「――こんばんはー」
 突然訪ねたらかなりびっくりするだろうなとは思っていたが、実際目の当たりにしたその余りに率直な驚きように、こちらまで驚かされていた。成人男性でここまで大きく目を見張る奴など、見たことがない。
「あはーー固まってる固まってる」
「…ッ、はいっ! ――やっあのっ、なんで…っ?!」
 この男、眉毛も見ていると面白い。よくこんな風に動くなぁと感心する。
「三代目の所にね、取材協力金を渡しに。あと本の方も九割がた出来たから、寄ってみた」
 到底「寄ってみた」などという気軽な行程ではないのに、ついつい口を突いて出てしまった表現に内心で苦笑う。



「――へぇー…」
「どう、…かな?」
 紙面を見下ろしていたイルカの口から、初めて声が漏れた頃には、オレが二週間かけ、時には脱水で死にそうになりながら書いた特集記事は、既に最終ページを迎えていた。
(ひょっとしたら、突然の訪問と同じくらい驚いてくれるんじゃないだろうか?)と思っていた今回の記事だが、それに関してはすっかり予想が外れていた。
「あの後、あちこち行かれたんですね。俺もイビキさんの話聞きたかったなー」
(や、そうじゃなくてさ…)
 しかしイルカは特に何か質問することも、意見を言うこともなく、ぱらり、ぱらりと、まるで流し読み状態でいともあっさりとページをめくっていく。自身の手元が大きく写っているのを見てもさしたる感慨も湧いてないようで、最後までいたって静かな反応だった。
 むしろ心身を削って作り上げたオレの記事なんかよりも、その前後のビーチリゾート紀行や最新グッズ紹介、星付きレストランなんぞにあからさまに食いついていて、内心少なからずショックを受けていた。素直で分かりやすい男なだけに、こうなった時の痛手は大きい。
 三代目に「自分達のことなら読まなくても分かっている」と言われたことから、内心もしやと思ってはいたが…。
 なんだろう、この敗北感のようなものは。

「…あの、さ、それとこれ。――ホント、大したもんじゃないけど、使えそうだったら」
 内心打ちのめされながらも、リュックの中を探る。かっちりとした紙箱に入った、一見すると高級カステラにも羊羹にも見えるそれのせいで、随分と荷が重くなって肩に食い込んでいた。
 いやもちろん、最初のうちは確かに羊羹とか酒とか、そういうものにしようと思っていたのだ。
 でもある日ふと思いついた「そいつ」が、候補からどうしても外せなくなってしまっていた。何だか考えれば考えるほど、食べ物みたいに一瞬で消えてなくなってしまうものより、そっちの方が遙かにイルカに相応しいような気もしてくる。そしてそいつなら、世話になった村の人達全員に対しても、長い目で見ればお礼になるんじゃないかと、素人なりに思ったのだ、けれど。
「…どっ、どうかな…」
 箱を開いたままの格好でぼんやりしている男に、恐る恐る声を掛ける。
 ひょっとしたら、大ハズシという可能性も多分にある。
(そうなるんなら、やっぱり酒の方が…)と何回迷ったか分からないだけに、イルカの反応が気になった。
「――すごい…」
 だが男は半ば放心した様子で呟くと、たった今息をすることを思い出したみたいに、大きくひとつ深呼吸している。
「こんな高級な砥石、生まれて初めて見ました。どうしたんですか、これ」
「ぇえっと…なんかね、京都のごく限られた山だけでしか採れない、天然の砥石らしいんだけどさ。昔は業者が沢山いたそうだけど、今はもう一軒だけしか掘ってないみたいで、そこから取り寄せてみた。でも質を優先したら形が悪くなっちゃって。やっぱそういうのって研ぎにくい、かな?」
 もちろん直接京都に出向いたわけではない。ネットを経由して直販で買ったのだが、怖ろしく品揃えの充実したそのサイトにはたかが羊羹大の砥石で軽自動車が楽々買えてしまうほどのものから、それこそ羊羹程度の値段のものまで並んでいて、余りの選択肢の多さにモニターの前で途方に暮れてしまっていた。
 それで現地に電話をかけて店主に直接相談をし、ようやく納得のいく一本に絞り込んだのだけれど、予算の都合できれいな直方体になっておらず、角や縁がところどころ不規則に欠けてしまっている。
「そんなの全然関係ないです……って、ぇっ、あの? まさかこれ…?」
 何でも顔に出る男の表情は、笑ってしまうほど明快だ。誰が見ても『今すぐ、何でもいいから研いでみたい!』と読むことの出来るそのリアクションに、湧き上がってくる笑みを噛み殺しながら頷く。
「どうぞ、貰って。そのために持ってきたんだから。それでみんなの使う刃物も研いであげて。でもそのかわり…」
「? …はい?」
 今度はきょとんとした顔をしている。こんな時間にこんな大荷物で訪ねてきたオレが何を言い出そうとしているのか、本気で読めてないらしい。
「一、二泊、ここに泊めて貰える?」
「ぁっ…ええ! ええはい! もちろんです、喜んで!」
 そして勢い込んで「あの早速、研いでみていいですか?」と聞くなり、返事も聞かずに三和土へ真っ直ぐ下りるや下駄をつっかけている。まるで新しい玩具を買って貰った子供だ。
「はいはい、どーぞ」
 オレのことなど、もう視界にも入ってないらしい後ろ姿に答えた。


