その後、もはや何が入っていると言われても驚くことのなくなった鍋を囲み、野外で勢いよく素っ裸になって飛び込んだ風呂から上がると、心地よい疲れと共に大きな欠伸が出た。
 腕時計を見ると、まだ夜半にも届いていない。いつもならこの頃からが一番仕事のノッてくる時間帯だが、今日に限っては電気もガスも電波もないこんな所で、ちろちろと燃えている薪を見つめているのが不思議な気がした。


「オレ、寝袋持ってきたから」
 大きなリュックから、買っただけでまだ一度も広げていなかった登山用の寝袋を取り出す。
「うわあ、きれいな色! いいなぁ。ちょっと見せて下さい」
 外から入ってきた男が、首から提げていたタオルで頭を拭きながらやってきた。渡すとしげしげと、そして物珍しそうに撫でたり眺めたりしている。
「すごく軽くて柔らかいんですね。ハヤテさんの所で見かけて、どんな感じなんだろうとは思ってましたけど」
「じゃ、今夜使ってみる?」
 眠れるほど暖かいかは、正直保証できないのだけれど。
「え、いいんですか? 寝てみたいです。あははっ、やった!」
(はっしゃいじゃってまぁ…)
 こういうハイテク素材モノには興味がないのかと思っていたけれど、意外だった。やっぱりどこか子供みたいだ。
 まぁでも、家主が一晩中火の番をして起きてなくてもいいならそれに越したことはない。そのために買ってきたのだから。


(…っ、さむ…っ!)
 囲炉裏で燃えていた薪を陶器の壺に移して蓋をし、ランプの火をイルカが吹き消してから、どのくらいの時間が経っただろう。
 煎餅布団の隙間という隙間から一斉に冷たい空気が入ってきているみたいで、どうしても寝付けないでいた。それなのに、体の上にもう一人人が乗っているかのようなずっしりとした容赦のない布団の重さが、何とも理不尽というか納得いかない。
 囲炉裏の火が消えると、十分もしないうちにとても室内のものとは思えない冷たい空気が顔に触るようになってきていた。夕食は勧められるまま腹一杯食べたし、熱い風呂にも入れて貰ったけれど、悲しいかな体は冷えていく一方だ。いつぞやの車中泊に比べれば、まだ遙かに条件はいいはずだが、この時期に再訪したのは間違いだったかもしれないという思いが頭から離れていかない。
 それにしても、イルカはこんな煎餅布団でよく眠れているなと感心する。まぁでもこれなら初めての寝袋でもよく眠れているだろう。あぁそれよりだ。自分は明日の朝起きられるだろうか?
 そんなことをグルグル考えながら、手足を縮こまらせて摺り合わせていると、鼻をつままれても分からない真っ暗闇の中で何かががさりと動く気配がして、体を固くした。
「? ――イルカ…?」
「あぁ…カカシさん、良かった、起きてましたか」
「なに、どうしたの?」
「いえ、その………暑くて、眠れなくて」

 その後、オレ達二人は鼻をつままれても分からない暗闇を、手探りしながら板間の上を四つん這いになって移動しあい、互いの寝床を交換したのだが。
「ホントだ、寝袋って結構あったかいんだね? 全然スースーしない」
「あはっ、俺もこっちで丁度いいです。まったく何やってんでしょうね、こんな夜中に……ぶッ…あははは!」
「ハハ、確かに今のは余所様には見せらんないねぇ」
 暗闇でヘラヘラ笑っている自分自身が可笑しくなってきて、そこから更に三割り増しで笑う。

「…ハハーー…あぁそういや…、あのマムシ酒ってさー」
 発作みたいだった笑いがようやくおさまってくると、また馬鹿馬鹿しい質問が頭をもたげてくる。相手が見えないと、5割増しで聞きたい放題だ。
「ええ、はい」
「元気な時に呑んだら、どうなんの?」
「ぶははっ、それはもう冗談じゃなく眠れなくなりますよ。最初にあれを呑み始めた頃って量の加減が分かんなくて、全然元気なのにお猪口一杯いっちゃったら、夜中にいきなり鼻血出ましたもん」
 固い板間に、また明るい笑い声がはねて転がる。
「やっぱ遠慮しとくよー、煩悩の塊になりそうだ」
「ははっ、確かに色んな意味で体に毒です」


