄生しているか分からない沢蟹や蛙よりは遥かにまともな餌だろう。オレは語尾を強めた。
「甘いな、一箇所で大量に育てると病気にかかりやすくなるってんで、予防のために何種類もの薬や栄養剤を混ぜて与えてる。でないと歩留まりが悪くなって、価格競争に勝てねぇからな」
「ああそれですか。それくらいなら、もう肉を買ってる誰もが知ってますよ」
 そしてそれは精査の末に、安全であることが証明されている。
「ふっ、そうか、知っててかい。……ちなみにオレは、町で牛や豚なんかの家畜を捌く手伝いをしたことがあるが、山で育った猪や熊の内臓があの時ほどきれいだと思ったことはなかったぜ」
「っ…、やな言い方しますね」
「いいだろう? なかなかない情報だぜ。――ああついでにもう一つ。以前ゴルフ場を荒らす鹿を駆除に出向いたとき、そこの芝生を食って育った肉を貰って帰ったんだが、口に入れた途端吐き出したな」
「あぁ〜〜そのテの情報はね、ハイクラスの男性読者がメインのライフスタイル誌じゃ、まず載らないでしょうね」
 どこか他人事のように言った。もし広告スポンサーにゴルフ場がなかったとしてもこのご時世だ。各所からのクレームを恐れて編集段階で即カットだろう。
「なんだ、そういう誰も知らない事実を取材して載せるのが、あんたの役目なんじゃないのか?」
(そうは言うけどねー)
 こっちにも事情ってものがある。ここでそれらをいちいち話すつもりもないが。
「残念ながら、最終決定を下すのはオレじゃないんで」
 さっきから注がれてはいたが、呑むつもりの無かった大ぶりの茶碗酒に手を伸ばす。
「都会者は、逃げ足だけは早いな」
「―――…」
 透明な液体が注がれた分厚い木製の椀を、ぐっと傾けた。

 昼間には感じなかった、木々を揺らしながら山間を渡っていく低い風音が、耳の奥を震わせている。
「お前の言うスローフードってのが何なのかは知らねぇがな。こんな山奥くんだりまで来る前に、お前らの身近にあるファーストフードってやつの中身を調べるべきだったと、オレは思うぜ?」
「――ま、それは一理、ありますかね」
 それについては素直に認めるとして。
(――くそ…っ)
 それより、入社当初からスポンサーに媚びない物書きを目指していたはずなのに、フリーになった途端、いつの間にかそれらの顔色を伺っていた己に気付いて、少なからずショックを受けていた。大企業の後ろ盾が無くなったことを、無意識のうちにフォローしようとしていたのだとしたら、こんなに恥ずかしいことはない。だが目の前の猟師は、そんな他人の思いなど知る由もなく話を続ける。
「この国には人と店が溢れてる。そいつらを常に満たしておくには、食い物だってのんびり作ってる訳にはいかねぇ。勢い野菜でも家畜でも、とにかく口に入れるものは何でも流れ作業で作る工業製品になっちまうのは仕方のねぇことなのかもしれんがな」
「…ん………そう、ね」
 俯いたまま呟いた。


 イビキとの取材は初対面の印象から、かなり緊張感のある、片時も気の抜けないものになるだろうと予測していたが、時が経つにつれ、色んな意味で当初の想像とは随分違ったものになっていた。
 男は鹿刺しの他にも、そのまま銀座のバー辺りで出せそうな洒落た燻製や、どっしりとしているのにとても繊細な味わいの味噌漬けなど、随分とバラエティに富んだ肉料理を振る舞ってくれた。それだけでも十分驚きだったが、自分がその合間に焼酎をたった二杯空けただけで、仕事が滞り始めたことが何より信じられなかった。が、こればかりは気付いたからと言ってすぐにどうこう出来るはずもなく。
(――あーー…、まずい…)
 四日間溜め込み続けていた疲れが、頭の上からまとめてしな垂れかかってきていた。じんわりとした囲炉裏の温かさが、たとえようもなく心地いい。
 だがオレにはまだ、やるべきことがあったはずだ。いや、あるだろう? さっきだって仮眠したのだ。この程度の事に流されてしまってはいけない。
 …いけない……けれ、ど…。


「…どうって……あんたがイルカの布団で寝ようが寝まいが、あいつは朝まで起きてたさ」
(え…っ?)
 イビキの声を耳にした途端、すっかり飛んでいた意識の一部が急にはっきりして、同時にヒヤリとした。いつの間にかうとうとしていたらしい。
(なに、今の…?)
 今しがた、自分は何を口走っていたのだろう? 思い出そうにも、全く記憶がない。ライター失格もいいところだ。帰ってからボイスレコーダーを再生するのが、何だか恐ろしいような。
「囲炉裏の火ってのはな、出掛ける時はもちろんのこと、夜も完全に消してから寝るものと昔から決まってるんだ。オレ達はこんな山の中の、しかも木と茅で出来た家に住んでるんだぜ? 竈と囲炉裏の火だけは、どんなことがあっても必ず寝る前に確認しろと、それこそガキの頃から口を酸っぱくして言われ続けてる。しかも布団なんて燃えやすいものが側にあるんだ。アイツなら寝ろと言われたって、寝られる訳がないだろうよ」
「――――」
 そう言われたことで、(確かに囲炉裏で燃やしていた薪がしょっちゅう爆ぜて、赤い炭が度々板間に飛んでいたな…)と思い出す。今目の前で熾きている黒炭の火が、ずっと黙したまま赤々と発熱しているせいで、すっかり忘れていた。この村の燃料は、全てハヤテが作っているはずだが、ひょっとして火を付けた者に似たりするのだろうか。
「なんだ、アテが外れたか」
「や別に。何かをアテにしていた訳では」
 何かどころか、何ひとつ思い出せないでいるのだ。
 しかし男の針のように細められた眼が、こちらの奥底を見透かそうとしているような気がして、側にあった木製のコップから再び液体を流し込んだ。
「――お陰で本物のスローライフとやらがつぶさに取材出来たんだ。イルカに感謝しろよ――」

