渓流釣りは、釣りの中でもかなり難しい部類に入ると何かで読んだ気がするが、まさにその通りだった。素人などがいきなり行って釣果を上げられるようなものではないことは、糸を垂らして小一時間もしないうちに骨身に染みて痛感していた。釣れるどころかアタリのアの字もない。
 イルカに言わせれば、「イワナはまだしも、ヤマメはとても警戒心が強いから、極力人の気配をさせてはいけない」のだという。その上で、極細の糸と針に付けた生き餌を、これまた出来るだけ自然に近い状態で目の前にちらつかせてやる必要があると聞いて、相当に難しそうだなと思ったら案の定だった。人が人であることを消せるわけがない。これなら土に埋まっていて動かない芋を探して掘る方が、余程楽だし確実だ。
(今日は時間当たりの利益率の悪さでは群を抜いてるな)
 これが完全なレジャーで、スポーツフィッシングというならまだしも、それで一食分をどうにかしようとするのは間違っているのではないだろうか。
(カイロ、もっと持ってくれば良かった)
 とにかくこの冷気の流れ下っていく中、ただじっと立っていなければならないという状況では、何事かを考えずにはいられない。
 それにしてもカワゲラだっけ? あの気持ちの悪い水中エイリアンみたいなのはなんなの?!
 イルカは「あれにはそのうち羽が生えて、暖かくなると飛んでいく」と言っていたが、川の中の石の裏をヘチマの繊維だというスポンジみたいなのでこすってそれらを掴まえ、指先でつまむと弱ってしまうからと唇でつまんで容器に移動させていて、見た瞬間寒気が3倍増していた。
「ダメダメ、口はムリッ!!」
 なんでわざわざよりにもよって口でやる必要が?!
「んーしょうがないですねぇ。じゃあそっとつまんで、針に引っ掛けて下さい。そーっとですよ?」
 しかし、グロテスクな形に意を決して指でつまんだところ、いきなり大きな顎で噛み付かれて大声を上げていた。
 その際イルカが、「今ので熊も寄りつかなくなったかわりに、魚も逃げたと思う」と苦笑いしたのだが、現在まさにその通りになってしまっているというわけだ。
 ちなみにその生き餌騒動で弱ってしまったのは小さな川虫はなく、でかいなりをした人間様の方だった。それだけは間違いない。
 『逞しくなった』と言っていたイルカの前言も、彼に餌を付けて貰ったことで事実上の撤回状態となっていた。

 そんなわけで、さっきから脳内でぶつぶつと憂さを晴らしているわけだが、なかなかスポーツジムの時のようには頭がカラッポになっていってはくれない。当然か。
 だがついに、東京に帰ってからのアクションリストを思い浮かべていたところ、イルカの腕がぴくっと跳ねて、同時に竿先が川面に向かって大きくしなりだした。
「っ、かかった?!」
 煤けた竹竿がぶるぶると震えている。細いテグスが、蜘蛛の糸のようにキラキラと光りながら右へ左へと動き回り、勢いよく流れ続ける川面へと消えていっている。イルカは声こそ出さないものの、歯を食いしばりながら口端で笑っていて、無理に引っ張りすぎても、また引っ張らなすぎてもいけない魚とのギリギリのやり取りを楽しんでいるように見える。

 やがて、数十秒にも数分にも思えた駆け引きの後。
 何もいないとばかり思っていた暗い淵の底から、30センチはあろうかという金色の影がゆらりと上がってきて、その余りに魚らしくない強い輝きに固唾を呑んで成り行きを見守る。
「うわー…」
 川端まで引き上げられ、再び元気に跳ね回りだした姿を、屈み込んでまじまじ見下ろした。どこもかしこもがきらきら輝いていて、何だか気安く触ってはいけないもののように見える。
「すっご…」
 こんなひっそりとした深い山の川底で、滑らかな体表一杯に規則的に浮いた大小色とりどりの丸い紋様には、一体何の意味があるのだろうか。
「岩魚ですね。ここらでは、この色が多いです」
 イルカの手の中で針を外されて、開いていた大きな口の奥から「グググ」と低い鳴き声が響いてくる。
「岩魚は歯が二重になってて、この大きな口でとにかく何でも食べるんです。木の実でも、到底口に入りそうにないものでも、平気でかかってくんですよね。何年か前、泳いでた蛇を襲ってるとこ見ましたよ」
「へえー」
 こんなに煌びやかで繊細な色形をしていても、意外と獰猛だったりするらしい。にわかには信じられないけれど。
「何を食べてるか、見てみますか」
(え?)
 だが、言葉の意味が分からなかったのは、ほんの一瞬だった。彼の手に握られたものが陽光に光ったと思ったときには、それが金色の腹を一直線に切り割いていた。
「ぁ…」
 まさにあっという間の出来事だった。平らな石の上で、真っ赤なエラと内臓が取り出され、僅かな鮮血と共に詰まっていた白子が別に分けられる。白い袋が裂かれると、砂利や小石に混じって小魚が丸ごと一匹姿を現した。力強く跳ねていた尾びれがぱたりと止まり、次第に口が動かなくなっていく。
「うはっ、共食いしてる。すごいな」
 イルカの声は、いつもと何ら変わらず明るい。その横顔の本質的な部分は、子供の頃から何一つ変わっていない気がした。
「…………」
 なのにオレは、上手く喋れなくなっていた。言葉が何も見つからない。自分が一体何を言いたいのかが、自分でもよく分からないというか。

