「――ったく…。そういうものは前の晩から用意しておくもんでしょ」
 脇から溜息混じりの声が掛けられると。
「や、あの…うわっ、ちょと、だって…あだだだだ、くぅ〜、足イテーッ!」

 どうにも耐え難い筋肉痛と共に、一週間が始まっている。足が言うことをきかない分、いつも以上に慌ただしい朝だ。(まぁ慌ただしいのは俺だけだったりするけど)
 カカシなんて、いつ身支度を調えたのか知らないが、もういつでも出掛けられるような態勢でパソコン椅子に座っている。
(これでも朝起きた時は、二人とも当たり前のように寝癖が付いているんだけどな〜)
 なのに上忍の銀髪だけはいつの間にか光を撥ねる、とても綺麗な流れを作っている。唯一見えている右目も、やたらと飄々としていて疲れの欠片も見えない。
 一方俺の髪ときたら、一度水でもぶっかけない限りいつまでも頑固にあっちこっち跳ね回って、腹立たしいことこの上ない。でも癪だけど結局は時間優先で、その長さを利用して一つに纏めて出掛けることになる。
 
 何とか髪を纏め終え、机の上に散らばった持ち帰り仕事をかき集めていると、椅子に座っている上忍からやれやれといった調子の声が掛けられたのだった。金曜の夜に彼の帰りを待ちながら少しやったのだけど、その後は机の上に散らかしたままになっていた。
 だってこの二日間、仕事の事なんてこれっぽっちも思い出さなかったから。カカシと過ごす休日はとにかく面白くて、他のことなんて思い出している暇がなかった。
 かつてない程の筋肉痛ですら、「余りに楽しすぎた休日のせいで生まれた、ちょっとした副産物みたいなもんだよな」、なんて思えた。痛いのも苦しいのも一切ゴメンで、筋肉痛なんてそれこそ極力避けて通りたいはずの俺にしては、これはちょっと珍しい心境の変化かもしれない。
 とにかくこの二日間のことを思い返すと、自然と顔が笑ってしまう。
 書類を鞄に詰め込み、ヨタヨタと玄関に向かいながらも、俺の口端と気分は上がりっぱなしだった。





(――やれやれ…)
 不規則極まりない、情けない足音が朝の住宅街に消えていくと、オレは昨日までの二日間のことを何ということもなく思い返す。

 イルカの休日初日の土曜日。
 オレ達は新宿という繁華街へ出掛けていた。超高層建築の四角い建物が建ち並ぶあの街は、新都心と呼ばれているのだという。
「金がないなら歩いて行けばいい」と、至極まともな提案をしたはずのオレを、イルカは冗談じゃないと電車に乗せた。例え財布の中がどうあっても、極力歩きたくないらしい。それなのにアイツは、何の準備運動もないまま無茶な全力疾走をやらかして、兵糧丸無しでは立てなくなってしまった。
 何という間抜けで身体能力の低い男だろう。しかも料理も如何にも慣れてない手付きだし、様々な道具使いを見ていてもお世辞にも器用とは言えない感じだ。
(まぁそんな男の家に、すっかり厄介になってしまっているオレもオレなんだが…)
 そうは言っても仕方ないではないか。あいつが勝手にオレを呼びつけたんだから。
(ったく…仕方ない以外の、他に何と言えばいいと?)
 大慌てで鞄に書類を詰め込んでいた後ろ姿を思い出して、小さく溜息をつく。