(…ホント、…毒だーね)
 板間を四つん這いで移動していた時。
 暗がりでほんの一瞬温かいものに触れた右手を、もう片方の手でそっと掴む。
(寝よっと)

 ぁ、そういやどうでもいい話だけどさ。
 夜の山が怖いなんて、いつ、誰が言ったんだっけ?



* * *



「えっなに、今日仕事しないの?」
「ええ、はい?」
 翌朝。
 一晩おいて味わいの増した、前夜の鍋の残りをすっかり平らげて、(さて、じゃあ改めてイルカの生の仕事ぶりでも見せて貰うとするか…)と、一日のんびりを決め込んでいたオレは、頓狂な声を上げた。
 イルカが羽釜から二つ並べた木製の弁当箱へと、それぞれ白飯を詰め始めている。だがどこかに出掛けるのはいいとしても、その飯の詰め方が尋常でない。
「ね、それってメンパって言うんだっけ。薄い木で出来てるんでしょ? そんなに詰めて壊れない?」
 大体そんなに押し込めたら、おかずを入れる場所が全くないではないか。せめておにぎりにしておくべきだと思うのだが。
「あ、メンパよくご存知ですね。でも大丈夫ですよ、これ俺が作った自信作ですから。汁物入れても漏れません」
 言いながらも、しゃもじで山のように高く盛り上げた飯をぎゅうぎゅう押している。
(ちょっと、あのねー?)
 メンパのフタと本体はほぼ全く同じ形をしていて、幾ら重なり合わせる構造だといっても、この量では絶対にフタが閉まりきらないと思うんだけど? それにおかずは別の箱に入れるとしても、そんなに強く固めてしまったら、食べるとき箸が刺さんないと思うんだけど?
「…で? どこに行くの?」
「へへー、今晩の飯のおかずを探しに、行こうかと」
「ハ? おかずーー?」



(――あーやっぱ重いだけの四角い石ころなんかより、食べられる物を持ってくるべきだったか…)
 前を歩いていく男の、ぎゅっと締まった足首を目で追いながら、一歩一歩急な坂道を登っていく。時折静かな林間に、霜柱を踏み締める大きな音が響く。既に体は熱く火照っていて、厚手の上着は荷物でしかない。冷気が剥き出しの耳や頬を痛くする。吐く息は真っ白だ。
 新調した登山靴は幸いなことに靴擦れもなく、足には合っているらしいものの、もう既に三回ほど滑って転びそうになっている。要するにこれは、自分の選んでいる足場が良くないのだなと、途中からイルカの歩いた場所を辿るようにしてみるが、今度は「よくそこに足が掛かるな?!」と感心するばかりで、もたつく足はなかなか思うようには進んでくれない。
 だが確かに彼の足場選びは正確だった。狭い山道の中を、右へ左へと大股で動くことも多いものの、その場所は不思議なほど崩れない。長い目で見れば、結局その方が疲れないのだろう。道の左右に振れるのが辛い上、崩れた時を考えてしまい、一番手近な足場に不用意に足を乗せては滑る…を繰り返しているオレとはえらい違いだった。
 それにしても、今晩のおかずを取りに行かないといけないほど逼迫した台所状況だったとは。呑気に泊まりに来てしまったことを、今更ながら申し訳なく思う。一体何をおかずにするつもりでいるのかは分からないけれど、まだ歩きだして20分だ。音を上げてはいられない。
「そろそろですよ」
「えっ、もうっ?」
 思わず周囲を見回しながら身構える。何を獲る気なんだろう。銃を持っていないところを見ると、昨日研いでいた鉈で…? でもイルカが手に持っているのは、胸あたりまである長い棒のようなもので、これで一体なにをどうするつもりなのか全く想像が付かないでいる。
「確か、この木の奥だったよなー」
 何千、何万と林立している森の中で、なぜそんなことが分かるのか。とにかくいきなり本道を外れて、びっしりと落ち葉が堆積した明るい灌木林の中へとさっさと下りていきだして慌てる。もちろん道などない。あるのはすっかり葉を落とした枯れ木のような木々と、一面に散り敷いた落ち葉と、ぽっかりと抜けた青い空だけだ。
(これで、帰り道は分かるのか?)
 脳裏を「遭難」の二文字が過ぎる。が、ここに置き去りはもっと困るから、仕方なくついていく。
「っ!」
 でも落ち葉に埋もれた斜面では、イルカの足どりを辿ることが出来ない。早くも立ち木に掴まるのが間に合わず、滑って尻餅をつく。
(ああくそっ!)
 イルカは何で滑らないんだ? 同じ二足歩行なのにと、不思議で悔しくて仕方ない。
「杖を使うと楽になりますよ。作りましょうか?」
 イルカが気配に気付いて振り返っているが、オレだけ三足歩行なんて後免だ。やりたくない。この年でそんな年寄りみたいなことしたくないし。
「いや、大丈夫」と答えて立ち上がる。
 それにしても背中の弁当の重いこと重いこと。昨日持ってきた砥石と同じ重さの弁当箱ってどうよ? 幾ら他に食べる物がないとはいえ、朝食も半ば無理矢理食べてきたんだから、あそこまですることもなかったんでは…。

