だが自宅に戻ってきてから、15回ほど寝付きの悪い朝を過ごしたその日の昼。
 インタビュー中に、ちょっとしたいざこざが起こった。
 相手は初対面のハイテク機器メーカの会長で、事の起こりはいつもの「オレの斬り込みすぎ」だった。
 第一印象でそこそこ腰とテンションの低い若造だと思っていたら、次第に痛い斬り込みをされだして、やがて怒りだしたというパターンだ。
 その時の論題は「ハイテク機器の戦争活用に関する是非」だった。怒ったということは、問われたことに対して図星だったんだろう。だからそれらを上手く記事に出来ればこちらの勝ちだが、出来ないとなると結構な量の後始末だけが残ってしまう。実際こういったことを起こすたびに以前から上司にはしばしば警告を受け、時には謝罪沙汰にもなっていた。それでもオレの首が四年間繋がっていたのは、ひとえに大手経済誌の看板を背負っていたからに過ぎない。
 とにかく、先方と年の差があればあるほどトラブルが起こりやすいことは重々分かっていたのに、なぜかその時だけは、どうしてもその小柄な老翁に「負けたくない」と思ってしまっていた。
 そう、論破したい、ではなく。『負けたくない』と。

 結果、立腹したその会長が出版社に直接抗議の電話をかけ、更なる一悶着を経た末、オレは最近契約したばかりの大手クライアントをひとつ、失った。



(…あーあー…)
 その夜。
 書きかけの原稿を放り出すようにして、ベッドに倒れた。
(…まだ三時半、か)
 ジムではいつもの倍量のメニューを全力でクリアして、随分長いこと頭をカラッポにしたし、体もそれなりに疲れているはずだ。けれど全然眠くない。
(ふ……やーっちゃったーねー)
 フリーになったら諸々の縛りが少なくなる分、いつかはやるだろうなと思っていたし、同僚達からも気を付けろと言われていたけれど、予想以上に早かった。
 そうやってトラブルを起こしてみて初めて、以前三代目が別れ際に言った「今のままでは生きにくいぞ」という言葉も思い出していた。
(立ちはだかるねぇ)
 そんな言葉に惑わされるほど、ヤワでもヒマでもないけれど。
 何だろう、あの頂にある、大きな高い壁は。


 元同僚達からは大いなる嫌味を込めて「正論王子」などと呼ばれているが、「論争」、「激論」、「痛論」などと聞くと、決まってフラッシュバックしてしまう映像がある。
 そこに居るのは、いつも父と母だ。
 国内最王手である大銀行の、欧米支店の立ち上げの総責任者だったオレの父親は、その手腕を買われ、いつの頃からか支店の合併や閉鎖を主に請け負うようになっていた。
 億万人の濡れ手にべっとりと付いていた世界中のバブルが音を立てて次々と弾けていく中、経営母体となる本社が我が身の存続をかけて日々ドラスティックに人やモノを切り捨てだすと、彼は行く先々の取引先や部下達は元より、母親とまで折り合いが悪くなっていった。たまにボロきれのようになって家に帰ってきても、会話の大半を殺気立った口論に費やし続ける。そこで交わされ続けたものは、今思い出しても意見などではない。相手の退路を塞ぐ言葉の乱射であり、相手の懐をいきなり一突きにする刃だ。二人はその武器を手に、いつも一歩も退かなかった。
 当時のその激しいやりとりを、自室の布団の中で目の当たりにした自分が、何をどう感じていたかはなぜか殆ど記憶にない。唯一覚えていることと言えば『父さんと母さんは、それくらいそのやりとりを一秒でも早く終わらせたかったんだ。長引かせたくなかったからに違いない』と、繰り返し思ったことくらいか。

 結局尊敬していた父が、自らが大鉈を振るって統廃合を果たしたビルの屋上から飛び降りたことで、それらの日々に終止符が打たれた格好になった。

『死は一切のものを断ち切る』と書いたのは、この国の作家の誰だったか。
 けれどオレですら窺い知れない自分自身の奥の奥では、今も尚あの諍いの日々が片時も途切れることなく密かに息づいている、そんな気がする。



 例のトラブルの一件から一週間後。
「見本誌が上がった」という連絡があり、校閲のために出向いたオレは「見本誌と取材協力金を持って、例の山村に行ってくるから、今この場で特別に会計をしてくれないか」と申し出ていた。
 その際、三代目が「謝礼も本も不要」と暗に匂わせていたことは、一切口にしなかった。言えば渡りに船とばかり、まずその通りになってしまうだろう。

 その夜オレは、まだところどころ記事抜けや広告空きのある見本誌を三冊と、そこそこいい額の謝礼金を手に帰ってきていた。
 他にも一升瓶や登山靴や本格的なリュックやらを、紙袋一杯に詰め込んで。



  * * *



(――だって、取材の謝礼が振り込めないんだもん、仕方ないじゃない?)
 あれほど『立ちはだかっている』と感じていたものが、ここまで来るといつしか『待ってくれている』に変わっている。勝手なものだ。

「…よしっ!」
 突如目の前に現れた川にも、もう眉一つ動かすことなく、一気に渡りきった。




  
六、小春空


「こんにちは、先月はお世話になりました」
「おお…! これはこれは。よういらした」
 軒一杯にずらりとぶら下がった干し柿のオレンジ色の鮮やかさと、煤けた屋内のこっくりとした飴色のコントラストに、自然と目を凝らしながら入っていくと、小さな翁が素足で板間を歩いてくるのが見えて頭を下げる。