 高所からトーキョーの巨大な街を見下ろし、主立った建造物や地名などを一気に把握した翌日曜日。
 その日は未明から雨になった。
(……しまった…オレの忍服…)
 雨音に気付いて暗闇で片目を開けたものの、もう後の祭りだ。確かこの家の窓の外に庇はなかったはずだ。そこに干してあった服などとっくに濡れてしまっているだろう。心の中で小さく舌打ちする。
 もう濡れてしまったのだから、慌てて取り込むのも馬鹿らしい。
(大体、なんでオレがそこまで面倒を見てやる必要がある?)
 どこか投げやりな気分になって、毛布を体に引き寄せた。
 この街はどうも余計な臭いが充満していていけない。いつもなら遠くの雨の匂いを嗅ぎ取ることなど雑作もないのに、この世界ではそれがままならないのだ。何が起こるか予測の付かないこんな異常事態だからこそ、常に五感を研ぎ澄ましておかなくてはならないというのに。
 また忍具類も出来る限り揃えておきたいところなのだが、手持ちはポーチとベストの中にあったごく基本的なものだけ。せめてSランク任務の途中だったら、もう少しまともな装備だったのだろうが、Dランク装備では正直何とも心許ない。
「…………」
 こちらを向いて眠っているイルカを、毛布にくるまって横になったままの状態で軽く睨んだ。イルカは半開きになった口元から涎が垂れていて、その様子はまるで赤子だ。こんな男に有無を言わさず呼び付けられたとは、どうにも納得いかない……というか未だに信じられない。
 その赤子男は「この世界は平和だから安心していい」などと言っていた。呑気なもんだなと思う。
 更にこのもやしっ子と居ると、既に簡単な料理や洗濯からしても一騒動で、度々調子が狂わされる。アカデミーを出たばかりの子供ならまだしも、オレの知る限り、周囲でこんな不安定な生活を送っている成人男性などまずいない。
(一体どういう世界なんだか…)
 昨夜は思ってもなかったものをイルカから貰ってしまい、つい何となく(まっ、何とかなるか…)などと思いかけていた。
 だが一旦は引いていた波が再び寄せてくるかのように、またぞろ諦めきれない思いがひたひたと押し寄せてくる。

 オレは一人で集合場所に向かっている時、この男に口寄せされた。何の手掛かりも残さず、前触れもなしで忽然と失踪してしまっているのだ。あれから一週間が経とうとしている今頃は、不審に思った仲間達や暗部が捜索しているのは間違いないだろう。「すわ他里の襲撃か」などと騒ぎが大きくなっていないといいのだが。
(その男がまさか別次元の、しかもこんな頼りない男の家に転がり込んでるとはね…)
 そんなこと、あの里の一体誰が想像できるだろう? せめて三代目が生きていてくれたなら、水晶玉を通して状況だけでも伝わったかもしれないのに…。
(――あ〜あ……もう…)
 何だか自分一人が置き去りにされた気分だ。信頼していた里や仲間達に「お前はもう用済みだから要らない」と言われ、ポイと遠くに捨てられたような。
(オレって…『抜けされられ忍』?)
 これでは『抜け忍』の方がまだ格好が付くのではないだろうか。
(…やっ、待てよ? オレって…もしかしないでも、抜け忍扱いになってるんじゃ…?!)
 同胞を信じきっている余り、今の今まで思い至らなかったが、もしかすると…もしかするのでは?!
(まぁでも日頃の行いには自信がある)
 ――つもり…なの、だが…。
(…あぁくそっ! いずれにせよ恨むぞ、海野イルカッ!)
 苛々しながら寝返りを打ち、イルカに背を向ける。
 そぼ降る春の雨音が、いつになく冷え冷えとして聞こえた。


 そんな状況から気力は沈みがちだが、日々何もしていない事から、体力だけは有り余っている。
 早々に目が覚めると、時計の針はまだ上下に真っ直ぐ伸びきる前だった。薄いトタン屋根を雨粒がトツトツと不規則に叩いている。この分だとまだ暫くは止みそうにない。
「おい、起きろ。朝だぞ」
 家主に向かって声を掛けたが、この男一体何の夢を見ているというのだろう。ただ口元がうにゃうにゃとだらしなく笑っているだけだ。
(……ったく…)
 枕にかじり付いている幸せそうな寝顔を見ているうち、何となくその邪魔をしたくなって、少し乱暴に肩を揺する。コイツは今日も一日休みらしいから、何とかしてチャクラの練り方を教えて解印を切らせないといけない。万一ナルト級の覚えの悪さだったとしても、奴が術の発動者である限り、地道にやっていくしかないのだ。
 自分の居ないところで、写輪眼のカカシが抜け忍扱いになってるかもしれないなんて、考えただけでも不愉快だ。何が何でも帰ってやる。あぁ、絶対に元の次元に帰ってやるとも!