「あった!」
 と突然、前をゆくイルカの明るい声が、何もない林に響いて駆け寄った。
「えっ、なにどれ?!」
「ほら、これですよ、これ!」
(んん? んんんーー??)
 イルカの指が得意気に指さしていたものは、どう見ても枯れ木に巻き付いたまますっかり黄色く縮んで寒風に揺れている、一本の細い細い蔓だった。
「でも、枯れちゃってる…?」
 何だか切ない気持ちになりながら答える。もう白飯だけだって、腹は十分一杯になるからいいんじゃないだろうか。
「枯れるのを待ってたんですよ。…さてと、じゃあ早速掘りましょうか」
「掘る?」
「ええ。――自然薯って、聞いたことないですか?」


 イルカに渡されるがまま、服の袖の部分に事務員みたいな布のカバーを付け、厚手の皮の手袋をはめる。
 自然薯という名前は聞いたことはあっても、食べたことはない。でも山芋の仲間なんだろうから、街で売られている長芋や大和芋なんかと同じなんじゃないのかと思うのだが、イルカは全然違うと言う。
 彼曰く「手間を掛けて掘っても、芋が小さすぎると意味がないから、なるべく蔓が長くて太いものを夏のうちから探して、目星を付けておく」のだそうだ。そうして実際に掘るのは秋から雪が降り出す直前までがいいらしいのだが、遅ければ遅いほど掘っていても暑くないし、その方が他の植物にも邪魔されずに、作業がやりやすいのだという。
「こいつは多分期待できますよ。蔓が5m近くありますし、茎の太さも7mmはありますからね」
 夏に見つけたとき、より日当たりが良くなるように少し周囲の枝を払って大事に「育てた」のだと胸を張っているが、全くの野生で肥料もやってないような芋が、そんなに美味いとも思えない。ただ、昼食が白飯だけというのは確かに寂しいし、何より勝手に押しかけた身としては、言われたとおりやるしかなく。
「なるべく芋を折らないで取り出したいんで、まずは芋から少し離れた所から掘り始めます」
 こうして芋掘りレクチャーをお願いしている。
「どのくらい掘るの?」
「そうですね、ものによりますけど、大抵は80から130cmくらいかな?」
「ふうん」
 聞いた時は、その程度かと大したことないように思っていた。
 だが土を掘るなどという行為自体が、そもそも20年ぶりだったのだ。その作業が具体的にどういったものなのかすら、すっかり忘れた上でのお気軽な返事だったことを、掘り始めて幾らもしないうちに思い知らされていた。





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