そこからは一気呵成というやつだ。
 皆から忘れ去られ、もう二度と出会う事などなかったはずの思わぬもの同士が突然ぴったりと結びついたことで、俄然面白さが増していた。文字通り寝食を忘れる勢いで、国際協力機構に協力を仰いだり、農業指導のプロを探したりと、夢中で駆けずり回った。
 その間、コンタクトを取った初対面の者達は、こちらが自己紹介をすると、皆一様に不可解そうなリアクションを見せたが、まったく気にならなかった。幾度となく「経済ライターという肩書きからは随分外れているようですが?」と問われたが、「変ですか? 成り行きですが本気ですよ」と笑って流した。
 そんなことよりも、だ。
 実を言うと、その研究室を訪ねた際に、生まれて初めて麦の穂というものを間近で見ていた。稲穂と比べると意外なほど逞しく凛としたその姿には、なかなかきれいなものだなと思った。
 また、小麦の先物取引価格には年中目を通していたというのに、麦の穂を見るのは初めてという状況に唐突に気付いたりもして、内心で密かに自嘲したりした。

 自宅に帰ったら帰ったで、今度はこの計画に必要そうな調べ物だ。オビトと現地の空港で落ち合う約束した日まで幾日もない。時間が惜しい。調べても調べても「これでいい」と思うことはなく、新聞配達のオートバイの音ではっと我に返って、慌ててベッドに横になる日が続く。

「――おい、聞いたぞカカシ、お前また何を血迷ってるんだ?!」
 布団に入って目を閉じ、二度ほど寝返りを打ったところで、昼間携帯にかかってきた電話の声がふと耳元に蘇った。電話の主は元同僚だった。相変わらず情報だけは早い。
 どういう経緯で伝わったのだろう? オレが経済とは全く関係の無い、『文字通りの畑違い』の取材づいていて、ついには渡航自粛勧告の出ている国にまで行くらしいと耳にして興味をそそられたらしいのだが。そんな輩が今日だけで3人ともなると、少々食傷気味だった。
 しかも大まかに内容を説明すると、みな判で押したように、「なぜそれをお前がやる必要が?」と言う。

「――大体そんな泥臭い経歴が一体何の役に立つんだよ。全く潰しが効かないぞ? 戻ってきたあと、どうやって飯食ってくつもりだよ。いや、そもそも戻ってこれるかどうかさえ怪しいんだぞ? もし度胸試しだなんて甘い考えでいるなら、一生を棒に振ることになるぞ、分かってるのか?!」

「――いいから落ち着いてもう一度よく考えてみるんだな。一度も第一線から転がり落ちたことのないヤツに言ってもピンとこないかもしれんが、この業界はお前が考えてるほど甘くない。こうして煙草が一本燃え尽きる間にも、この業界の地平は七回転んでる。七回だぞ? 八回目に起き上がれるか誰も分からないというそれこそが、我々の飯のタネなんだ。そんな状況で半年でも離れようもんなら、もうITライターとしては使い物にならないって事は、お前が一番よく知ってるはずだろう? 何のためにここまで昇ってきたんだ。同業の連中が喜ぶだけだぞ。悪いことは言わん、止めておけ」

「――誰に吹き込まれたか知らねーけどよォ、戦争ジャーナリストなんてもんが世のため人のためで、やり甲斐のある高尚なお仕事だなんて思ってるなら思い違いも甚だしいぜ? お前ならこのままいきゃあ、経営コンサルタントはもちろん、コメンテーターだって取締役だって遠からずなれるんだ。そこまで開けている道を全てドブに捨ててまでやる程のものかぁ? その麦の種だって、撒いたからって必ず芽が出るって保証もねぇんだろ? 出なかったらどうすんだよ。団体が予算確保するために、何も知らないお前が体よく担がれて踊らされてるだけだって。あとで絶対に後悔するぞ、もう一度よく考えろって。今ならまだ引き返せるんだからよ」