「――はい、出来ましたよ」
 新しい生き餌を付けて貰って、ようやく「ぁ、うん」と一言だけ発する。
(――――)
 片時も止むことなく流れ下っていく中に、小さな茶色い生き物の付いた針を投じたが、さっきまであれやこれやと頭の中を忙しなく駆け巡っていた雑念は、なぜかすっかり影を潜めて沈黙してしまっていた。



「――おっ、またきましたか!」
 がくん、という大きな衝撃が不意に竿から手へとダイレクトに伝わってきて、思わずぼんやりしていた体を固くする。
 もうこれで三度目のアタリだ。あれからイルカの方には一度もアタリがきていないというのに、なぜかオレの方にばかりくる。
 最初の一匹は、小さなヤマメだった。まだ十センチにも満たない幼魚だったが、なかなか仕掛けが外れなくて焦った挙げ句、イルカに取って貰っていた。そして「これは幾ら何でも小さすぎるよな。うんそうだな、また来年会おうな!」と、イルカの手の中から水の中へと再度浸されて、そいつは薄桃色のきれいなグラデーションをふるふると波打たせながら、水底へと一直線に消えていた。

 二度目のヒットではちょっとした騒ぎになっていた。
 かかったのが、ここの淵の主かナンバー2あたりなんじゃないかというような、実に堂々たる大きさの目映い銀白色をしたイワナで、それにはイルカも驚いていた。
 でも二人で苦労して引き上げたにもかかわらず、イルカはその拳も入りそうなほどの大きな口から仕掛けを外すや、特に名残惜しむ様子もなくあっさりと放流してしまっていた。なんでも「四〇センチを越えるような大きな岩魚は、食べても全然美味しくないから」ということらしいのだが、こっちがイルカのその余りの潔さに呆気にとられているうちに、銀白色の大魚は暗い淵の底へと悠然と消え去っていた。
 そんなことがあった後の、三度目のアタリだ。まるで魚たちに挑まれているような、ともすれば遊ばれているような気分にもなってきて、自然と「くそっ、今度こそは!」という気になっていた。もう釣り上げの要領も掴めてきている。負けてなるものかと、ぐっと腹に力を入れた。

「つっ……釣れた…!」
 水面を尾びれで撫でるようにしながら手前へと引き寄せてきて、30センチほどの丸々とした魚の口から針を外したところで、ようやく詰めていた息と一緒に安堵の声を漏らした。呑み込まれていた釣り針はか細く、イワナの奥の歯が指先に当たって外すのに難儀したが、何ら大袈裟でなく一対一の戦いを制した達成感のようなものがある。

 大きな石の上をタッタッと軽やかに跳んできたイルカが、脇から手元を覗き込んできて、「おっ、いい形じゃないですか」と言っているの聞くと、少なからず誇らしいような気持ちになった。
 だがどんな時でも動きのきびきびしてる男は、「カカシさん、やりますね。俺も負けてられないなぁ、やっぱりポイントを変えるかな?」などと言いながら、あっさりと背を向けている。
(ぁ…)
 高く括られた真っ黒な髪が、跳ねながら遠ざかっていくのを見送ってしまうと、そこから先、まるで川縁に留め置かれたように一歩も動けなくなっていた。
 手の中にある、真ん丸な黒い瞳をじっと見下ろす。筋肉質の滑らかな体が波打ち、盛んに尾びれを振っている。イルカが置いていったナイフなら、すぐそこにある。けれど、どうしても動けない。
「…………」
『お前はオレを、さばけるのか?』
 大きな口が、ぱくぱくしている。

「俺が、殺しましょうか?」
(!)
 ドキリとして、我に返った。小さく息を呑む。
「――…ん、――お願い」
 顔を上げないまま、僅かに頷く。
 戻ってきたイルカが自分の手の中からそろりと魚を抜くようにして持っていくと、ホッとすると同時に何とも言えない気持ちになった。胸の辺りが重たい。

(あは、手が…かじかんじゃった)
 感覚がまるでない白い手の平を、じっと見つめる。冷たくも痛くもない。
(そうなんだ、手が、冷たくて、ね…)
 冷たくて。


 その後、少しずつ糸を垂らす場所を変えながら、オレ達は合計で五匹のイワナを釣り上げた。
 オレは何とか生き餌を手で付けられるようになって、何度も釣り糸を垂らしたが、なぜかこちらにはさっぱり音沙汰がなくなっていた。餌の付け方に問題があったのだろうか? 或いはさっき逃がした連中から、何かしらの情報が回ったとか?
 ただそのかわりに、今度はイルカの方が面白いように釣れだして、当初の予定通り、昼前には昼食の用意に取りかかっていた。

 河原の開けた所で、イルカが火を熾しはじめる。延焼を避けるためにまずは周囲の草をきれいに払い、乾いた流木を集めて焚き火を始めると、ぼんやりと景色を眺めていたオレも竿を置いて薪拾いに歩き回った。
 焚き火というから、漠然と大き目の炎があがる光景を想像していたのだけれど、実は殆ど炎の立たない「おき」の状態が完成なのだという。
「火を立てると、どうしても火の粉が飛んでしまいますから」
 でも意外なことに、おきになった火でも、その温もりには全く遜色がなかった。囲炉裏のそれと同様で、じわじわと芯まで暖かくなってくる。そばに手を翳すなど、熱くて到底無理だ。要するに即席で黒炭を作って、それに火を付けているのだった。
 おき火の回りでは、その辺から切ってきた細い竹を串にして、塩をふった岩魚が焼かれている。イルカによると、「強火の遠火がいい」らしい。一帯に何とも言えない香ばしい香りが漂いだしていて、イルカに言われるがまま、いそいそと魚の焼き面を変えた。





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