「止めておいた方が、いいと思いますよ」
「どうして? ダメならダメで、理由くらい教えてくれたっていいじゃない?」
 当然、三代目にも聞こえるように言う。親父は息子よりは柔軟で、話が分かる人物であることを祈る。
「…ね、さっきの芋掘り勝負。勝った方の言うこと何でも一つ聞く、だったよね?」
 更に口元に片手を当てて、イルカに小声で耳打ちすると。
「っ、――それ、は…」
 表情だけでなく、全身から困り果てた様子が伝わってきて、(この男、こんな顔もするんだ)と思う。
「でもっ、本当に危険なんです。俺は平気でも、カカシさんは保証できない」
「じゃあイルカと一緒に行くから。それならいいでしょ?」
 どういうわけか、この男をもっと困らせてやりたいような気分になってくると、いよいよぽんぽんと言葉が出てきだす。
「良くないです。何かあってからでは遅いんです」
「ねぇ、それってどういうこと? 一体なんなのよ? 別に今回は取材でも何でもないし、ここで得た情報なら他に漏らさないって約束出来る。何なら一筆書こうか? 法的効力のあるやつ?」
 とその時、外の光を取り込んでいた障子紙一杯に真っ黒が影が映ったかと思うと、横に滑った障子戸の向こうから、腰を屈めるようにしてのっそりと大柄な男が入ってきた。
「アスマさん!」
(あ〜らら。タイミングの悪いこと)
「おう、なんだイルカもか。見たことのある車があるなとは思ったが」
 泊まりで倒伐作業に出ていると言っていたが、丁度帰ってきたところらしい。
「お邪魔してます」と頭を下げると、髭ぼうぼうの熊男は明らかに「またいらぬ事をしに来たんじゃないだろうな?」と言いたげな、不審者を見るような目でオレに一瞥をくれた。


「フン…やっぱりか。――帰れ」
 イルカから状況を聞くなり、アスマがグローブ並みの手を握って、ボキパキいわせている。今時そんな時代がかった威嚇のポーズがまだ生きていたのかと口元に浮かんでき笑いを堪えるが、それすらアスマにしてみれば火に油だろう。
「前にも言ったけどさ、根拠のないルールなんて、ルールじゃないわけ。正当な理由がなきゃ誰も守らない。当然でしょ?」
 むしろこっちとしては、一、二発殴ってくれた方が都合がいいくらいだ。そのほうが、この行き詰まった膠着状況をよほど打開しやすい。
 挑発の意味も込めて、真正面から鳶色の目を見上げた。間に入ったイルカが、あれやこれやと盛んにふっかけ続けているオレでなく、アスマの方を止めようとしているのも何となく気に食わない。いや、どういう訳かその光景を見ているうちに、すっかり心のどこかをねじ曲げてしまっていた。
「ほっほ、まぁいいじゃろ〜」
 と、それまでオレ達のやりとりを黙って見ていた翁が、囲炉裏の向こうから軽やかな声を上げて、一斉に振り向いた。
「三代目!」
「オイオイ、冗談キツイぜ親父」
「構わんよ。そこまで知りたいのであれば、行ってその目で見てくるがいい」
「はい、ありがとうございます」
 突然の形勢逆転に内心で驚きつつも、そそくさと頭を下げる。芋掘りの段階から計画しただけのことはあった。
 ただその後に続いた「そこまでの決意があるなら、後で何があったとしても後悔はせんじゃろ」という言葉に、『ん? それって単なる威し文句じゃなかったのか?』と一瞬訝るが、イルカが平気だというならこっちも大丈夫だろう。
「フッ、いいだろう。せいぜい痛い目に遭って、己の浅はかさを思い知ってこい」
「楽しみだねぇ」
 いまだ躊躇うような表情で老翁の方を見ているイルカの腕を掴んで、「じゃ、宜しく」と促した。


