イルカの家に辿り着く10分ほど前から降り出した雨が、まるで渓流の水音の続きみたいに、サラサラと世界を包んでいる。弁当箱のフタ恐るべしだ。

「――そういえばさ、あのナントカっていう仏像って、どうなったの?」
 首に掛けていたタオルで濡れた頭を拭きながら、囲炉裏の火を熾していた男に訊ねる。雨に打たれたのが十分程度で良かった。それ以上あたっていたら、どうなっていたか分からない。マッチを擦っているイルカの手も白く、心なしか震えている。
「…ぁ」
「もう、出来た?」
 来たときから…いや来る前から何となく気にはなっていた。でもイルカが何も言い出さないことから、一緒になって忘れたふりをしていた。だから全く興味が全くなかった、と言えば嘘になる。
 仏像の名前ならちゃんと覚えている。なのにここにきても尚、少々頭の悪い言い方になってしまったのは、やはり最後の最後でどうしても何かしらの意地を張りたくなったからだろう。オレはまだ、どうも宗教的なものに抵抗がある。
「すみません、本当はすぐにでもお見せすべきだったんですが」
 オレが宗教アレルギーなことには、イルカも気付いていたらしい。彼なりに気を遣ってくれていたのかもしれないと、彼に見せられた思わぬ気遣いに少し恥ずかしくなった。
 
「でも実はまだ、殆ど進んでなくて…」と言いながら、奥の部屋から持ってきた布包みが開かれたのを見て、(あぁそうか、これが本職じゃないんだものな…)と思った。
 ランプの灯りに浮かんだそれは、四角柱の表面に何本も走った墨が、ようやく幾らか消え始めているといった状態で、もちろん千の手などどこにもない。
 そう、オレは分かっていたようでいて、全然分かっていなかった。きっと男は、こういった仏像を、早く沢山そして完璧に彫り上げることが目的ではないのだ。恐らくは今のお世辞にも便利とは言えない多忙な暮らしを淡々と続けていく中で、その日の気分や時間に任せて彫り進め、何年か後にふと気付いたら「ああそれなりに形になってきたじゃないか」というようなものを目指しているのではないだろうか。
(彫ってあるのも証しなら、彫ってないのもまた、証し…、か…)

「…あぁ、そういや千手観音て、男? 女?」
 四角柱を見下ろしながら、束の間ぼんやりしていた頭を上げる。
「菩薩様には男女の区別はありません。でも如来様の王子時代のお姿ということで、どちらかと言えば男性的に作ってあるものが多いです」
「そう…」
 それでこの人は、どっちにするつもりなんだろう。興味は…まぁ、全く無いと言ったら嘘だけど、今は何となく切り出せそうにない。


「カカシさん」
 ん、と再び囲炉裏の火から目線を上げる。
 窓の外は垂れ込めた雲で一面灰色がかり、室内はもう殆ど夜のそれだ。
「今度は俺が質問しても、いいですか?」
「もちろん、いいけど?」
 何を聞かれるんだろう。昼間の事もあり、内心で僅かに身構える
「カカシさんは、何でその…書く、仕事……ライター? になろうと思ったんですか?」
「んーーー」
(なんでだっけ…)
 まだ眠いという感覚は全くないが、どういうわけかその問いに答えるのが少し億劫だった。
(なぜって…)
 その理由をあれこれ探していると、どうしても過去へと時間が遡っていくから。
「――ま、多分、読むことと、書くことが好きだったから、じゃない?」
 適当に答えたが、まるっきり嘘でもない、と思う。
 死んだ父親は、ずば抜けて優秀な銀行マンだったが、無類の読書好きでもあった。お陰でどの国のどの都市に引っ越しても、テレビと小遣いには厳しい制限があったものの、本だけは好きなだけ無制限に買って貰えていた。何度越しても家はすぐに積み上がっていく本で足の踏み場が無くなっていったし、恐らくその分会話も削られていたとは思うけれど、それを不自由だと感じたことはなかった。父が不在の間に書斎に忍び込んで、彼が読んだと思しき本を分からないなりにも読むと、本人と何かしらの会話をしたみたいで、読後には何かが少しだけ通じ合ったような気がした。
 ただ父は、どんなに忙しい合間にも…いやむしろ、忙しくなればなるほどそうやって頁を追いかけ、浴びるように活字を取り込んでいたにも関わらず、それを少しもアウトプットするということがなかった。とても記憶力の良い男で、情報の蓄積量は信じがたいものだったのに、ただひたすら蓄積していくばかりで、何らかの形に再構築して出すということがなかった。
 だからオレは、書くことにした。
 書いて書いて、書きまくって、何かを残す。