 一日晴れていたにもかかわらず、大気が信じられないほど冷たくて、車から下りた途端慌てて上着を手にしていた。
 囲炉裏にも火が入っているらしく、真っ黒に煤けた天井に向かって細く煙が上がっているが、「これならどんな状況でも絶対大丈夫だろう」と、自信満々で持ってきたダウンジャケットが、屋内に入っても思い切って脱げないくらい冷えている。
 囲炉裏の脇には何十本という竹ひごが長さ毎に並べられていて、側には大小様々な形のざるや竹かごが作りかけの状態で転がされている。若かりし頃は木樵だったはずのこの翁、老いた今でも相当器用らしい。彼一人で、一体何種類の作業がこなせるのだろう。
「本としてはまだ完全なものではないんですが、私が担当していた部分はほぼ出来ましたのでお持ちしました。あとこちら…些少ですが、お約束してました取材協力金です」
 そして「良かったら皆さんで」と一升瓶を添えて、板間に置いた。華美なだけの化粧箱はゴミになるか等とあれこれ考えた末、今回は裸のままだ。
「ほっほっほ、畑さんも相変わらず頑固よの」
 だが目尻に沢山の笑い皺を作っている翁が、差し出したものを手にとる様子はない。従って本には何のコメントもなかったが、不要と言われていたものを何の連絡もせずに勝手に持ってきたのは自分だ。どうこう言う筋合いはない。
 それに今彼が記事を読みだしたなら、また彼の言葉に乗せられて言わなくてもいい余計なことをあれこれ口走ってしまいそうで、むしろ翁がノーリアクションでいたことには、心のどこかでホッとしたくらいだった。

 東京に戻って、暖かな初秋を過ごしていたせいだろうか。あれからひと月経っていないにもかかわらず、再び訪れた村には明らかな冬の気配が漂っていて驚いていた。スタッドレスなんてまだまだ必要ないと思ったから履いてきていないが、失敗だったかもしれない。この気温では、少し予報が外れただけでも谷底行きになりかねない気がする。
「もう、雪は降ったんですか?」
「まだじゃが、――そろそろ来る頃じゃろ」
 まるで知人でも訪ねてくるような言い方に、不思議な説得力を感じる。きっとこの老人の見立ては当たるだろう。
「取材で世話になった人達に挨拶に行きたいのですが」と訊ねてみたが、ハヤテ達はあの山に入ったきりまだ下りてきていないし、アスマは本格的な倒伐期を迎え、一昨日から泊まりで山に入っていると言う。イビキはイビキで今朝猟友会が迎えに来て害獣駆除に駆り出されていて、戻りは夕方遅くになるらしい。

「じゃあ海野さんの所へ行ってきます。帰りにまた寄りますんで」
 翁がわざわざ玄関まで出てきて見送ってくれていた。内心では(あわよくば一番奥の家を覗けるかも…)と期待していたが、敵もサル者。目論みはあっさり外されていた。
 そう、あの謎の家の真相を探るのも、今回の訪問目的の一つだったりする。
「山道は滑るで、気ぃ付けての」
 だがまだ時間はある、諦めない。
「はい」
 ぱんぱんに膨らんだ真新しいリュックを担いだオレは、軽く頭を下げた。


(あーー、でも…やっぱ、ここは…キッツーー…)
 この数週間、自分なりに考えてスポーツクラブで足腰を鍛えてきたつもりだったが、登りだして十分と経たないうちに、両膝に手を付いたまま立ち止まってしまっていた。ダウンジャケットは早くも着ていられなくなっていて、リュックに縛り付けてある。
(足……いってー…)
 悔しいが、最新のハイテクトレーニングマシンをもってしても、枯れ草だらけの山道には太刀打ちできないらしい。
 自宅から持ってきた一リットルのペットボトルから、スポーツドリンクを呷る。今回は粉末も持ってきているから、水分対策は万全だ。
 キンと冷えた山風が巨大な針葉樹の梢を揺らし、その下の葉の落ちきった灌木の間を抜けて、額に滲んできた汗を瞬く間に冷やしていく。息が白い。
(まだまだ…っ)
 今回は、前のように全く知らない山道をただ闇雲に歩いたのとは違う、不思議な充足感のようなものを感じる。
(――行くぞ)
 昔から、目標は高ければ高いほどクリアしたくなるたちだ。


(……っ、だいぶ…、様子が、変わった…ね?)
 ようやくイルカの住む掘っ立て小屋…もとい、住まいのあるフラットな場所に辿り着いたものの、がっくりと頭を垂れたまま、なかなかその場から動けない。
 暫くして、ようやくふくらはぎのきつい張りが治まり、何とか顔を上げたことで、ひと月前とは随分と一帯の印象が違っている事に気付いていた。
 周囲の木々は殆ど葉が落ち、地面は茶色い枯れ葉と針金のようになった枯れ草に覆われている。前に来たときはもっと狭かったはずの空も、今では心許無いほどにただ広く、薄紫色に染まって凍てついている。
 周囲の森から侵食されかかって草ぼうぼうだった畑はそれなりに草が抜かれ、数種類の野菜らしきものが育っていて、その一角だけが周辺に色濃く漂いだしたもの悲しさを和らげている。多分いま自分は、急速に変わっている季節の先端辺りに佇んでいるんだろう。
(――よし)
 世界が急速に暗さを増している中、明かり取りの小さな窓から漏れているオレンジ色の光を目指した。





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