「漆の掻き子って、昔からどこの村でも嫌われ者だったみたい。人に迷惑を掛けながら稼いでる、なんて言われてね」
 それについては、彼女の家だけが村落から一軒だけ離れた、しかも一番風下に位置した場所にぽつんと建っていることからも窺い知れた。
「漆の木自体もかなり減ってきてしまってるから、自分の仕事をひた隠してる人も少なくないらしいわ」
(ああなんだ、それで…)
 雑誌に「本漆の木が沢山ある山」などと紹介されてしまったら最後、争奪戦になりかねない。それで三代目が頑なにダメだと言っていたのだなと、ようやく合点していた。

 山中で七年以上生きてきた漆の大木でも、二年続けて樹液を掻かれると満身創痍となり、秋に血のように真っ赤な紅葉を見せたかと思うと、三年目の春を迎えないまま枯れてしまうのだという。
「そうしたら切り倒して、また新しい漆の苗木を植えるの」
 その人は、強かに、麗らかに微笑んだ。



「――まぁ、カブレたらマムシ酒でも塗っとけや」
 結局その場ではオレの身には何も起こらず、紅が家の中へと戻っていくと、アスマが面白く無さそうな声を上げながら、懐から取りだしたものに火を付けた。
「カカシさん、蛇はお嫌いみたいですよ」
 気のせいだろうか。どうもイルカの受け答えにも棘がある気がする。さてはさっきの「お願い」で怒らせてしまったか…。
(ま、そりゃそうか)
 一連のそれは、全て計画的犯行だったと思われても仕方ない。事実そうだし。帰ったら手伝いの一つもしなくては。
「ふっ、蛇なんざ。おおかたサルの遺伝子が強いんだろ」
「ゴリラに言われたかないね!」
 危うく喉元まで出かかったが、これも脳内で返すにとどめておく。確かにこの男に恐いものなどないであろうことは、容易に想像できたから。
 ただ唯一、あの女性を除いては。



「カカシさん、肌何ともないですか?」と幾度となくイルカに聞かれながら再び山道を登り、小さな小屋に帰って風呂から上がると、待ってましたとばかりにいそいそと飯の支度を始めた。昼間食べたはずの大量の白飯は、一体どこに消えたのだろう。もう腹が減って仕方ない。
 最初、手伝う気持ちはあったものの、何をどう手伝えばいいのか全く分からない。暫くは冷たい水をものともせず、慣れた手付きで手早く米を研いでいる後ろ姿を囲炉裏端から眺めていたものの、(こんな時だけ客人然としているのもどうよ?)と立ち上がって、イルカに何をやったらいいのか訊ねていた。
 ランプの灯りの下、沢から引かれてきた水で芋を洗いだすと、すぐに手が奥の方からきいんとしだす。
「うっ、肌に異常あり! 手が痛くてたまんない!」と言ったところ、火吹き竹を手にした男は「それはそういうものですから」と笑った。

 苦労して手に入れた自然薯は、短冊にして酢醤油もいけた。さっき三代目が持っていけと言っていた差し入れの酒が脳裏を過ぎるが、それを犠牲にしてでも知りたいという強い好奇心を最後まで優先したことに悔いはない。
 イルカが年季の入ったおろし金で山芋をすり下ろしだしたものの、芋はどれだけ下ろされようとおろし金にぴったりと貼り付いたまま、頑として下のすり鉢の中に落ちていかない。そのうち芋じゃない、別の物質を見ているような気になってくる。
 その強力な粘りを根気よくだし汁で溶きのばすと「とろろ汁」が完成するわけだが、昼間あんなに圧縮飯を食ったばかりだというのに、どんぶり飯がするすると何杯でも入っていきそうで、いよいよ底なしになってきた己の胃袋が何やら怖くなる。でもとても止められそうにない。

「――あっ、ちょっと待って? 再び肌に異常あり!」
「えッ?!」
 本気で驚いたらしいイルカが振り向くや、大きな椀を持ったオレの手と顔を代わる代わる凝視している。
「なんか、手と口の回りが痒い!」
「たはっ! ――それも、そういうものです」
 オレも山芋類が痒みを引き起こすというのは知識としては知っていた。でもそれをどれほど素手で触っても平気なイルカの手は、一体どういう構造になっているのだろう。一頻り笑いはしたものの、不思議でならない。

 更にその後、すり下ろした真っ白なやつをスプーンですくって作る丸い汁の実を堪能すると、厚かましくも次のメニューまで閃いていた。
「ね、このすり下ろしたやつにさ、ムカゴって言うんだっけ? あの黒い豆みたいなの入れて、焼いてみたら?」
「あぁ! それいいかもですね? いや凄くいいと思います! 焼くってあんまり思いつかなかったけど、それ旨そう! 早速試してみましょう!」
 完成した自然薯ハンバーグはとても旨かった。特にイルカは大喜びで、「雪が降るまでに、あと何回掘りに行けるか」を真剣に数えていたくらいだ。
(それにしても、あのとんでもない重労働の対価が、ものの数分で腹の中へと消えていったとは…)
 だが囲炉裏端で手繰り寄せた昼間の労苦の記憶は、そのどれもがもう既にどこか眩しくくすぐったく。
 今となってはいっそ愉快なほどだった。