 冷え切っていた体が熱めの風呂で温まったところで、夕食の準備に取りかかる。
「? なんですか?」
 水場にいたイルカが振り返った際、オレの視線に気付いて心持ち笑顔を見せている。
「や、人が米を研いでる姿って、いいなぁと思って」
 囲炉裏端で、思ったままを答える。
 確かハヤテの所で泊まった時も、そんな風に思った記憶がある。黙って米を研ぐ彼の細い手首が、妙に印象的だった。
「んー? そう、ですかね?」
 イルカが盛んに首を傾げている。この男にとっては取り立ててなんということもない、食べるためのありふれた日常なんだろう。「どうしてそう思うんですか?」と、不思議そうな顔をして答えを待っている。
「なんとなくだけどね、『あーオレにも明日があるんだな』って、思える」
「ぇ」
「ホントはそんな保証、どこにもないのにね」
 続けてすぐ「なんででしょ」と言って立ち上がり、濡れた服を囲炉裏のまわりに張られたロープに干していく。囲炉裏端は、床付近よりもこうした上の方が暖かい。明日には全て乾いているだろう。
 暫くして「…そうですね」という返事が、ぽつりと背中で聞こえた。


 持ち帰ってきた二匹のイワナをどう料理するの? と聞いたところ、男は「いや、料理なんてそんな凝ったことはしません」ときっぱり言い切っていたが、それは謙遜でも誇張でも何でもなかった。それでも敢えて料理という言葉を使うとするなら「男の料理」というやつだ。
 だが、川端でカリッと焼いてあった香り高い塩イワナを漬け物と一緒にお茶漬けにしたり、味噌を塗ってキノコと一緒にフキの葉で包んで蒸し焼きにするだけで、なんでこうもするすると入るようになるのか……謎だ。


 夕食の後、片付けを済ませたイルカに「仏像、彫らないの?」と静かに訊ねた。
「ぇっ…でも…」
「仕事でも何でも、もしやることあるなら気にしないでやって? オレここで見てるから」
 いや、見たいからと言うと、イルカは少し驚いたような嬉しいような照れ臭そうな、何とも言えない顔をしながら、「ありがとうございます」と答えた。

 雨音は一時強くなったものの、気付いた時にはすっかり静まりかえっていた。黙っていると、薪の燃える微かな音と、イルカが持った鑿が木肌を削っていく音しかしない。
 イルカは墨付けのされた角材を胡座をかいた膝の上に置き、まるで小さな子供を抱くような格好で少しずつ彫り進めている。オレのことなど、彫り始めて三分もしないうちに視界に入らなくなったのではないだろうか。
 とはいえ、削っている手付きから削った木屑を払う仕草に至るまで如何にも職人らしく、一連の作業は見ていて飽きない。
 けれど、でも。

「――ねぇ」
「あっ、はい?」
 ついと上がった男の顔を見て、(相変わらず表情の落差が大きい男だな…)、などと思う。
「集中してるとこ、悪いんだけど」
「いえ?」
「昨日今日で結構疲れちゃったみたいなんだけど、筋肉痛とかも結構キてるんだけど、――あのマムシ酒、ちょっと貰っていい?」
「あはっ、そうですか! どうぞ、どうぞ!」
 だが、すぐさま鑿を置いた男がいそいそと「そいつ」を取りだしてきたのを改めて直視した瞬間、自分が無用の好奇心からとんでもない気紛れを起こしていたことに気付いた。嗚呼でも、今更。

「…ッ?! くっ……さ?!」
 十分警戒しながらも恐る恐る口を近づけた途端、猪口から勢いよく立ち上ってきた、恐ろしい匂いにも打ちのめされていた。生臭いなんてもんじゃない。己の中のごく真っ当な生存本能が、両の腕を一瞬で粟立たせる。
「ッ! ちょとホントにこれ、飲むの…ッ?!」
 自分から飲みたいと言いだしておいて何だが、引き返せるものならばそうすべきだろう。
「ええ、一気にどうぞ」
 しかし、その満面の笑顔に対抗する術を、悔しいけれどオレは知らない。


(――ッ、水…みず…ミズ〜〜…!!)
 かくしてペットボトルのスポーツドリンクを一気したことでようやく一息ついたわけだが、自分は一体何がしたかったんだろう?
 しかも幾ら待っても期待していたような何かしらの薬効が現れる気配はなく、結局「飲む前よりも遙かにぐったりしてる」とイルカに笑われただけのような気がしないでもない。



 それにしても静かだ。また一本、乾いた薪を囲炉裏にくべる。イルカが木を削る音が耳に心地いい。いつ眠くなってきてもいいように、少し前から寝袋に入ってはいるものの、イルカとその手元を交互に見ていると、かえって目が冴えてくるような気さえする。
(ん? これはあれか? 毒蛇のパワー?)

 いつまでも馬鹿なことを考えている場合か…と視線を移して、手前の囲炉裏で揺れる炎を見る。
 そう言えば、イビキもハヤテもゲンマも、そして三代目も皆、じっと火を見ていた。
 なぜだろう、どうして人は、燃える火を黙って見つめ続けてしまうんだろう。
 薪をくべながら、つらつらと考えた。




「――カカシさん、起きて。カカシさん!」
「?!」
 突然耳に飛び込んできた声と同時に体を揺すられて、温かな袋の中で手足を強張らせる。
「カカシさん、降ってますよ」
 だが、続いた男の声音に、まだ朦朧として訳が分かってないなりにも、それが良くないことだと遠くで察知する。
「…ぇ…、は…? ぅそ…?」
(もしかして…?)
 しょぼしょぼする目を、瞬きでこじ開ける。
「雪が、降ってます」
「げ」
 いよいよ目が醒めていた。




        TOP    書庫    <<   >>