 イルカが台所に立ったまま「すごいすごい、刃が吸い付くみたいだ…」などと呟きながら、嬉々として鉈を研いでいる。一応自分も客人のつもりだったが、笑ってしまうほどナチュラルに放置状態だ。
 研がれているのは大型の鉈で、先が尖っているその形からすると、あれが前回イビキの言っていた剣鉈というやつなのだろう。確かにあれなら熊ともやりあえそうだ。
 オレも最初は台所でその様子を見ていたけれど、(流石、鮮やかなもんだーね)などと感心していられたのはものの数分だった。水場付近の寒さは、屋外のそれと殆ど変わりない。足元をしんしんと取り巻きだした冷気に早々に降参して、囲炉裏の近くへと舞い戻ってきていた。
 それにしても、映画の中でしか見かけることのないような大型の刃物とイルカは、何だか不似合いな気もする。
 だがイルカは寒々しい格好のまま慣れた手付きで研いでは、ランプの光に翳すようにしてじっと刃先を見つめ、また真剣な顔をしては砥石に向かっている。
(ん、そうね)
 ここは撮っておくべきだな、と思った所ではたと我に返った。
(取材はとっくに終わってるでしょうよ?)
 オレは何を考えてるんだか。

 結局イルカは、寒さに溜まりかねたオレが「ね、囲炉裏の火が消えそうだから、適当に足していい?」と意を決して切り出すまで、何かに魂を奪われたようになって黙々と作業に没頭していた。
 恐らくはそれが、木地師として木と向かい合う時の顔なんだろう。
 あの仏像を彫るときも、そんな顔をしているんだろうか?


