「――お待たせ! さ、行こうか!」
 イルカが小走りに駆けてきて、先を歩き始める。
 この男、さっき屋上で話をしてからというもの、随分と様子が変わった。少し前まではもっと自分に自信がない感じではなかっただろうか? それが今や目に見えない重しでも取れたかのように、明るく晴れやかだ。兵糧丸の薬効なら、時間的に見てももうとうに切れている頃だろうに。
(不思議な奴…)
 街灯の明かりに艶めいている、漆黒の髪を見つめた。


 家に帰る途中、食材店の前を通りかかったイルカは、何を思ったのか突然「俺が夕食を作る!」などと張り切りだした。
「無理するな。あんな埃を被った台所で何が出来る」
 上忍の観察眼をナメて貰っては困る。
「へーきへーき! 今日から埃が付かないように毎日使ってれば、いつかは上手く出来るようになるから!」
 だそうだ。
(いつか、ねぇ?)
 ま、料理が上手くなりたいという本人の意志を尊重しないというのもどうかと思う。
 オレはこの先起こりうる事態をなるべくシミュレートしないようにしながら、「好物は?」と聞かれるがままに「秋刀魚と茄子」と答えた。



 どうやらこの次元では、例え旬の季節が大きく外れていようとも、どんな食材でも揃うらしい。
 今、この世界の暦は春のはずだ。よってオレが希望した食材はどこの店頭にも無いだろうから、早々に料理は諦めるだろうと思っていた予想を裏切り、随分と立派な秋刀魚と茄子を手に入れたイルカは、足取りも軽く自宅へと帰り着いた。

「たっだいまーーっ!」
 だがその後彼は一向に台所に立たず、勢い込んで何をしているのかと見ていたところ、一心にぱそこんの画面を睨み付けている。
「……ん〜、何かあんまり分かりやすいのないなー。ただ焼けばいいのかなぁ〜」
(…なっ…?)
 何やら嫌な予感がする。やはり帰り道にあった定食屋を譲るべきではなかったのでは…。
「あ、カカシは先にお風呂入ってていいよ?」
 入れる訳がない。
「ぉっ、おい、何を難しく考えてる? 魚も茄子も、普通に火を通せばいいだけでしょうよ?」
「…うーん…、多分そうなんだろうけどさ…。味付けは?」
「オレに聞くな! ――ぁっ、あるもので…いい、から…」
 図らずも火ノ国より遙かに物の豊かな世界に居るにもかかわらず、どうやらオレは今夜もロクなものを口に出来そうにない。
 が。
(……まっ、いいか…)
 オレは無駄な抵抗を止め、男らしく潔く風呂に向かった。



「…………」
 腰タオル一枚で浴室から出てくると、案の定怪しげな食卓がオレを迎えた。
 シャワー中も匂いからある程度察しが付いていたが、実際に目の当たりにすると、髪を拭いていた手が止まる。
(――これって…)
 さっき買った魚か?
 オレの髪の毛色だったはずの秋刀魚は、ものの十数分でイルカの髪色になっていた。
「ごっ、ごめん。火加減よく分かんなくてさ…。ちょっと目を離してる間に焦げちゃった」
「……ぃや……、いい…」
「あのっ、ナスはね、もうホントどうしたらいいか分かんなくてさ、味噌汁に入れてみたんだけど…どうかな?」
「……分かった…」
 イルカに渡された空色の寝間着を付け、タオルを首に掛けたまま、オレは硝子テーブルの前に正座をすると、ままよと両の手を合わせた。



