「でもそれ、あの人はホントに分かってますかね?」
 何だか小馬鹿にされたようでもあり、虚を突かれたようでもあり。そのうえ上手くやられたような気もして、悔し紛れに思ったまま唇に乗せる。
「イルカか? ようく分かっておるよ、恐らくの。でなければ、あのような暮らしをしている中、彫ろうなどとは思わんじゃろ」
「いやだから。あのギリギリの暮らしだからこそ、そこから抜け出したい、救われたいと思って彫ってるんじゃないですか?」
(あぁもうまったくー、結局全部ゆっちゃったじゃないよ…)
 というか、最後の最後で、また言わなくてもいいことを言わされてしまっていた。気のせいだろうか、またもやこの小さな翁に負けた気がする。

「お主、今のままじゃと、生きにくいと思うがな?」
(や、生きにくいって…、意味分かんないし)
 言葉の意味を測りかねていると、長は傍らにあった藁を三本つまみ上げると、もう片方にあった縄の端と重ね合わせて、両の手の平で擦り合わせ始めた。と、見る間にその藁は均等に捩れていき、しっかりとした一本の荒縄になっていく。
「――覚えて、おきます」
 しかし翁は聞いているのかいないのか。次々と藁を取っては手の中へと足して、良く陽に焼けた乾いた両の手で擦り合わせている。
「この作業は、縄を綯(な)うというての。たかが藁だろうと馬鹿にしたもんでもないぞ? 結構丈夫で、滅多なことでは切れん。こんな風に藁の先なんぞが飛び出して毛羽立っとる所はの、こうして――囲炉裏の火にかざせば――それ、すっかり焼けて、きれいな一本の縄になったじゃろ」
(…………)
 なんだろう、このすっきりしない感じ。払っても払ってもまとわりついてくるような。
「……そうですね」
 話し好きらしい翁には悪いが、その一連の迷宮問答の続きに付き合う気力は、最後まで湧かなかった。

 結局、住所も教えて貰えなかった。取材協力金の送付は不要だという。
「でもそれでは出来上がった本が送れない」と言ってみたが、「村の者達の暮らしなら、本など見んでも分かっておるわい」と、藁を寄り合わせながら事もなげに笑っていた。
 つまりそれは裏を返せば、『オレがどんな記事を書こうが、さしたる興味はない』ということだった。



 車幅ギリギリの急な坂道を延々下り続けると、目の前に川が立ちはだかった。
「っ!」
 登ってきた時には、ヘッドライトに照らして注意深く深さを測ったそこに、全くスピードを落とすことなく真っ直ぐに車を突っ込ませる。車の両脇に、まるで大きな翼のように広がる水飛沫。
(…くっ…!)
 アクセルを踏み込むと、ぬるついた川底の石でタイヤが滑り、右へ左へとハンドルが振られて、車体が大きくジャンプする。
(…くそっ…!)
 それでもアクセルを緩めることだけはしなかった。
 

 帰りは行きの半分近い時間で、目的地へと辿り着いていた。
 ナビも見ず、音楽も聴かず、休憩も取らず、携帯のメッセージ再生もしないまま、まさに高い山から平地まで一気に転がり落ちるような形だった。

 温く澱んだ空気の自宅に帰り着くなり、鍵束をソファに投げる。
 そしてエレベーターの中でもう既に幾つか外していたシャツのボタンを全て外して裸になると、乱暴なほど一杯まで開いた熱いシャワーを、気の済むまで長いこと浴び続けた。




  
五、うそ寒


 初秋の強い陽光が窓ガラスに乱反射する都会の四季は、四、五日不在にした程度では、殆ど何も変わっていないように見えた。
 現地で録音したまま、何も手を付けていないデータが山のように溜まっているうえ、書き出したアクションリストは今すぐにも片づけなくてはいけない緊急レベルのものばかりだ。思わずPCの前で頭を抱えそうになったが、その時の自分は、どういうわけか動いていなかった都会の季節に落胆したと同時に、どこかでホッとしてもいて、夢中で作業に取りかかっていた。