「畑さん、そう言えば」
 ようやく研ぐものを鉈から米に変えたイルカが何事かを思い出したように振り返って、彼が研ぎ終わった鉈を気持ちおっかなびっくり囲炉裏端で眺めていたオレは、目線を上げた。
「カカシでいいよ」
 名前に関してはいつ言おうかと思っていたところだ。丁度いい。
「――カカシ、さん。…あの、先日頂いた酒なんですが」
「ああこないだの? まだ残ってるの?」
 朴葉味噌やコウタケとの相性は、なかなかのものだった。今回は砥石を運んでくるので精一杯で、酒まではとても脚力が回らなかったから、また頂けるならちょっと…いやかなり嬉しい。
「はい、大事に漬けてとってあります」
(そう。――ん? 漬けて?)
 だが、土間に降りて流しの下からいそいそと取りだしてきた酒瓶を見た瞬間、手に持っていた鉈を取り落としそうになった。
「っ…ヘビっ?! もしかしてこれってマムシ?! 入れちゃったのー?!」
 思わず声にならない声が上がりそうになるのを、辛うじて呑み込む。
「ええ、そうなんですよ。畑さんが帰った翌日、偶然そこの草むらで見つけたんです。もう冬眠直前だったと思うんですけど、最近じゃ夏でもあんまり見かけないんですよね。丁度滅多にない酒があって、これはきっと何かのご縁だなぁと」
(…ごぇん………そう、なんだ…)
 店内で店主と話をしながら選び、ちゃっかりと分け前まで頂戴した記憶もある、とても見覚えのあるラベルの向こうに、何重にもとぐろを巻いた蛇が三角形の頭を上にした状態で入っている。焦げ茶色の鎖を思わせる紋様が一種独特で、ごくたまに中華街や漢方薬局の店頭や映画なんかで見かけたことはあるものの、そのお飾り的な意味合いのものと目の前のそれとでは、おおよそ衝撃の度合いが違っていた。
「へへー、どうやってこんな風にきれいに浸かったか、分かります?」
「さっ、さあ…どうやってデショ…」
 得意げな様子に、何となく聞いてみたいような、もう勘弁してと言いたいような。そもそも、「酒の中の蛇のとぐろ」をきれいと称する感覚がわからない。
「最初のうちはマムシを別の一升瓶に入れて、そこに毎日少しだけ水を注いでは出すのを繰り返すんです。そうやって毎日表面を洗いながら、数週間かけて体の中のものを全部出させるんですよ。あ、栓は三角のを自分で作ります。丸いのでぴったり蓋をしちゃうと死んでしまうんで」
「…へ、…へえー…」
(あ〜〜もしかしてこの人、まだオレが取材をしてるとか、勘違いしてたりして〜?)
 でも男の得意気な顔を見ていると、早々に話を遮って「もういいから、止めて」とも言い出せそうにない。
「で、全てきれいに出きったところで、頂いたこの酒瓶が登場するわけなんですけど、中身は予め別の容器に移して空にしておくんです。その空になった瓶の口を、マムシの入っている瓶の口にぴったりと付けるんですが、そうすると蛇は低いところから高いところへ自然と移動していきますんで、入りきったところでゆっくり傾けていくと、大抵自分できれいな姿勢になるんです」
「そこに…酒を注ぐ、と…」
「はい。でもよくよく気を付けてないと、瓶の底から鉄砲玉みたいに飛び出してくるんですよね。あれは怖い」
「…………」
 マムシ酒なんてものを最初に考えた奴は、文字通りの酔狂状態だったんじゃないだろうか? あぁ絶対そうだ、酔った勢いで訳も分からずやっちまったに違いない。
「でもすぐには呑めないんですよ。少なくとも一年は待たないと」
「良かったー…」
 脱力。ふうっと肩が落ちていくのがわかる。
「は?」
「ゃ、何でもない」
「――あぁそうだ、良かったらこれ、三年前に漬けたやつなんですが如何です?」
(ッ?!)
 飴色になった酒瓶を視界の端に捉えた途端、反射的に視線を反らしていた。ヤバイ、今なんか見えたっ?!
(いや見てない、見てないでしょ!)
 ごりごりと後頭部を掻きながら、大きく一つ深呼吸をする。両の腕が一瞬で粟立ったのが、見なくても分かった。
「三代目によると、こんなふうにウロコが剥がれだしてからが、最高の呑み頃なんだそうです。風邪なんてお猪口半分ですぐ良くなりますし、蜂刺されにも効くし、打ち身やすり傷も早く治って、とにかくすごいんですよ!」
「あぁいや遠慮しとく! オレ風邪ひいてないし、蜂にも刺されてないから!」
 とりあえず、滞在中に怪我をすることだけは、何としても避けねばならない。
「こいつが無くなる頃、丁度新しいのが飲み頃になりそうで良かった」と本気で喜んでいる男の方を向いたまま、オレは側にあった剣鉈をそろりそろりと隅へ押しやった。





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