 夕食後。
 風呂から上がってきたイルカは、足が痛くなってきたと言いながら、ベッドに倒れるように座り込んた。顔を顰めてしきりに膝下をさすっている。
(至極当然の現象だ。何の修行もしてないんだからな)
 ――ふごうかっく!!――
 そう厳しく釘を刺すつもりで、オレは口を開いた。
 が、実際に出た言葉は、少し印象の異なるものに変わっていた。
「いきなり全力で走った後、兵糧丸で一時的に身体能力を高めたからな。無理が効き過ぎた分、多少の揺り返しは仕方ないだろう」
 イルカが貸してくれている毛布を背中に掛けたオレは、小さな驚きと共に内心舌打ちする。
(オイオイ、なぜコイツにそんな気を遣う必要がある?)
 大体こんな毛布など無くても自分は十分眠れるのだ。何も掛けないでいると、イルカがやいのやいのとうるさいから渋々従っているだけで、そのことで己の言動を変える必要など微塵もないのだ。
(…たく…)
 いつの間にか日和見発言をするようになってしまったらしいオレは、自分自身に向かって溜息を吐く。
「うへぇ、明日もどっかに出掛けたいのにやだなぁ。ね、カカシ、なんかこうさ、パーッと足の痛みが無くなる薬とか、術とかってない?」
「最低1日1時間、運動することだな」
 かく言うオレは、イルカが長々と風呂に入っている間に、今日の行を『指立て伏せ・片指につき200回』と決めて実行していた。この次元に来て以来、もうずっと何の任務も無いのだ。一日一度は己に何かしらの行を課さねば落ち着かない。
「え〜、それ全然すぐじゃないじゃん。薬でも術でもないし〜」
「当たり前でしょ。薬も術も、いつかは必ず切れる。本当の意味でお前のためにならない」
「ぇっ? ――ぁ…うん、そだね!」
 イルカはそう言ってにこりと笑った。
 そして次の瞬間に、ふと何かを思い出したらしい。アイタタと顔を顰めながらも、ヨロヨロと立ち上がった。そのまま鴨居に掛けてあった上着の内ポケットを探ると、中から紙袋を取り出す。
 そしてひょこひょこと足を引き摺りながらこちらに歩いて来ると、その包みをオレに「はい!」と手渡し、またよたよたと元のベッドに戻って行く。
(…?)
 手の中の紙袋を見下ろした。
「カカシ、今日はつきあってくれてありがとう」
「――――」
「それ、今日のお礼」
 開けてみてと言われ、袋の中を覗いてハッとした。
(これは…)
 さっきイルカが薬屋で選んでいたものではないだろうか?
 てっきり自分用の傷薬を買ったのだとばかり思っていたのだが。
「オレに…?」
「うん」
 外箱の効能書きを読むと、手肌の荒れを治す軟膏とある。
「オレに?」
 念のためもう一度訊く。
「そう」
 まぁ確かにオレの手指は、イルカに比べれば荒れているのだろう。でも忍の手なんて、どれも皆似たようなものではないだろうか。様々な任務のため、皆子供の頃から荒れているのが普通だし、それをいちいち気にする者なんていない。
 でもこの次元に住んでいる者は違うらしい。ぱそこんの使い方を教えているというイルカの手指は、改めて見てみるとそれなりに意識して手入れをしているのか、きちんと爪が切り揃えられており、確かにしなやかできれいだ。
「カカシは鼻がいいからさ、匂いのない無香料のやつにしようと思ったんだけど、意外に少なくて」
 それで薬屋で手間取っていたのだと言う。

(何も見ていないようで、案外見てる…?)
 今日一日を思い起こし、そう言えば何度かこの男と直接的な接触があったなと思い出した。皮手袋は外して出掛けていたから、手を取られた際にがさついた感触に気付いたのかもしれない。
(ふっ…馬鹿だな、鈍いクセにそんな所にだけ気付くとは。こんなものを買う金があるなら、自分用の染みない傷薬でも買えばいいものを)
 思ったが、上手く口に出せない。
「…あぁ…、ありがと…ぅ」
(こっ…こういうのは……苦手だ…)
 早く口布で顔を隠したい。
(今朝洗濯したオレの服、まだ乾いてないのか?!)
 明日は絶対着るからな!

「俺、カカシに何かしてあげたくても何の術も持ってないからさ、お店の薬に頼っちゃった」
 どうにもこうにも出来ずに黙っていると、イルカが済まなそうに頭を掻いている。
「……べっ別に、オレは何もいらない。何かしたいと思うなら、体でも鍛えるんだな」
「あはっ、それを言われると厳しいんだけど〜」
 ケラッと笑いながらも、イルカの感心が自分の手元に集まっていると感じるや、慌てて軟膏を箱から取り出す。
 匂いは無いと書かれているものの、蓋を開けるとすぐに強い薬品臭が漂ってきた。普段なら、自分の居場所を気取られないために極力避ける類のものだ。
 それでも慣れない手付きで手に塗った。オレのこんな姿を見たら、あの口の悪い上忍連中は何と言うだろう。多分笑い死ぬな、などという思いが脳裏を掠めたが、ままよ、郷にいれば郷に従えだ。
 
 軟膏を塗り終わったオレを見て、イルカはうんうんと満足げに頷く。だがその直後には大あくびを連発しだして、オレに渡したことで一枚しかなくなった薄っぺらい布団にもぞもぞと潜り込んだ。
(あーあー…)
 本当に馬鹿な奴だ。そのうち風邪をひいても知らないからな。

 
 電気を消した直後にはベッドから規則正しい寝息が聞こえてきて、自分も畳に横になる。
(…?)
 目を閉じると、帰りの電車で寝ていたイルカと触れ合っていた肩がまだ温かい……気がする。
 そんなこと、あるわけないだろうに。

 歯を磨いても尚、口の中にしつこく残っていたはずの焦げ秋刀魚の味も、思い切り生煮えだった茄子の不気味な食感も、何故かもう思い出せない。
 手に残るこの薬の匂いも、明日目覚める頃には消えていたりするのだろうか。
(頭を打って色んな感覚をおかしくするのも、…まっ、たまになら修行のうちか)などとおかしなことを考えつつ、オレはしっかりと毛布にくるまった。





         TOP    裏書庫    <<   >>