 電話をかけてきた者達の中に、今回のプロジェクトの内容に興味を持った者は一人としていなかった。そんな電話を切るたび、豊かなこの国で生まれ育った彼らが、この地で各々の中に深く張ってきた「根の一端」に触れた気がした。
「まっ、帰国後どうするかは、戻って来れた時にでも考えますよ。――じゃ、これで」
「オイちょっと待て! お前は一体何が不満なんだ? 俺はお前に何と言えば良かったんだ? え?!」
(――そう、言われてもねぇ?)
 その呼びかけには応じることなく、通話オフのボタンを押す。幾度となく。
 そもそも、だ。
 その答えが容易く浮かぶようなら、渡航自粛勧告の出ている国に行こうなんてこと自体、思わなかったんじゃないだろうか。

(いいさ。ならばオレは、根無しであることを最大限有効利用するまでだ)
 経済とは即ち人であり、この世界そのものを指すのだろう。人が住む所ならこの世の隅々まで経済であり、経済と何の繋がりもなく、影響のない所などどこにもないはずだ。

(――今頃、どうしてるか…)
 閉じた暗い瞼の裏で、1本の木から無心で仏像を彫りだそうとしていたひたむきな横顔を思い出す。もうあの地域一帯は、真白な雪がすっぽりと覆っているのではないだろうか。
(なら少しは、彫り進んだ?)
 当時、一番面倒くさいと感じていたことが、なぜか一番最初に思い浮かぶようになっている。不思議だ。我ながら自分のことがよくわからない。
 前回彼らのことを記事にした際は、全くといっていいほど興味がなさそうだったが、今回のこの話はどうだろう?
 少しは興味を持つか?
 いや、もしかして、もっと別の方法がある?
 それとも……余計なことをするな?

(…ふ、まったく…)
 関係者らと共にここまで計画を詰めてきていても、自分はまだどこか不安で仕方ないらしい。当然か。危険な地域でのプロジェクトに、大勢の人を巻き込みだしている。オビト達の村の存続もかかってくるはずだ。もう後には引けない。
(大丈夫だ、迷うな。今からオレが迷っていてどうする)

 出国三日前の明け方。
 瞼の奥の、もう一つの瞼を固く閉じた。



   * * *



「――よしわかった。お前達が持ってきた麦は、そんなに多くはないのだろう? その程度撒くだけなら、大した労力も要らないしな。長老達を説得してみる」
「ん、宜しく」
 オビトの決断は早かった。言うや否や、絨毯の上に車座になって声高に話し合っている年配の男達の輪に、臆した様子もなく入っていく。
 本当は、生長の記録を詳細に取っていくため、細かく種類別に撒いていかなくてはならないことから、耕す面積はそれなりに必要だ。ゆくゆくは水の確保なども問題になってくる。だがまずは、「もう一度小麦栽培をやりたいか、やりたくないか」の意思確認からだろう。
(頼んだぞ)
 食卓布の上に置かれていた、使い込まれた自分のカップを手に取る。室内はお世辞にも暖かいとはいえず、すっかり冷めてしまっていたが、喉の渇きに負けて小さく傾ける。
(――ッ、うぅ…、にしてもこれ、もうちょっと何とかなんないのかねぇ?)
 ちなみにこの国では、なにをするにもまずはお茶がなくては始まらないそうなのだが。都市部の喫茶店では、店の外を偶然通りかかるかもしれない知人のために、客に2セット分の茶が供されるほど、その存在は重要なものらしい。よって村中の者が茶器持参で集められた中、我々にもその茶が振る舞われたわけだが。
 勧められたシーアチャイとはどいうものかと訊ねたところ、「ブラックティーだ」という返事に、「ならそれで」と安易に返事をしたところ、一発で虫歯になりそうほどの極度に甘いお茶に閉口していた。ブラックとは、単純に色のことだったらしい。大量の砂糖に一口で喉がいがらっぽくなって、飲む度に咳払いしたくなる。これでは本来のお茶の意味がないのではと思うが、郷に入ったならそこの住人に素直に従った方がいいことは、イルカの所で学習済みだ。
 村人の前で話している最中、ついつい何度かカップに口を付けてはうっかり眉根を寄せて咳払いをしてしまったが、どうかこの話自体は難しく考えないで貰いたいと思う。