   * * *


(――遅いな…)
 アスマと目配せをして一つ小さく頷いたイルカが、「カカシさんはここで待ってて下さい」と言って、集落から離れた一軒の家に入っていってから、既に5分以上が経っている。隣の男は、もう二本目の煙草に火を付けた。
 自分が立っている所からその家までは、まだ軽く10メートルは離れていて、家の中の様子は全く伺い知れない。しかし庭先にはこの寒さにもかかわらず、何種類かの花が咲いていて、家主は健在らしいことが分かる。
「もしかして、恥ずかしがり屋の人?」
「バーカ。言われるまま外に出ていって大ごとにならないか、中で話し合ってるんだ。黙って待ってろ」
「なに大ごとって? ねぇ、どうもさっきから引っかかってんだけど、その人って――普通の人間じゃないの?」
 言い終わるや否や、凄い勢いで胸ぐらを掴まれた。そのまま有無を言わせずぐいと男の方へ引き寄せられる。こうなるのもかれこれ二度目だが、圧倒的な力の差に為す術もない。
「…ッ?! あぁもうっ、なにす…、…怒るってことは、認めて…るわけ?!」
「もう一回、言ってみろ」
 真っ赤な煙草の火に向かってじりじりと引き寄せられながら、いつ股間に蹴りを入れてやろうかとタイミングを測っていた時だった。
 ガラガラ、という引き戸特有の音がして、二人同時にそちらへと振り向く。そしてイルカに続いて、黒い上着を着た人影が出てきた途端、襟元を締め上げていた手が離れて呼吸が楽になった。
「ったく…」
(野生剥き出しにしやがって…一回駆除されろこのクマ公)
 内心で舌打ちしながら乱れた服をなおし、こちらに近付いてくる人影を目にした時だった。
(――あらま、びっくり)
 ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返していた。これでは流石の暴れ熊も大人しくなるわけだ。
 数歩向こうで立ち止まったその人は、漆黒の長い髪を一つにまとめた、目の醒めるような艶やかな美女だった。


「――はぁシッキ? …あぁ漆器ね? ええ、そりゃもちろん、知ってますけど?」
 夕日紅と名乗った女性が、気持ち不自然な距離を保ったまま「漆器は使ったことがあるか?」と訊ねてきて、「持ってはいないけれど知ってはいる」と答える。
「私はその漆器に使う漆を、山のあちこちに生えている漆の木を巡回して集めて回ってるの。そういう人のことを『掻き子』っていうんだけど、漆ってどうやって掻き採るか、あなた知ってる?」
 女性にしては背が高く、そのせいかとても落ち着きのある声で早速質問されて、イルカはまた随分と上手く状況を伝えてくれたなと感謝する。
「いや、知らない」
 どのくらい知らないかと言うと――漆や漆器は海外では「ジャパン」と呼ばれているくらいだから、以前は上質な製品の産地だったのだろうとは思う。でもとうの昔に安価で便利な代用品なり輸入品に押されてしまって、この国ではそんな手間とコストの掛かることはもうとっくにやらなくなったと思っていた――
 そう率直に言ったところ、大きな瞳と赤い唇が、何度見ても鮮やかな印象の彼女は「あらよく知ってるじゃない。残念だけど、ほんとうにその通りよ」とあっさり首を縦に振っていた。
「そもそも、ウルシって?」
 きっと自分も、それで塗られたもので幾度となく食事はしているのだろう。でもプラスチック製のものと区別が付かなかったり、元々はどういうものなのかすらよく分かってなかったりする。
 「ジャパン」はすぐ近くにあるようでいて、随分と遠い。
「漆っていうのは、漆の木が傷付いた部分を守るために出す樹液ね。だから出はじめは透明だったり白味がかってたりするんだけど、時間を置くと黒く強くなるのよ」
「なるほど。その漆の採集は一年中やってるの? その間、何本くらいを掻く?」
 今回見本誌を持ってきたあの雑誌は、帰る頃には全ての編集作業が終わっていて、印刷機にかかっているはずだ。当然間に合わないと分かっているのに、思いつくままどんどん訊ねてしまう。そんなオレの事を『一種の不安症なんじゃないのか』と嗤った同僚も居たが、そいつもこの業界を去って久しい。
「漆掻きは春から秋ね。夏が最盛期。そうねぇ、年に四百本くらいは掻いて回るかしら」
 この山の中のどこかに点在する四百本の木々の間を毎日歩いて回るというのも、相当な重労働なのではないだろうか。イルカもそうだったが、そもそも何の目印もない山中をよく的確に歩き回れるなと、既にそこからして感心する。
「その手に持ってるのは? 樹液を集める道具?」
 だが木製らしき小さな壺を指さして、よく見ようと近寄ろうとしたところ、後ろから襟首を掴まれて引き戻された。アスマはどうあっても、これ以上余所者を近づけるつもりはないらしい。
(オレは犬じゃない、放せ)と睨み付けるが、どこ吹く風だ。
「そう、このヘラ状のナイフで滲み出てきた樹液を掻き採るの。そして腰に付けたこの壺に集めていく。今年の分はもう全部卸しちゃったから残ってないけど、一本の漆から採れる量は湯飲み半分くらいかしらね」
「ぇなに、一年で?」
「そう、一年で。だって樹液だもの」
 木を出来るだけ弱らせないようにするため、四、五日程度おきながら一センチ間隔で斜めに傷を付けていくのだという。そうして漆が汁となって垂れてきたところを掻き取っていくのだが、とにかく一回に掻ける量はほんの露ほどの僅かなものだ。根気と体力を要する過酷な作業であることは間違いないだろう。
「で、これは私が個人的に使う分。今日掻いてきたのよ。寒くなると少し質が落ちるけど、十分使えるわ」
 漆器と一口で言っても、茶碗を透けるほど極薄に仕上げ、表と裏から漆をたっぷりと塗り重ねていって強く結合させる高級なものから、荒削りが魅力の合鹿椀のように、一度しか漆掛けをしないものまで様々あるという。
 彼女が採集した漆の大半は、イルカが作った椀などと共に業者に卸されるが、この村で使う分の漆器は全て紅が塗っていると聞き、(ああイルカの家にあったあのゴツイ椀ね)と、ようやく具体的な状況が思い描けていた。
「そうか、季節によっても木によっても、質が違ってくるわけね。じゃそれを見分ける方法とかって、あるの?」
「いい漆かどうか? それは舐めれば確認出来るわよ」
 そう言うや、何の躊躇いもなく指先で掬ったそれを、まるで蜂蜜でも舐めるようにして無造作に舌先に乗せている様子に、オレだけでなく一同がギョッとなる。
「ふふふ、掻きたての汁って、とっても甘いのよ。いいものほど甘いわ。砂糖水みたいにね」
 彼女曰く、「大丈夫よ、喉から胃にかけて爛(ただ)れたように熱くなるだけだから」とのことだが、どう考えても「爛れてるけれど、本当に大丈夫か確認出来ないだけ」という気がしてならない。
(うっ…)
 見ているこちらの咽までが、何やらいがらっぽくなってきて、こそりと咳払いをした。

