おき火の回りに河原の石を積み、腰掛けにする。冷え切っていた足がじんじんと痺れるように温まっていく中、待ちに待ったメンパのフタを開ける。
「あ? ねぇ水滴。ついてるよ」
 昨日は何もなかった蓋の裏一面に、うっすらと水滴が付いていて、昨日茶化したのも忘れてイルカに見せる。
「ホントだ、降るかも」
 イルカも自分のフタを開けて、気持ち眉を曇らせている。
「こんなに晴れてるのに?」
「判断材料の一つにはなります」
 山の天気は変わりやすいとは聞くけれど、にわかには信じ難い。でも、昨日は確かに何も付いていなかった。漆を塗らない木肌はとても調湿性に優れているだろうから、今日だけ水滴…というのも確かに気になる。
「んーー降るとしたら雨にして欲しいな。雪だったら困るなぁ」
「少ないなら雪の方がいいですよ。雨の量が多くなると、下の川が渡れなくなりますから」
「あぁそうか、そりゃまずいやね」
(…ま、降れば降ったで、面白いけど…ね)
 ふと浮かんだそんな思いを、今にも箸が折れるんじゃないかというくらい力任せに取り崩した白飯と共に呑み込んだ。

 イルカがメンパのフタを貸せというので渡したところ、ここの沢に下りてくる際に採っていたキノコや山菜を入れている。
「? なにするの?」
「へへ〜見てて下さい。俺のとっておきです」
 言いながら、焼いていたイワナもほぐして入れている。更に味噌を入れ、汲んであった沢の冷水を注いでるけど、ごめん、正直この寒空ではそれはあんまり食欲がわかないかも…。
 ところが火箸代わりに使っていた二本の竹が、おき火の灰の中から真っ黒でぴかぴかに光った何かを持ち上げている。よく見れば卵大の石ころだ。足元に幾らでも転がっている。
「?」
 そしてふっと息を吹きかけて、付いていた灰を飛ばしたかと思うと、あろうことかその冷たい汁の中に石ころを無造作に放り込んだ。
「うわっ!」
 途端、沢の音を押しのけるように上がったすごい沸騰音に、座っていた石の椅子から転げ落ちそうになる。
「味噌汁?!」
「そうです。やけどしないで下さいよ!」
 二つのメンパの中は、ボコボコとすごい状態だ。「でも中が砂だらけになっているんじゃ?」と言ったら、割れたり崩れたりしない「アブラメ石」というのを選んで入れてあるから大丈夫だという。
 しかしどうぞと手渡されて改めて手に持ってみると、木肌のお陰で熱くはないけれど、見た目が凄い。
「石は入れておいた方が、最後まで熱々でいけますよ」
「うっ…でもかなりキケンなビジュアル…」
 とはいえ今は胃袋が、いや全身が温かいものを欲している。その欲求には到底逆らえそうにない。
「…ぁつっ…! 本当に沸いてる?!」
 噴火みたいな沸騰がおさまった所で、おっかなびっくり口を付けて驚く。本当に熱い、けどウマい!
「ふあぁ〜〜、あったまるなぁ〜!」
 この男、きっとあの五右衛門風呂でも同じ台詞を漏らしてるんだろう。でもその感想には激しく同感だ。
 よく焼いたイワナやキノコからいい出汁が出ているうえ、山菜の歯ごたえもちゃんと残っていて香り高い。
 赤身の部分の桃色が目にも鮮やかなイワナの刺身を、そこで採ったというワサビ付きで出され、(そう言えばさっき言ってなかったな)と「頂きます」と言う。
 四半世紀もの間、何の気なしに言ってきたその言葉の意味を、今日始めて知った気がした。

 昨日のものより更に固さと量の増した白飯を頬張り、熱い味噌汁を啜り、焼きたての大きなイワナを皮ごと頬張る。もう夢中だった。
 周囲の絵葉書になりそうな景色を見ることも、旨いと感嘆の声を上げることも忘れて、オレ達はただ無心に食べた。