 数日前のあの日、部屋を飛び出していった夕香からも、携帯にメッセージが入っていた。マンションにも来ていたらしく、なぜ無視するのかというメールやメッセージが、携帯のメモリや預かりスペースを相当量食い潰していたが、とても返信する気にはなれなかった。

 山中で色々な人達の家に厄介になっていたせいで、すっかり衣服や髪や肌や持ち物に染みついてしまっていた煙の匂いは、戻ってきてシャワーを浴び、全てクリーニングに出したことで、あっさりと消えて無くなっていた。
 そして更に数日が過ぎ、鞄や小物類に残っていた微かな臭いまでが都会の空気に解けて完全に消えて無くなると、なぜか自分の中に一抹の寂しさのようなものだけが残った。
 
 いつも以上に目まぐるしかった数日がようやく一段落する頃には、ほぼ全身に及んでいた不快な筋肉痛も感じなくなっていて、久し振りにスポーツクラブに行こうという気にもなっていた。
(折角向こうで足腰鍛えたしな)
 以前から定期的に通っていたのだから、今更そんな理由付けが必要だったのかは不明だ。だが、図らずも己の限界を身をもって見せつけられたせいだろうか。行けば行ったで、いつもより遙かに身を入れて臨むことが出来ていた。

 もちろんそれらと平行して、例の雑誌社に出す原稿作成にも取りかかっていた。事前の取り決めで、今回は写真撮影と文章作成がオレの担当だ。それらのレイアウトや、提出した写真の選定権は向こうにある。
 デジカメで撮った数百枚に及ぶ写真を、PCで確認する。高画質のデータが、時系列でずらりとサムネイルで表示されて、暫くその小さな写真を見ていたが、ふとあることに気付いた気がしてマウスを持つ手を止めた。
(ちょと、待てよ…)
 自分が現地でここぞと思って撮ったもののほぼ半分は、あの木地師とその手元だった。もちろん彼の所では作業風景だけでなく暮らしぶりも逐一撮っていたせいで、データ量が多くなっていることは把握していたのだが。
(はぁー…)
 写真の中の彼の手はとても固そうで、陽に焼けて荒れているものの、実に様々な道具を持ち、慣れた様子で数々の作業をいきいきとこなしていた。
(ふ…なんだかねぇ…)
 モニタの前で、顔の半分を手で何度も擦る。指の間から、溜息が漏れていく。
 撮った自分ですら、全く気付いていなかったそれ。
(ぇー…っと…)
 驚いたのは、彼の様々な手の表情だけではなかった。指の隙間から、もう一度モニタを見ると、男が作業をしている写真の中に、時折とても笑顔の魅力的な男が大きく映っていて、数コマおきにくるくると表情を変えていくその様に、またモニタの前で眉を顰め、何度も瞬きを繰り返す。
(えーと……こんなの…撮ったっけ…?)
 目と目の間をつまみながらじっと考える。だがこんなにもはっきり写っているということは撮ったのだ。偶然写り込んだわけがない。
 けれどこれでは、「取材内容からは少し主旨の外れた写真が入っている」と言われても、上手く申し開き出来るかどうか…あぁいや、そんなつもりは毛頭なかったのだから、出したくないデータは出さなければいいだけなのだが…。

(――『考えられるあらゆる方法で人を救おうとする、慈悲の象徴』、か…)
 今夜もまた明け方近くになってベッドに倒れ、瞼を閉じる。と、男の仏像説明など、興味なしとばかりに一切耳など貸していなかったはずが、まるで昨日聞いたみたいにはっきりと耳の奥で甦ってくる。
 ちなみに、持参していたボイスレコーダーの方も、帰ってきてから一通り早回し再生をして聞いてみたのだが。
 酔って眠りかけていた自分が、一体何を口走ったのか気になっていたイビキ宅の部分は、丁度その前辺りで容量が一杯になっていて、最初の一時間程度しか録音出来ていなかった。

(…ったく…なんなんだろ…ね…)
 明け方近く、床について暫くすると、意識の淵に辛うじて掴まっていた両の手が弛みだし、ゆっくりと離れていくような感覚がしだす。珍しく心地よく眠い。

 ――ねぇ…?