   * * *



(うぅ、さむ…)
 今朝目覚めた時から…いや寝袋の中で目覚めるだいぶ前から、ずっと「寒い」ばかりがループしている。現地が寒いとは聞いていて、そのつもりで周到に用意して来たつもりだがやはり寒い。乾燥した大陸の、しかも標高千メートル近い内陸部の寒さとは、こんなにも厳しいものだったかと思う。
 そもそも荒れた剥き出しの地面の上に建てられた粗末な日干し煉瓦の建物に、木の家のような温もりを求めること自体、無理なのかもしれない。大きな木が育たないこの土地では木材は希少で、この家も梁の部分にのみ、ごく僅かしか使われていない。
 ふと余りの寒さから芋づる式に、イルカの所に行った際、車中で一泊した時のことを思い出した。
(ま、でもあれに比べれば? ぜんぜんマシ、ね?)
 寒さもさることながら、大勢でいるということは、安心感がまるで違う。例え武装集団が宵闇に紛れて襲ってくる可能性が捨てきれないとしても、だ。
 いつの間にか随分と許容値が広くなっているらしい自分に、小さく片笑んだ。



 説明会を開いた翌日。思いもかけず、数十人からなる村人達のコンセンサスが早くも得られていた。出された結論は「Yes」。実行だ。想定していた以上に意見は一方向に向かってまとまりをみせ、計画は順調に滑りだしている。それもこれも、全てはオビトのお陰だ。彼の通訳と熱意なしには、このプロジェクトは一歩も進まなかったろう。彼ら村人からすれば、聞いたこともないような遠くの国から、突然降って湧いたような小麦栽培話だ。彼の橋渡しなくして、誰が本気にしただろう。
 今ならわかる。「ダメなら他の土地を探す」などという選択肢は、最初からなかったのだと。
 陽が高く昇った頃合いを見計らい、早速村人総出で耕す場所を決め、十数本の畝を作っていく。麦の種まきの時期としてはもう殆ど終わりといってよく、のんびりしている暇はない。
 遙かな荒原からよく吹き渡ってきて、容赦の欠片もなく上着の裾をばたつかせていく北風も、心なしか昨日よりはマシに思える。
 この国は現在雨期の真っ最中だ。といっても、連日雨が降り続くわけではない。そのかわり時折乾いた雪が降り、とても寒い。特に朝晩は急激に冷え込み、連日のようにマイナスを記録している。けれどその雪が水に変わることで、この地に緑を…ひいては食料をもたらすことになるのだ。

「大丈夫だ。あんたらの大地はまだやれる」
 一度はすっかり失われたとばかり思っていた時間が、戻ってきはじめたのだ。
「ああ。…だと、いいがな」
 オビトが目だけを出したターバンの奥から、短く答えた。



   * * *



 村人総出で幾本もの畝を作り、種を蒔いた翌日。オレはオビトの案内で、近くのテント村に行くことになった。昨夜彼の話の中に、戦争難民が暮らす小規模なキャンプ地があると聞いて、その場で行ってみたいと申し出ていた。
 同行の三人は止めようとはしなかったが、一緒に行くと言った者はいなかった。彼らには、村人達への育苗指導や、土質の検査、今後の肥料や水の調達ルートの検討など、三日後の帰国までにやるべきことがまだまだ沢山ある。

「じゃ。夕方には戻るから」
 砂埃ですっかり真っ白になった車に乗り込み、オビトと二人で難民キャンプへと向かった。




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