「―――…」
「? どうしたよ」
「…あぁぃゃ、…なんでもない」

 平穏無事な場所に、己の飯の種は落ちていない。
 そう考えて、敢えてより難しい方向に舵を切った自覚はあるが、いざ数人の同行者と共にその地に降り立った途端、言葉をなくして立ち尽くしていた。

「だから言っただろ、何も無いって」
 すぐ隣りに立った男の声が、強い北風に飛ばされるようにして聞こえてくる。
「――あぁ」
 しかし、ここまでとも思っていなかった。PCの画面に映し出されていた現地付近とされる画像の数々も、所詮過去のちっぽけないちデータに過ぎなかった。
 本当に、見渡す限り、目の届く範囲には何も無かった。外国人記者の取材ということで、わざわざ何も無い場所を選んで連れてきたのではとも思ったが、すぐ後ろには彼の帰りを手放しで喜んでいる家族と、砂埃にまみれた小さな日干し煉瓦の家、そして身を寄せ合うように建つ幾ばくかの集落があった。
 そのすっかり景色に溶け込んでいるような人家から少し視線を動かすと、再びその先は漠とした荒れ地へと変わって、遠くに山の稜線が白く見えているだけになる。一点の雲もない、やたらと広く見える空だけが、異様なまでにくっきりと青い。
 いや、これでも空港から一時間ほどの市街地を抜けるまでの間は、とんでもない数の車と人でごった返していて、その賑わいに少なからず驚いていたのだ。
 農作物の大半は大きな麻袋に入れられ、空の下で売られている。肉屋では軒先に丸々一頭が吊されていて、そこから直接切り取られていくらしい。自分が子供の頃走っていたはずの車が、ここの国では堂々現役だ。その脇を、重そうな荷物を積んだ家畜がのったりと歩いている。
 大きな交差点には信号もあり、動いてもいた。ただそのどれもが余りに多すぎる交通量に、意味をなしていなかっただけだ。警察に当たる組織もあるらしいが、頻発するテロの前に殆ど機能していないという。
 いつ終わるともしれない渋滞の中、車体に、建物に、町中に、乾ききった白い砂埃が音もなく、確実に降り積もっていく。その様を、車窓からひたすら眺め続けて五時間後、ようやっと辿り着いた場所がここだった。
(そう、か…)
 船上で風を受けながら大海原を渡っていた時は、当然のことながら見渡す限り一面の水でたっぷりと満たされていて、彼の故郷に草一本育たない荒涼とした荒れ地が広がっているという事実が、今ひとつリアルに想像できていなかった。
 だが目の前に突き付けられた現実は、ただひたすら、無慈悲なまでに乾ききった、砂と白っぽい瓦礫だけの大地だった。
(砂漠ってわけでも、ないんだな)
 砂漠なら、自然が作りだした広大な造形美に、感心の一つもしたりするのかもしれない。けれどここは違った。大小無数の石ころが転がる標高千メートル近い大地には、何となくではあるものの、人の手が入ったような痕跡がそこここにあるのだ。オビトに聞くと、そこが以前、一面の麦畑だった所なのだという。
「耕作放棄地か」
「へっ、誰も放棄なんてした覚えなんてねぇよ。けど連中から支給された麦じゃ、何度撒いても2割くらいしか実らねぇんだ」
 それが嘘でも誇張でもないことは、道中の車窓が物語っていた。本来ならば、今は小麦の播種期にあたるらしいが、どこにもそれらしき畑は見当たらなかった。国民の8割が農業に従事していると、一時帰国した際の情報では何度も目にし、話にも聞いたはずだが、本当なのだろうか。少なくともこの地域一帯には、主食を作っている民はいないように思えた。
「なぁ、オビト」
「ぁ、なんだ?」
「いや、これはまだ、例えばの話だが…。もしもっと沢山、確実に実る麦の種が手に入ったら、ここの村……いやここの国の人達はケシ栽培をやめて、もう一度麦を育てようって気に、なるかな?」
「は? もっと沢山? …ふん、どうかな」
 今は同じだけ働いたとしても、小麦よりケシの方が遙かに利益率が高い。それはそうだろう。だが、価格の安い輸入小麦のせいで、麦がきちんと実った場合でも、ケシと麦では年間の収益はトントンかそれ以下かもしれないという。
「政府も表向きは栽培禁止令を繰り返し出しているし、自分達も良くないことだと分かっちゃいる。けど、そう簡単に転作するとは思えねぇ」と、彼は心底悔しそうな、けれどどこか諦めたような口調で言った。その顔に深く刻まれているものは、この国が抱えている問題の深刻さと密接に繋がっているようにも見える。ならば。
「んーー。本当に、そうかな?」
「そうかな、だと? お前に何が分かる。この村の現状を、ろくに知りもしないくせに」
「その現状を技術者達に教えて、一緒に協力していけば、やり方は必ず見つかる……とは、思わないか?」
「―――…」
 だから今回、一人では来なかった。過去に成功したビジネスモデルなどと慎重に照らし合わせ、幾つもの可能性をシミュレーションした結果、これは一人ではダメだと大きく方針転換していた。
 帰国してすぐ、いつになく沢山のつてを辿った。以前、今にも切れそうな細い糸を手繰って、地図にもネットにも載ってないような村にまで行ったのだ。それに比べれば、手掛かりは無数にあるといっていい。
 オレの仕事は、つてには事欠かない。つてで仕事をしているといっても過言ではないだろう。人脈の辿り方如何で、そのプランの成否が決まるといってもいいくらいだ。
 それでも会社勤めをしていた頃は辿る分野も限られていたが、フリーになった今となっては、その目に見えない人と人との無限の繋がりが、ネットの膨大な情報網をも凌ぐ頼もしい味方となってくれていた。
 そうして行き着いた各方面の専門家らと検討した末に、その分野のエキスパートを三人連れてくることに成功していた。三人はNGO団体の職員だったり、大学の研究員だったり、農業指導のプロだったりと肩書きは様々だが、いずれもオレより遙かにこの土地に精通していて、専門知識を持っている。
 もちろん今の自分が、ライターやジャーナリストというカテゴリーからは大きく外れてしまっていることは、重々認識している。だが肩書きなんて枠に囚われていたら、いつまで経っても十人並みの経験しか積めないだろう。
(別に、いいでしょ。フリーなんだし)
 さしずめ今の立場は、発起人兼、コーディネーター兼、記録係といったところか。
 初めての所にぽっと行って、余所者の目で状況を見て回り、全くの第三者の視点で記事に書くというスタンスも、それはそれでもちろんありだ。
 でも今の自分は、それだけではとても満足しそうになかった。上手く言えないが、とにかくオレは、今回の計画を前に進めたい。そのためなら、どんなことでもしてみようという気分だった。上手く行けば、いつか記事に出来る日が来るかもしれない。が、それはあくまで副産物のようなものだろう。期待はしていない。