「――ああぁ…食ったー…、ご馳走様…」
 美味かった、と言いながら腹の底から深い息を吐く。
 体は芯からカッと火照るように温まっていて、ダウンを羽織ったままだった背中には汗までかいている。ついさっきまで何をどうしようが防ぎようがないと思っていた寒さが嘘のようだ。

「あ、鹿が啼いてる?」
「よく響くんですよね、実はかなり遠くにいるらしいんですけど、すぐ近くにいるように聞こえる」
 腹が一杯になると、ようやく飯以外のことにも話題が及ぶようになる。
「この辺一帯は、あんな風に沢山魚が釣れるんで、昔は「魚封じ」の呪いをかけて、冬の間によその人に釣られてしまわないようにしたらしいですよ」
「魚封じ? まじないって…ぷっ、ちょとそれ本気ー?!」
「もちろんです。至って真面目ですよ。あの村が最盛期を迎えた頃には、初代とか二代目が雪が降る前に毎年封じてたって、三代目が」
 そして海開きとか山開きとかいう行事があるように、春になると川開きをして、呪いを解いて回ったのだという。
「効くかどうかは別として、ま、要するに『ここは俺達の縄張りだぞ!』っていう、余所者に対するデモンストレーションみたいなものなんじゃないの?」
「いや、それが三代目に言わせると、かなり効くらしいんですよ。封じると釣れない」
 でたでた、イルカの『超非科学的・盲信話術』!
「え〜〜、それってただ単に、川の環境が悪くなったりこっそり獲られたりして居なくなっちゃっただけなんじゃないの〜?」
 ああそういや、イルカと最初に会った日の夜にも、これとよく似た全然噛み合ってない議論をしたような。
「や、いるんですよ、ちゃんと魚影が見えてるのに釣れない。この場所もかつてはそうだったみたいです」
「へーーー」
 でも何だろう、あの時とは何かが少しだけ違っている気がする。
(何というか…そういう考えが自分の考えの隣りにあっても……まっ、いいっていうか?)
「唯一術式を知っていた二代目が封じたまま突然亡くなってしまって、数年後に三代目が苦労の末にもう一度開いたそうなんですが、その間は何をどうやっても全く釣れなかったみたいです」
 いやむしろあった方が、ほら、世界はこんなにも楽しい。
「ん〜、それって…オレが思うにね?」
「ぁ、はい?」
 みるみる好奇心の滲んでいく目元に、思わず俯いて足先で石ころを弄ぶ。
(敵わないなぁ…)
 相手を納得させたいなら、何より相手の目を真っ直ぐ見ないといけないのに。これじゃあ説得力もなにもあったもんじゃない。
「その…ね、山の環境は過酷で、その限られた中で生きていかなくちゃいけないじゃない? 過酷だからって今ある資源を全部採り尽くして根絶やしにしちゃ、その先生きていけないわけだし?」
「ええ。イビキさんやアスマさんなら、とり尽くす方法を何通りでも知っていると思います」
「採り尽くさないために自らが生みだした、山の暮らしを豊かにするための、楽しいルールなんじゃないの?」
「ええ、ええはい!」
「でも大自然を甘く見て怪我とかしたら大変だから、なるべく神秘的で、ちょっと怖いくらいのものにして」
 うんうん、と真っ黒な瞳が何度も大きく頷いている。
 それを見ているうちに(あぁ〜『分かり合う』ってのは、意外と簡単で楽しいことなのかもな)とふと思う。
「山に対して、畏怖とか尊敬の念があるからこそ、生まれるんだよね?」
「あははっ、すごいカカシさん!」
 イルカが「なぜかは分かんないけど、頭がスッキリした!」と、うーんと大きく背伸びをしている。
「いや実はね、さっき作った味噌汁にも、山ならではの古い言い伝えがあるんですけど」
「ん、なに?」
「山では、白い飯に味噌汁をかけて食べてはいけないっていうんです」
「はああァ?!」
 ひっくり返った声が枯れ木の間を抜けて、上空へと消えていく。
「それって、どういう理由からきたんでしょうね?」
「ん〜ん〜〜確かにそれは、山に対する畏怖も、尊敬の念も限られた資源の保護も、物の見事に何の関係ないねぇ」
 これにはイルカも「ですよねぇ?」と言いながら、大きな口元を綻ばせている。
「でも、白飯に味噌汁をかけてはいけないけど、味噌汁の中に白飯を入れて食べるならいいって、やる人はやってますけど」
「たはっ、なんなんでしょ、その解釈は?」
 もーわけわかんない。世界って面白いね。
「それくらい、あの味噌汁は美味い! っていうことが言いたいんじゃないの〜?」
「ああそうか! いやきっとそうですよ! そうに違いないです!」
 余りの馬鹿馬鹿しさに、二人で膝を叩いて笑った。
 でもこんな訳の分からない支離滅裂な会話までが成り立ってしまう山の暮らしって、やっぱりそれなりに結構深いのかもしれない。