(あぁ――そ、……ね…)



  * * *



 四日ぶりに車のエンジンをかけて、その足で三代目の所に挨拶に行く。
(…ご丁寧なことで)
 背後の森乃家の前では、さっきから大柄な家主が立っていて、ずっとこちらの動きを見ている。もちろんこれが見送りなどというものでないことは明白だ。でもそのお陰で、結局あの「奥の家」の取材は出来ずじまいで、何よりそのことが心残りだったが、最早どうしようもない。悔しいが時間切れだ。昨夜、まんまとイビキの策略にはまってしまい、思いのほか強かった酒に負けて囲炉裏端で眠りこけてしまった不甲斐ない自分を呪うしかない。同時に己の体力不足も痛感中だったりする。それはフリーライターとして、最早棚になど上げていられないほど深刻な気がした。


「こんにちは、お邪魔します」
 入っていったその屋内を、改めてしげしげと見渡す。この数日で色んな囲炉裏端の風景を見てきたが、やはりここが一番重厚で、独特の風格がある。
 翁は三日前と全く同じ場所で、同じように胡座をかいていた。傍らに藁束があり、反対側には数十メートル分はあろうかという長い縄が、ホースのように巻かれた状態で置いてある。入っていくと作業の手を休めて、「お帰りかの」と、柔和な笑顔を浮かべた。
「お世話になりました。お陰様で、良い紙面になりそうです。ご協力、ありがとうございました」
 言い慣れた、いつもの挨拶をする。
「酒も、ご厚意に甘えてしまいました。ありがとうございます。それと雑誌は出来上がりましたら送らせて頂きますので、連絡先を教えて頂けませんか?」
「おぉ、それよりイルカの所は? どうじゃった?」
 痩せた身を囲炉裏の上に乗り出すようにして、木地師の事を真っ先に聞いてきて、てっきり息子の事なら聞かれるだろうなと予想していただけに、些か不意を衝かれていた。まぁ取材を受ける切っ掛けになった者として、少なからず興味があるのだろうが。
「ええ、はい…、とても世話になりました。ランプや竈の暮らしも興味深かったです」
「そうか、そうか。いや良かった」
 だが翁の相好を見ているうち、己の内側に照れ隠しとも虚勢ともつかない感情が、つい顔を覗かせてきて軽口を叩かせる。
「でもまさか、いまどき仏像を彫るだなんて…。まぁ都会の方でもファッションというか、趣味でやってる人は居るみたいですけど、実際見たのは初めてでしたよ」
「――ふむ、そうか。…では聞くが、畑さんは仏像をなんじゃと、思っておるかの?」
「は? なにと、いいますと?」
 穏やかな笑顔に、かえって眉が寄った。ひょっとしてこの好々爺、オレに禅問答か何かを吹っかけて、また一杯食わせようとしているのではないだろうか?
「イルカはまだ若いが、その辺のことはちゃんと分かった上で、仏像制作に取り組んでおると思うがの。で、主は仏像を、何だと思っておる?」
(や、なんだって、言われてもねぇ?)
 悪いが仏像になど本当に興味がないのだ。むしろ宗教とセットにされるとマイナスもいいところで、不可解でうざったいだけのジャンルだから、何だと言われても何とも答えようがない。
「まぁ…そりゃ、篤い信仰の対象ってことでしょ?」
 とりあえず無難な答えを返しておく。
(この問答、まさか長引かないよね…?)
 今日中に家に帰って、メールチェックしたいのだ。いやそれより一刻も早く携帯の電波が届くところに行って、溜まっているであろう留守電を聞きたいんだけどな、と囲炉裏から立ち上る煙を眺めながら考えを巡らした時だった。
「ほっほっほ。なんと、そんなことも分からんままモデルを引き受けられたとな?」
「え?」
 思いもよらぬ問いと共に笑われて、染みと皺の浮いた長の顔をまじまじと見つめる。
「仏像とは木であり、石であるに決まっておろう?」
「な…っ、――もうーー三代目、それなら『仏像の素材は何だ?』と聞いて下されば…」
 思わず短い溜息を吐く。結局子供のなぞなぞレベルで一杯食わされていた。
「いいや。畑さんは、まだわかっとらんようだの」
「………?」
 三和土に立ったまま、探るように翁を見つめる。
「仏像とは、人が作った単なる美術品じゃよ。なんら大したものじゃない。どれほど祈ったところで、仏像は何もしてくれん」
(――まっ、確かにね?)
 その意見にはこちらも何ら異論はない。軽く頷いてみせる。





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