「じゃあ行ってくるね!」
 玄関で靴を履くと、俺は部屋の奥で地図を眺めているカカシにビシッと敬礼をした。すると彼も、手甲の付いた黒革手袋の片手を、ほんのちょっとだけど小さく上げ返してくる。たったそれだけことなんだけど、妙に嬉しかった。足はまだあちこち痛むけど、古びた鉄の階段を、ぎくしゃくとしたカニみたいな動きで下りきる。
 俺が出勤した後、カカシはまた一人で街に出て、あちこち探検して回るらしかった。お昼ご飯用にと少しお金を置いてきたんだけど、足りるかな?
 にしても、今のカカシの食生活は明らかに栄養不足だ。日がな教室で座っている俺と違い、ビルからビルへと遠くまで渡り歩いているであろう彼は、相当の体力を消耗しているはずだからだ。
(カカシ大丈夫かな。ちゃんと食べてるんだろうか? でもあれっぽっちのお金じゃ、やっぱ足りないかもな…)
 自分の食事だって似たり寄ったりなのに、そこはすっかりスルーしている。今頃コンクリートジャングルをほっつき歩いているかもしれないカカシのことばかり気になって仕方ない。だってひもじいヒーローなんて格好がつかないじゃないか。
(でも朝と夜は一緒に過ごせるんだもんな。これからはちゃんと野菜食べるようにしよう)
 自分はカカシみたいな高給取りになるのは到底無理だ。でも、それならば最低でも、そういった食材くらいは毎日買っても生活が苦しくならない程度になりたい。そのためには一日も早くもう一つ上の資格を取って担当数を増やす必要があるのだけれど、それにはまず、資格取得のための猛勉強だ。
 正直なところ、つい先日までは本当にこの仕事でいいのかさえよく分からない時があった。時折脳裏に目標を思い描いたとしても、どこか漠然として肝心の推進力にも欠けていた。なのに今では、やりたい事、やるべき事の一つ一つが、急に色鮮やかに、くっきりと輝いて見える。自然とやる気が沸いてきて、自分の前に続く道が、はっきりと浮かび上がって見えるようだった。
「ようし、やるぞおぉ!!」
(出勤したら、真っ先に検定試験の申し込みだ!)
 駅に着いた俺は敢えて文明の利器であるエスカレータを辞退し、階段の手すりを掴んだ。階段利用と試験の合格に一体どんな関係があるのか、正直自分でも何をやってるのかがイマイチよく分かってなかったけど、とにかく何となく決意直後から楽をしてちゃいけないような気がしたのだ。
 俺は一本電車に乗り遅れながらも、痛む足を引き摺って、長い長い駅の階段を夢中で上った。




「――ふーん。で、そのなんたら言う資格を取ったら、もうすぐにも上忍て感じなのか?」
 夕食時。
 山盛りになった生野菜サラダの向こうから、カカシが訊ねてくる。
 彼は異国のカタカナ文字を言う際、特に必要でない限り、いつも「それ」とか「なんたら」で通すことにしたようだった。写輪眼のカカシのクセに、カタカナ文字は覚えられないのだろうか? 訊ねると不機嫌になりそうなので黙っているが、内心可笑しくてたまらない。
「ううん、まだまだ。検定は一級から三級まであってさ。俺が受けたいのは二級だから。それだとイメージ的には、中忍試験の予選を通ったくらいじゃないかな」
 月見うどんの卵をつつきながら答えた。うん、今日の料理はまずまず食べられる…よな?
「じゃあ今は下忍クラスなのに人に教えてるわけか?」
「えッ? んー、そう言われるとちょっと痛いんだけど、まぁそんな所かな。パソコンにはある程度詳しくても、それを初心者の人達に分かり易く上手く教えるっていう事にかけては、まだまだ駆け出しの新米だからね」
「なるほど。謙虚な姿勢は褒めてやる」
「えへっ、ありがと。カカシに褒められると何だかすごく嬉しいなぁ」
「…………」




 少し持ち上げてやると、イルカは鼻傷を掻きながらはにかんでいた。
 この男の考えている事は、基本的にはとても単純で分かりやすい。表ばかりで何一つ裏がないのだ。今日になって急に大量の野菜を食卓に並べだした事と、「来月一つ上の資格試験を受験する」と言い出した事も、笑ってしまうほど真っ直ぐに直結している。
 だがオレは、内心そう簡単には笑えなかった。