「おい、起きろ。起きないと痛い目に遭うぞ?」
 一旦術を教えると決めたなら、もやしっ子だからと気を遣ったり、生ぬるい手段を選んでいる場合ではない。そんなことではいつまで経っても埒が明かない。
 そう思うのに、実際には「まずは脅し文句から」と、つい段階を踏んでしまっている自分が歯痒いというか、情けないというか。
「…………にゃ…」
 ほら起きない。しかも寝ながら笑ってるし。
(ならば実力行使に出るまで)
 一気に左手に力を集約し始める。静かだった室内に、チリチリ、パチパチという音が響き始めた。カーテンを閉めきって薄暗かった部屋が、左手から放たれる強い光で青白く照らされだすと、狭い室内は幾千もの甲高い鳥の囀りに満たされた。
(――おっと、このままじゃ死ぬな)
 ついいつもの習慣で、何のセーブもせずに一気にチャクラを練ってしまっていた。だがこれをそのまま当てたなら、元の次元に帰れるものも帰れなくなってしまう。すぐさま放出する力をギリギリまで絞り、消失寸前まで落とした。
(…よし、これくらいにしといてやるか)
 もう手の平からは、細く短い青い光が時折パチリと走るだけだ。
 それでもこの力を首から上の部分に行使するのは、数日とはいえ世話になってしまっている手前、少々憚られた。そのショックが原因で、ウチの某下忍並に覚えが悪くなってしまっても困るし?
 最大出力の時よりも遙かに気を遣いつつ、オレは掌中で煌めく青白い小さな放電を、布団からはみ出ている男の素足に押しつけた。
 瞬間。
「?!☆×◇※△っだぁーーッ!!」
 男の細っこい体が弾かれたように跳ね上がるのと、言葉にならない叫び声が上がったのはほぼ同時だった。
(――起床作戦終了、と)
「起きたか?」
「……な、な、なっ、ナニ?! 今のナニーッ?!」
 イルカは涙と鼻水と涎を川のように垂らし、目を剥いた必死の形相で、周囲をぶんぶん見回している。
「さぁ? …静電気?」
 それもあながち嘘ではないと思う。男は髪の毛をはじめ、全身を総毛立たせているから。
「嘘だ! 絶対ウソ! だって今、目の前が真っ赤になった! 絶対カカシが何かやったんだ! そうなんだろッ?!」
「やってないって〜」
 徹底して素知らぬ顔をしてはぐらかすつもりが、イルカの顔があまりに可笑しくて、うっかり口元が引きつってしまう。
(おかしいな、あの金髪少年に千年殺しをお見舞いした時でさえ、眉一つ動かさずに居られたんだが…)
「だってこんな静電気あるわけないだろ! ……えッ?! もしかして今のって雷切? 雷切やったのっ?!」
 この男、そういう事に関してだけは妙に勘が働くらしい。しかしこの次元に何十億といるであろう一般人の中で、そんなことを思いつく奴など、この男くらいではないだろうか。
「馬鹿、雷切だったらとっくに死んでる。いいから起きたならさっさと着替えろ」
「…………」
「…? どうした?」
 今の今まで蒼白だった顔を急に赤らめだしたかと思うと、急に俯いてしまっている男を見下ろす。
「なっ…何でもないッ!」
 イルカは上着の裾を両手で引き下げて、何かを隠すように不自然にモジモジしている。それが何でもない様子にはとても見えない。
(…ふーん?)
 それはアレか? 男の目覚めに付きものの、大人の牡として元気な証拠ってやつか? それなら次元は違えども同じ種族なんだから、別に隠し立てすることも無いと思うのだが。
 ただこんなもやしっ子でも、朝は普通に元気な男だったんだなと思うと、何やらそっちの方に少々胸を衝かれたような気もしたが…。