「どうせここで金儲けのネタを拾ったら、お前達もすぐに帰るんだろう。そしてもう、二度とここには来ない」
「なぜ、そう思うんだ?」
「知れたこと。ここが、見捨てられた土地だからだ」
 男は苛立ち混じりに吐き捨てるように言った。それはこの地を離れて貨物船に乗り、世界各国を見て回るようになった男だからこその言葉でもあるのだろう。
「ならお前も、他国に家族を呼び寄せる目処がついたら、いずれはこの地を見捨てるのか?」
「――なんだと?」
 途端、オビトの声に剣呑な響きが加わった。
「だから、先祖代々たら伝わる土地や暮らしは放棄して、もっと平和で、豊かな土地へ移住するつもりでいるのかと聞いている」
「なっ…」
 もしその意向であれば、別の現地キーマンを探すため、場所を変えなくてはならない。この案は、長期間にわたって土地と労働力を提供してくれる現地との、密なコミュニケーション無しでは成立しないからだ。
「あぁいいから落ち着け。なにもそれが悪い事だとは言ってない」
 この世の誰が、その行為を責められるだろう。
「けどな、生まれ育った土地が他のどこより好きで、何を置いても離れがたい愛着があって――」

 もしも。
 例えばの話として。
 この国の絶望的な状況を、あのイルカが目の当たりにしたとしたら、彼はどうしたいと思うだろう?
 なぜか日本に帰る機内の中で、そんなことばかりつらつらと考えていた。なぜ彼だったのか、理由はわからない。でも最後まで他の者の名前が浮かぶことはなかった。
 とはいうものの、彼が考えることと、自分に出来ることは違うはずだ。

「――その土地にしっかりと根差して生きている奴を……オレは心の底から羨ましく思ってる」
「――カカシ…」
 これまでどこで暮らして何をしていても、オレは常に「異国の人」だった。『自分は一体何者なのか?』という漠然とした思いが、心の隅から消えたことはいまだ一度もない。皆の中には自然に備わっているらしい、確たる根っこのようなものが、己の中には見当たらない。自分ですらそう感じていたのだから、周囲がそう思うのも当然だったろう。
 だから「決して当事者にはならず」、客観的な視点を持つことを常に要求されるライターになったのも自然の成り行きで、最早そこにしか自分の居場所はなかったのかもしれない。