 漆の語源は『潤む』とか『麗しい』からきているそうだが、彼女自身は特に着飾ったり、化粧をしているという訳でもない。なのにその立ち姿は、遠目にもぴったりくる形容詞だなと思う。
 『不用意に近寄ると危ない』という所まで何やら頷けて、なかなか念が入っているなと感心していると、脇から恐ろしくぶしつけな視線を感じた。見ればあの髭面男だ。
(あぁ、なるほど。そういうこと?)
 オレって、そんな節操のない男に見えるのだろうか。
(やー見えてるんだろうねぇ?)
 明らかに強い牽制の意味合いがこもっているその視線を軽くいなして、質問を続けた。


 漆を採取するための道具や、採取してきた漆が大量に保管されている紅の家に行っても何の症状も出ないのは、村ではイルカとアスマだけだという。イルカは子供の頃から山中でうっかりウルシの木に触れても平気だったそうで、紅の所に出入りするようになってからも、免疫が出来るのはとても早かったらしい。
「でもアスマは最初の頃、大変だったのよね」
「るせぇ、普通だ普通」
 アスマは彼女の家の前を通っただけでかぶれ、二年かけてある程度免疫が出来てからも、彼女の出した湯飲みを持っただけで盛大にかぶれたりして、幾十もの大きな水疱が治るまでは仕事も手につかずに随分と難儀したらしい。
(そうか…まさかそんなに酷いことになるとはね…)
 当然のことながら、塗り物で食事をしてかぶれたことはない訳だから、勝手に大したこともないようにイメージしていたけれど、考えてみれば木が自らを守るために直接出した樹液なのだ。木肌に触れるより遙かに濃いかぶれ成分が含まれているのは間違いないだろう。
 今更という気がしないでもないが、にわかに(この距離は果たして大丈夫なのか? ここは風上だろうな…?)などと内心冷や汗が出てくる。





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