 ところが次の瞬間、イルカはびっくりするような勢いで立ち上がると、押し入れの引き出しから下着とズボンを引っ張り出すや、転がるようにして風呂場へと消えていった。
 暫くすると、この雨模様だというのに洗濯機が回りだしている。
(あらま…)
 どうやらその様子からして、イルカは『大人の男』だった訳ではなく、『恐がりな子供』だったらしい。
(ちょっとやりすぎた、かな?)
 流石に寝ている一般人相手に、いきなりあれはなかったか?
 八方塞がりで苛ついた挙げ句、つい大人げないことをしてしまったなと反省しだした頃、風呂場のドアが力なく開いた。
(ひとまず謝っとくか…)
 やれやれと口端を下げ、肩を竦めた時だった。
「ぅあッ?! アイタタタタタ! あ、ぁ、足っ、足攣った…っ…!」
 男は一歩踏み出したと思った途端、膨ら脛を押さえながら前につんのめって床にぶっ倒れた。
(ハ、…ハァー?)
「うぁー!! いたたたた、痛いよ、イタイ! ホントマジやばい、しし、し、死ぬぅ〜〜!」
 畳の上を苦悶の表情で転げ回る。攣ってない方の足で何とか立とうとするものの、まだ一歩も歩かないうちからガクンと崩れ落ちるを繰り返す。
(あちゃー…)
 思わず片手で顔半分を覆った。
 どうやらこの男、昨日の全力疾走で酷い筋肉痛を起こしていたのに、更にオレにダメ押しの一撃を食らって、足腰が完全に立たなくなったらしい。
 それなのに、さっきは何ともない様子で風呂場に駆け込んでいた。よっぽど恥ずかしくて必死になっていたのだろう。
(――ぷっ…)
 まぁでもここで笑い出すのは幾ら何でも不味いか。オレはこれから詫びをしないといけない立場なのだ。
 痙攣が収まった後も足が痛くて動けず、ひっくり返ったカメみたいになっているイルカを、ずるずるとベッドまで引っ張っていって、ほらよと腰掛けさせる。そしてなるべく神妙な顔をして、「さっきの一撃は自分の仕業だった、済まない」と、潔く打ち明けて謝る。
「なッ…やっぱりアレ、雷切だったんだ?!」
 イルカの眉が、今にも泣きそうな角度でぎゅっと寄っていく。
「わっ…悪かった、まさかその…漏らすとは思ってなくて」
「すーっごいビックリしたんだからねッ! 絶対心臓止まったと思ったんだから?! だって今まさに折角念願の味噌ラーメン全部入りが運ばれてきて、割り箸割って食べようとしてたんだよ?! 食券で先に買ってたんだからね!? ホントひどいよォ〜、オレの味噌ラーメンだったのにぃ〜!」
(――…ハァ〜〜〜…)
 涎を垂らしながら寝笑っていたのはそのせいだったか。本当にウチの下忍と同程度だったとは…。こっちの膝こそ何やら力が抜けて砕けそうな感じだが…まぁいい。
(――この男らしい、か…)
 やれやれと溜息をついていると、イルカが妙にニコニコしながら、乾いて少しずつ治りだした鼻傷を掻いている。
「てへへ〜、でもまぁ…いいや。もう怒んない」
「?」
「だってさ、あの写輪眼のカカシの雷切を受けたんだよ? それってやっぱ自慢じゃない? …いや誇り、かな!」
 イルカはぐしゃぐしゃの髪のまま、ニカーッと笑った。
(お前、誇りっていう言葉の意味、全然分かってないだろ?)
 間髪入れず内心で突っ込みつつも、オレはその言葉を最後まで訂正しなかった。

 この滅茶苦茶な異次元のことだ。
 間違ったままの方がいい事だって、きっと一つや二つあるだろう。
 窓の外の洗濯物も、もう少しだけそこに居ていてくれ。





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