「色々、ありがとね」
「カカシさんも、お元気で」

 言った男の黒髪に、白いものが次々落ちては溶けていく。
 明け方から舞うようにして降りだした雪は、その後時間と共に大粒のみぞれへと変わっていき、急な下り坂の運転を危ぶんでいたオレの背中を押し始めていた。加えて、イルカと三代目が「もう行った方がいい」と口を揃えるに至ると、オレがこの山に留まり続ける理由など、もうどこにもなかった。


「じゃ、また」
「――はい」
 運転席のパワーウィンドが上がっていく。
 イルカもいよいよあの小屋を閉めて、三代目の所で過ごす用意を始めるらしい。毎年雪は深く、一旦小屋を出ると、春の雪解けまでは近寄ることすら難しくなるのだという。


 長い坂道を下っていく間中、ワイパーはフロントガラスのみぞれを繰り返し払い続けていた。
 だが一時間後に下の町に下りきった頃には、すっかり雨に変わっていて、「いよいよこの山も眠るか…」と呟くように言った村長の言葉だけが、長く耳の奥に残った。



   * * *



 都心へと下っていく道すがら、ガラガラの高速道路を運転しながら、暇に任せて思いつくままつらつらと色々なことを考えた。
(ひょっとすると、今までIT業界で鳴らしていたつもりだったオレは、決して弾の飛んでこない場所に立って、訳知り顔で狭い世界を見渡していただけなんじゃないだろうか…)とか。
 渓流釣りをした時、自分で釣り上げた魚をどうすることも出来なくて、イルカが「俺が殺しましょうか?」と魚を持っていったけれど、背後で彼がナイフを置いた音がするまで、繰り返し心の中で「手がかじかんでいたから」などと呟いていたこととか。
(ったく…)
 イワナのことを思い出すに至ると、なぜそんな独り言を繰り返していたのかと失笑してしまう。
(――いや、違うだろ)
 きっと必要だから念じたのだ。
 守りたいからやったのだ。
『今の自分のままで』いるために。




 東京に帰ったオレは、やりかけだった幾つかの原稿を書き上げ、受けていた仕事を全て終えるのと平行して、「お得意さん」達から次々入ってくる依頼を全て断った。その中には今までになく大きな仕事もあったが、大きな企画ほど上げるのにも時間がかかる。今回は多少後ろ髪を引かれつつも、全て見送っていた。
 更に、保有していた株式の大半を売った。以前なら例え締め切り日で追い込まれていたとしても、一日たりとも欠かすことなくその推移を逐一見守り続け、多いときには日に何度も売買を繰り返すような、いわゆるデイトレーダーだった。生き物のように動き続ける巨大市場を分析して渡り合うのは、自分を試すいい機会と捉えていた。けれどここ最近はPCの前に居るにもかかわらず、なぜかチャートを見ることすら失念してしまうような有様だったから、潮時だったのだろう。
 一旦乗り遅れると、経済の流れは驚くほど速い。いつの間にかかなりの損が出ているものもあったが、その幾つかを除いたほぼ全ての銘柄を売却していた。いや、最初は持ち株全てを売るつもりでいたのだ。だが幾度か「売り」のボタンをクリックしているうちに、大きな損の出ている銘柄については自身への戒めとして、敢えて塩漬けにして保有し続けることにしていた。
 そうして最後に、以前だったらとても耐えられそうにないはずの、赤字ばかりで示された散々な状況のポートフォリオと対面したのだが、不思議と悪い気はしなかった。むしろ何かが肩から下りたようでもあり、すっきりしたくらいだ。
 やっと丸裸の自分と向き合えた。
 多分、そういうことなんだろう。


 そんなことをしてまで敢えて利益確定をして、その臨時金で一体何をしていたかというと、小さな島国を出て、久し振りに海外取材に出ていた。
 何気なく手に取って読んでいた経済紙の片隅に『推進力の補助として、巨大な凧に船を引かせるというアイデアが、実験段階に入った』という記事を見つけて、率直に面白そうだなと思い立ったのだ。
 実際、こいつの取材はなかなか面白かった。常に強い風が吹いているという、高度300メートルの所に揚げられた160平米もの巨大な凧が風をはらむと、大西洋の真っ直中に浮かんだ巨大な貨物船が面白いように水面を滑っていくのだ。
 ただ取材にかかった費用の全ては持ち出しで、今のところ掲載しようという出版社も見つかっていないのだが…。
 まあ最悪お蔵入りになったとしても構いはしない。最初からこの手のネタの持ち込みは厳しいだろうと予想はしていた。
 春になったらあの山に行って、そこで一人暮らす男に、彼の知らない世界の話をして聞かせられたらそれで満足なのだ。


 大西洋を横断している間、他に全く何の収穫もなかったのかといえば、そんなことはない。船内では実験を繰り返す技術者以外にも、暇にまかせて多様な国籍を持つ乗組員達に次々と話しを聞いて回っていた。
 外国籍の船内は、人種のるつぼだ。しかも皆、幾つもの港を回るなどして様々な経験を経てきている。また例え陸では国境を巡って何十年にもわたっていがみ合っている犬猿の仲だったとしても、広大な海の上では意外と友好的で、毎晩のように酒を酌み交わしていたりする。
 その中で最も興味を惹かれたのが、中東のとある小国から来たという男の話だった。彼の母国は長いこと周辺国から侵略を受け続け、更に今日に至るまで数十年もの間内紛も続いていて、250万もの人々が貧困のどん底で飢餓に喘いでいるという。