「確かにここは、恵まれた土地ではないのだろう」
 ふと脳裏に、先月寝泊まりしていた山奥の、瑞々しい自然が過ぎった。水も空気も澄み渡り、天に向かってそびえ立つ巨木の下では、数限りない生き物がひしめきあいながら調和している。あの小さな島国に当たり前のように残る豊かな大自然が、今では奇跡に近いとまで思える。
「けどここだって、今のあんたらに繋がる先祖達を、何千年もに渡って育んできた土地なんだろう?」
「……あぁ…、そうだな」
 この村に来るまでの間に、この数年で急増したという幾つもの広大なケシ畑を見かけていた。その総元締めは、昔からこの国を席巻している武装勢力が伝統的に担ってきていたそうだが、最近は一向に収まらない内紛に業を煮やして、資金源を断ち切るという名目で、こともあろうか多国籍軍の中のリーダー格である一番の超大国が公的に牛耳っているのだという。
(ふん、道理で芽の出ない麦を送り続けても平気なわけだ)
 一度大義名目さえ掲げることができれば、他国への介入はいとも簡単だ。おおっぴらに立場の弱い国を食い物にして、何食わぬ顔で自国に利益誘導している匂いがぷんぷんしている。しかも海外ジャーナリスト達が、自国の政府から勧告を受けて軒並み国外待避してしまっているため、いよいよもって好き放題だ。その辺のやり口を洗いざらい調べ上げて白日の下に晒したい気持ちに駆られるが、それには命があと何個か必要になるだろう。
(ならば、別のやり方でいくまでだ)
 いずれは何らかの形でやるにしても、優先順位ってものがある。
(自然と共に生きている、民の力をナメるなよ)
 カメラのファインダーを覗きながら、洗ったように何もない乾いた大地を次々と切り取る。いつかここが、劇的に変わった時のために。
 やりようはあるのだ。
(オレと彼らが諦めない限りは、な)

「なら早速だが、我々の案を聞いてみないか?」
 研究員らの話では、今の雨期を逃してしまうと、計画自体がそっくり来年に持ち越しになってしまうという。時間が惜しい。
「わかった。村人を集めてくる」
 一つ頷いた男が、踵を返す。
 生成色の、パトゥーと呼ばれる上半身をすっぽりと覆うように撒かれた大型のショールの裾が、強い北風に棚引きながら遠ざかっていく後ろ姿をじっと見守った。



   * * *



「なぁカカシ、その計画は、本当に上手くいくのか?」
 シーアチャイという濃褐色の茶を一口、ぐっと傾けた男が、床に敷かれた毛織物の上にカップを置くと、少し興奮気味に話しかけてきた。
 今しがた計画案の全容を話し終えたところだ。だが、あちこちから矢継ぎ早に上がった質疑応答の通訳を一通り務め終わった後でもなお、オビトの第一声は要領を得ないものだった。いまだに話の要点が上手く呑み込めていないらしい。いきなり降って湧いた小麦農地の再生計画案に、どこか夢物語のように捉えてしまっているのかもしれない。
「土地は空いてるんだ。まずは試しに、撒いてみることだな」
 かくいうオレの返答も、ごく単純なあっさりとしたものだった。自分は植物学者ではないから、麦そのものや育て方についての詳細な話は出来ない。だが、そもそも現段階では難しいことは何も無いのだろう。
(決断さえ、出来れば)
 きっと一番大変な部分は、他でもない我々が日本から持ってきた「小麦の種」がやってくれる。
(――はずだ)


 オビトに実のならない外国産小麦の話を聞いたオレは、日本に帰国した際、以前取材で話を聞いたことのある、穀物ディーラーの大手に連絡を取り、大学の研究員を紹介して貰っていた。目的は、『日本の麦を現地の気候に合うよう品種改良出来ないか』。
 もしも上手く品種改良できれば、干ばつに悩む貧しい周辺国にも歓迎され、ひいては小麦市場を大きく動かしていくいち勢力になっていく可能性もある。将来的には、国力にものを言わせて実らない麦を送り続けてきた「例の国」に一泡吹かせてやれれば更に良し。
 だがその大学には、偶然にも半世紀以上も前に、日本の探検隊が中近東から持ち帰ってきたという、150種以上もの小麦の種が良好な状態で保存されていた。中にはオビト達が住む村の、現地付近で採取されたものもあるという。
(ふん、相変わらず人脈を辿るのだけは天才的だな)
 自分で言うのもなんだが、鼻は悪くないのだろう。だが問題はその先だ。
 当時のプラントハンター達は、日本の麦のルーツを探る目的で、DNA解析をするためにサンプルとして麦を持ち帰ったという。だがいくら保存が効く穀物とはいえ、それらは刈り取られてからもう60年近くが経ってしまっているのだ。
 祈るような気持ちで「もしそれを現地に撒いたとして、もう一度発芽して実を付けるか?」と聞いたところ、「やってみないことにはわからないが、恐らく可能ではないか」という。聞いた瞬間、文字通り血が沸き立っていた。





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