   * * *



「――カカシさん?」
 囲炉裏の火が落とされ、ランプの炎が吹き消されたあと、布団に入った男が思い出したように喋り出してきて、耳を澄ます。
「…ん?」
「昼間の芋掘り競争、面白かったです」
 思わぬ言葉に、今まさに落ちかけていた瞼が上がった。
「…あーー…でもほら、資本主義社会の成果至上主義や競争原理にハマッちゃダメだーよ?」
 大袈裟な。というか自分は、それを飯のタネにしてるくせに。
 自分で言っておいて、暗がりで自虐的な笑みが浮かぶ。
「あはっ、俺一人っ子で、兄弟いないんで」
「ん」
「――ありがとう……、ほんとに……ほんとに……楽しかったです…」
 その声はもう既に芯が無く、どこかふわふわとしている。続いて大きなあくび。
 やがて「おやすみなさい」という独り言のような小さな声がして、もぞもぞと布団をかき寄せる音が止むと、次第に外の木々のざわめきが耳につきだした。部屋の空気が下がりだしているのが分かる。

(こっちが、言うべきことなのにね)
 男の方に向いていた体を、ほぼ全身に走る不快な痛みに堪えながら、ゆるゆると返す。
(…おやすみ、か…)
 そんなことを言われたのは、一体何年ぶりだろう。

 ここに来るまでは、もうずっと寝付きが悪かった。疲れているはずなのに、明け方床についてもただベッドに横になったまま、時間だけが過ぎていくこともしばしばだった。そしてそのことがストレスになったりもしていた。
 だが今夜は違った。恐らくは目を閉じたほんの数秒後。何かを思い巡らす間すらなく、今日と明日の境目は速やかに埋まっていった。



   * * *


「――おはよ…」
「おはようございます」
 翌朝も、夜明けと共に始まった軽やかな鳥の声で目を醒ました。弁当のフタ占いは、一応当たったようだ。
 ただ上半身が痛くて堪らない。まさか今日も引き続き地球を掘るのだろうかと恐る恐る訊ねたところ、今日は別の所に行くという。
「え? どこ?」
「へへーこれです、これ」
 イルカが指さした天井方向を見ると、煤けた長い棒が二本、垂木に通すようにして並んでいる。それは竹で作られているとみえ、先に行くほど細くなっている。
「あ、もしかして釣り竿? 釣りに行くの?」
「はい、当たりです」
 彼の父が生前に作ったというその釣り竿は、木地師の製作にしては簡素なものだった。きっと折れたらそれまでという消耗品扱いだったのだろう。
「でもきっと、もう折れませんよ」
「え、なんで?」
「囲炉裏の煙で、もうかれこれ15年近く燻してますから」
「なんで煙で燻すと、折れないの?」
「え? なんでって…? ははっ、なぜなんでしょうねー?」
 逆に訊ねられて、かくんとなる。
「長いこと煙で燻されたものは、何でも凄く丈夫になってますよ。でもそう言えば理由って考えたことなかったなぁー、俺っていつもそんな感じかも?」と、笑いながら弁当箱にガンガン飯を盛っている。今日も極限まで圧縮するつもりらしい。
「――貸して」
 オレはイルカがバカみたいに山に盛った弁当箱を受け取ると、その上から同じ形のフタを被せて床に置いた。そしてそのまま足でぎゅーーーっと一気に踏みつける。
「はい、一丁あがり」
「うはっすげえ! 一瞬だ!」
 しゃもじを手にしたまま、半ば呆気にとられていたイルカも「これはアスマさんに教えてあげなきゃ!」と大笑いしている。
「オレ、あんまり手段選ばないたちなの。次の箱、頂戴」
「はい!」
 これぞファーストフード。文句ある?



「――さ、行くよ!」
 天井から真っ黒に煤けた釣り竿を引っ張り出して、雑巾で一拭きしたオレは振り返った。既に両手は真っ黒だけれど、手を洗う水が冷たいし面倒だからそのままだ。あとで川に行ってから洗う。
「なんかカカシさん、雰囲気変わりました?」
「ん? そう?」
 気のせいか逞しくなった気がすると、出発の用意をしているイルカに言われ、満更悪い気もせずに意気揚々と小屋を後にした。




「つーれーなーいーーー!!」
 向かいの切り立った岩場と川面に声が跳ねて、青い空へと消えていく。渓流の両端には、まだ幾らかの葉を付けた木々が幾重にも生い茂り、透き通った水面の上を赤や黄色や茶色の葉が次々流されていく。
「しっ、カカシさん、声が大きいですよ」
「ご飯にしよう、ゴハン〜」
 まるで絵に描いたような晩秋の風景も、ただ突っ立ったまま一時間も見続けているせいで、すっかり飽きてしまっている。
「できませんよ。まだ一匹も釣れてないじゃないですか」


 延々山を下り、「ここが魚止めです」という十メートルはあろうかという滝を見上げてから、更にその渓流沿いを下ってこの場に辿り着いていた。晴れているとはいえ、川沿いの風は頬に痛みを感じるほどの冷たさで、川の水に汚れていた手を差し入れた瞬間、なんで家で洗ってこなかったのかと本気で後悔していた。向こうなら冷えた手もすぐに囲炉裏で温められたのに。
 しかしこんな冷たい水の中に、本当に魚なんているんだろうか? 釣り糸を垂れている間中、(みんな温かい下流へと流れていってしまってるんじゃ…?)とか、(居たとしても半分朦朧として、餌になど気がつかないんじゃないか?)などと、ただじっとしていることに耐えられずにあれこれ考えてしまう。
 何より足が寒くて堪らない。ダウンジャケットは大正解だが、冷気にさらされ続けている足の冷えまではカバーできない。





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