「主食は? 小麦なんでしょ? いま食料はどうしてるの? そんなに内戦が続いてるようじゃ、自給も難しいんじゃない? 輸入?」
「ああ。村の爺様達に言わせりゃ、昔はどの村にも一面の小麦畑が広がってたとかいうけど、今の状況じゃ麦なんざ夢のまた夢だ」
 そのよく陽に焼けた黒髪の男は、最初のうち随分とかしこまって話をしていたが、実はオレが同い年だったと知るや、急に心安く打ち解けてきて、熱心に故郷の窮状を話し出した。彼曰く、アラビア圏では年を重ねた年長者の意見は絶対で、敬うべき対象なのだという。
「ゃちょっとなんで。オレのどこが年長者よ」
「だって頭真っ白じゃねぇか。紛らわしい」
(はぁ…そこなわけ)
 当然のことながら、彼とは身に馴染んだ文化が全く異なっていた。例えどれだけ取材が白熱していても、祈りの時間だと言ってはあっさり部屋を出て行く。ならばと「食事でもしながら」と誘っても酒は厳しく制限されているとかで、なかなかいつものようには話が進まない。
 けれど今は、かえってそのことが自身の好奇心を掻き立てている気がした。また自国の疲弊を心の底から嘆き、本気で未来を憂えて何とかしたいと思っている男の話は、幾ら聞いても興味が尽きない。これまで父の転居に伴って、幾つもの先進国の大都市で暮らしてきたが、インドア派で本が好きだったせいか、どこで暮らしてもその土地の文化といったものにはさしたる興味も湧かなかった。
 その頃のオレは、心のどこかで漠然と思っていたのだ。
 いずれどんな国も、自国の文化と引き替えにしながら経済発展をして、どこもみな似たような街並になっていくのだろうと。
 これまで経済発展の前に、独裁者が立ちはだかったことはあっても、文化が立ちはだかって邪魔をした事は無い。例えどれほど悠久の歴史を紡いできたとしても、豊かになりたいと願う者達の経済活動の前に、文化歴史は無力だ。
 以前は、『ビジネスの関係でも、双方の間に横たわる諸々のギャップは、なくせるものならなくしたほうがいい』と思っていた。何より無駄がない。
 経済は大きく回ってこそだ。そのルールを世界共通にすればもっとずっと発展する。そう信じて疑わなかったはずなのに。
 
「お前のその若さでそこまで祖国を思う者は、自分の国にはいないだろう」と言うと、男は如何にも腑に落ちないといった顔をした。
 彼は自国に治安名目で駐留し続けている、欧米の多国籍軍を嫌っていた。中でも多国籍軍の中のリーダー格である一番の超大国を激しく敵視していた。彼らは表向きは農業用の小麦なども援助してくれているものの、その小麦を蒔いても一向に実がならないのだという。
「連中は種をくれてやりさえすれば、後は自分達で何とかするだろうと思ってる。けどこの国に、たっぷり水がないと育たない種類の麦なんか寄越したって意味ねぇんだ」
(なるほど。そこにも大国の思惑が絡んでると)
 恐らくは穀物メジャー辺りが一枚噛んでいる、支援プロジェクトなのだろう。撤退が長引いて、毎年多額の国防費を計上している国が考えそうなことだ。
「じゃなんで昔はよく育ってたの? あぁ、灌漑施設ね? 戦争で壊れたんだ?」
「それも大いにある。けど、残り半分はそんな理由じゃねぇ。元々あの土地で実ってたのは、水が少なくても育つ、あの土地の気候に合った麦だったのさ」
 しかし、その在来種の麦はもうとうの昔に食べ尽くしてしまって今はどこの村にもなく、仕方なく輸入小麦を買って食べているらしい。輸入小麦は安い。自分達が苦労して作るより、ずっと安い。するとますます農業を放棄する者は増える一方で、農地は年々荒れ地に変わっていくばかりだという。
(なるほど。そのループについては、どこかの国でも聞いたことのあるような話だな)
「でも村人がその小麦を買うお金は、どうやって? 何か他に産業でもあるの?」
 だがもはやそこまでくると、訊ねながらも答えはそう幾つも無いように思えた。世界はいまだにこれほどまでに多様性があるというのに、貧しい国の貧しい人々が辿る道については、最終的にどの国も殆ど同じところに行き着くのはなぜだろう。
 思えば常に経済の先端を追いかけ、分析して書くことを生業にしていたが、その逆…つまり貧困については、一度もきちんと考えたことがなかったなとふと思う。
 と、それまで勢い込んで話していた男の横顔が俯いたかと思うと、みるみる曇りだした。
「…ケシ栽培だ」
(――やっぱり、ね…)
 ごく短く「そうか」とだけ答えると、胸ポケットに入れていた手帳を取り出して、スケジュールをざっと眺めた。
(ま、何とでもなるでしょ)
 出立前に殆どの仕事を断ったお陰で、図らずも思った以上に自由がきくようになっていた。わざわざ確認するまでもないようなものだが、心を決めるため、自分なりの儀式をしたかったのかもしれない。
 やがて(浮ついていて賑やかしいだけの年末年始を、敢えてあの国で過ごす必要もないしな)と結論づけると、あっさり心は決まっていた。
「明日、船が港に着いたらさ、一旦日本に帰るけど、そのあとあんたの村に取材に行ってもいいか?」
「…あァ? ――あぁ、いいぜ。歓迎する」
 オビトと名乗るその男は嬉しそうに笑い――そして、自爆テロに巻き込まれた際に傷付いたという顔を、何度も大きく頷かせた。




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