 ――木の中から出てくるとかいう、その千手観音ってのはさ…

 やっぱすごく……器用…?

 でもって…

 ――ちょっと頑固だったり…する…?



  * * *



「はァ? 仏像…? 手? やっ、どうって……うーーん?」
「あぁいや、何でもないです、すみません、忘れて下さい」

 インタビュー中に、鋭い質問をぶつけすぎてうっかり相手を熱くさせてしまい『利益偏重主義は善か悪か』という議論を一頻り戦わせたあと、辞去の間際に『つかぬことを伺いますが、仏像の手ってどんな風に見えます?』などと問われたら、誰だって面食らうだろう。
 すぐにIT企業の若き副社長に頭を下げて、逃げるように部屋を後にする。

(――ハーー、しょーがないねぇー)
 高速で階下へと落ちていく四角い小さな箱の中で、一人長息する。
 ここのところ、ちょっと…いやかなりおかしくなっている自分を持て余し気味だ。自分が自覚してるくらいなんだから、周囲の困惑はなおのことだろう。
 そんな時はジムに行くに限ると、最近では日参している。短時間ではあるものの、ちょっときつめのメニューを作って体を動かしていると、頭がカラッポになっていいのだ。思い返してみれば、それまではぬるめのメニューを消化しながら、その間ずっと仕事のことを考えていた。当時はそのことに特に疑問も持たなかったが、実はかなり無駄なことをしていたかもしれない。
 ただ『瞬眠』は得意技の一つだったはずが、最近上手くいかないでいる。明け方になってベッドに入っても、ついあれこれ考えてしまうようになっていた。

(あーあ、6時回ってるし…)
 何度目かの寝返りを打つ。所々に感じる軽い筋肉痛に関しては、むしろ心地いいくらいだ。
 顔を覆っていた手を少し離し、何の気なしに焦点を合わせてみる。
「…………」
 デスクワークしかしないオレの手は、イルカに比べれば確かに荒れてないのだろう。でもそれは、便利で安楽な暮らしの中で、何の苦もなく得られたものでしかない。
 皮肉にもイルカは、そんな者の手を誰よりきれいだと言って、仏像彫刻のモデルに選んでいた。
 彼はまた、「村の者の手を見ても、ごつくて傷だらけでイメージが湧かない」とも言っていた。だがあれは、彼にとって村の者達が余りにも近しい存在だったからではないか、とも思い始めている。
 その点オレなら初めて会ったばかりで、思い入れの欠片もない訳だから、きっとどんなものであれイメージしやすいだろう。
(――まっ…、そういうこと、だーね?)
 目を閉じたまま、枕の中に小さな溜息を吐いた。



 予想以上に悩み、苦労の末書き上げた原稿データを提出後、暫くして担当から初校の見本が届いた。
 結局、鷹匠とその腕に留まるクマタカ天涯号の写真が、当初の予想通り記事のトップを飾る仕様になってはいたものの、脱水で意識を混濁させながらも意地になって撮りに行った「天涯が獲物を捕獲した直後の決定的シーン」は、採用されていなかった。
 編集部曰く「ウチは純粋なネイチャー誌じゃないからね。そこまで詳細である必要がないんだよ」ということなのだが。
(それって要するに「知的でハイセンスを標榜するライフスタイル誌に、剥き出しの生死は不要」ってことなんでしょ?)と、都会の暮らしに戻ったオレは、あっさり理解していた。
 例え数日であれ、深い山中に身を置いて取材をしていた者と、都心の空調の効いたビルの中で日がな過ごし続けていた者との間に、埋めようのない大きな温度差が生まれていたとしても、何ら不思議ではない。
(フ…、むしろ当然のこと、か…)
 実際に現地に行ったせいだろうか。オレは最近、へんに物分かりがいい。





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