 笑い声が薄曇りの空に向かって抜けていった頃、聞き慣れない生き物の鳴き声がして、「今のは何?」と聞くとキジだという。
 拾ってきた薪を、気持ち下火になってきたおき火の中に差し入れると、瞬く間に炎が燃え移っていく。
 渓流の流れは速く、絶えず近くで響いているはずなのに、不思議なほど耳につかない。聞こうと意識しないと聞こえないほど、心地いいということか。
 不意に(あー満ち足りてるな…)と感じた瞬間、自分で思っておいて内心で苦笑してしまった。
 家も家財道具も何もないこんな所で「満ち足りてる」って、どうよ?


「カカシさん?」
 呼ばれて、赤々としたものを見下ろしていた顔を上げると、イルカのそれとほぼ同じ高さで目が合った。
「じゃあ…、――生きてるって…、どういうことだと思いますか?」
「ぇ…?」
 突然胸の奥を、直接指先でとん、と突かれた気がした。
「生きてるってことですよ。俺達のこれは…この状態っていうのは、一体どういうことなんですかね?」
 もう一度訊かれる。今度は軽く両の手を広げながら。
(どっ…、どういうって…?)
 咄嗟に返答出来なくて、無造作に頬や顎の辺りを撫で回す。けれど指先から伝わってくるのは、無精をしていた時のあのざらざらとした馴染みの感触だけだ。
「ん〜〜??」
「俺には、どう考えても分からないんです。――子供の時からずっと、捕まえたトンボや、釣った魚や、畑や山で毎年のように育っては枯れていく緑を見ては考えているんですけど、生きてるっていうのがどういうことなのか、分からないんです」
 イルカのその姿は、ともすると底の抜けた手の中のバケツを、「なぜだろう、水が入らない」といいながらひたすら覗いているようでもある。
 ふと(生きているということが分からないのに、千手観音などというものを彫ってるのか?)という問いかけが脳裏を横切ったが、(いや、分からないからこそなのか?)と思い直してまた口を噤んだ。正直、そういう観念的なことを考えるのは苦手だ。
(アンタが…アンタが分かんないんじゃ…)
 オレなんかが分かるわけ、ないじゃない。

「例えば、さ」
「はい」
「誰かが死んだら、分かるとか?」
「―――…」

 ようやく思いついて口にしたその時は、結構的を射たいい答えをしたように思っていた。
 だが「雲行きが怪しくなってきましたね、そろそろ帰りましょうか」と言われ、火の後始末をして山道を登りだした辺りから、(そんなことでは分からない)という思いが強くなりだしていた。
 来るときは楽だった険しい山道を、今度は延々登りながら、(いっそ親しいつてでも頼って、生命科学辺りをやってる研究者にでも解説して貰おうか?)まで考える。が、すぐに(いや、それでは納得出来ないな)と打ち消していた。
 違う、そういうんじゃない。

 結局その問いに関しては何一つ解決しないまま、心の片隅に残り続けることになった。
 ただ唯一、その時朧気ながらわかったことといえば、「イルカと出会う前のオレなら、研究者の解説であっさり納得したんだろうな」ということだけだった。




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