 今日は一日、この国の政策決定の中枢機関を覗きに行っていた。勿論警備などあって無きが如しだ。忍び込むのは勿論、中で動き回るのも楽勝だった。吹き抜けになっている巨大な本会議場内にも衛視の者は何名も居たが、オレの潜身が見破られることなど気配すら無かった。
 ついでに言うと、議論の内容もあまり褒められたものではなかったと思う。貴重な会議の時間が、次から次へと明るみに出る税金の無駄遣いと汚職の追求にばかり使われている。欠席者もやたらと多い。
(――ハー…なんだかねぇ…)
 居眠りをしている議員の隣りに座っていたオレは、途中ですっかり聞き飽き、その場を後にした。これではイルカが政治に興味を持てないというのも至極当然という気がする。
 かくいうオレも、唯一興味が持てたのは豪奢な絨毯引きの建物でも議題内容でもなく、素晴らしい早さと正確さで会議の内容を記録している速記者の暗号技術だったりした。あれは実に使える代物だ。我々の忍文字と同程度…いやそれ以上に高度で洗練されていて、一目で気に入ってしまった。今回は途中で出てしまったが、いつか全文字をコピーしたいものだと思った。


 そんなこんなで少し早いかなと思いつつも、イルカの家に戻っていた時だった。
 微かに嗅ぎ慣れた匂いがした気がして、偶然にも近所の八百屋に入っていく彼を見付けた。覇気が無く、気怠く重苦しい雰囲気を醸していただけの議会の空気に比べ、彼の横顔は明るく清々しくて何やらホッとする。
 オレは住宅の屋根から飛び降りると、人気のない裏路地で潜身を解いた。

 イルカはこの店がこの辺では一番安いと言っていた。その店内で、彼は野菜を両手に取ったままうーんと考え込んでしまっている。
(何をやってるんだ?)
 オレはちょっとした興味を抱いて見守った。
 彼は暫くしてそれらを元に戻した。…かと思うと、別の野菜を手に取り、また一頻り考え込む。やがて確認するように財布を覗くと、また別の野菜を手に取って思案顔をしている。
(イルカ…?)
 声を掛けようと店内に入りかけていた足が止まっていた。しかも自分でもよく分からないまま、逆に彼に見つからぬよう電柱の陰に身を隠してしまう。
(自分がコソコソする必要などどこに…)と思うのに、いつの間に湧き上がっていたのか、胸の奥の罪悪感のようなものが拭い去れない。今のイルカの姿は見てはいけなかったのではないかという気がした。
 自分は独り立ちしてこの方、食べる金に困ったことがない。だがこの男は、自分を一方的に呼び付けてしまった事で、どうやらその状況に陥っているらしかった。
 ポケットの中を探ると、朝出掛けにイルカが渡してくれた札が一枚、使われないままに出てきた。電柱の陰でそれをじっと見下ろす。
 これを今彼に渡せば、とりあえずこの場はそんなに悩まなくても済むのだろうか? でもそれでは一時的な解決にしかならない気もするが。
(どうしたもんかね…)
 一方では何億両という額の莫大な税金が、日々無駄遣いされているらしいこの世界。
 その途方もない現実の落差に溜息が出た。


「――その試験、難易度は?」
 最後の一切れになったトマトを何となく譲り合い、結局半ば強引にイルカに押しつけたオレが訊ねる。
「え? うーん、そうだなぁ。二、三人に一人って感じかな」
「合格者が、か」
「うん」
「――――」
「ちょ、ちょっと、そこで黙んないでよ。そりゃ俺だって一発で受かろうなんて思ってないって〜」
「…………」
「さっ、三回受けたら、一回くらいは受かるかなー…みたいな? アハハ…」
「馬鹿、試験は富くじじゃないんだぞ。最初から受かるつもりで臨まなくてどうする。ここはいいから、食ったなら風呂に入ってさっさと修行しろ!」
「はッ、ハイっ!」

 いつまでものんびり構えていて緊張感の欠片もないイルカを何度も追い立て、ようやくぱそこんの前に座らせる。こっちはその間に夕食の後片づけをし、勢い余って明日の朝食の準備までしてしまった。なのに、席に着いたイルカは何故か机の下の引き出しを引っかき回している。
「――何をやってる?」
 座っている男の真後ろに立って、じっと見下ろした。
「エッ?! あぁ…ええっと、その〜。ホラ、やっぱさ、机の周辺が片づいてないと、何となく落ち着かないっていうかぁ?」
「机の上はまだしも、引き出しの中は関係ないだろう」
「あーもー分かってないなぁ。それが違うんだって〜、やっぱこの国の若者なら一度はやっとく儀式かな…って、うわっ、すみません! やります、勉強やりますっ!」
 イルカは慌てて引き出しを閉め、鞄から試験の虎の巻らしきものを引っ張り出して、ばさばさとめくり出した。
(ったく…)
 イルカに聞こえないよう、心の中だけで溜息をつく。
 こんなことで一ヶ月後の試験に合格出来るのか甚だ怪しい気がするのだが、この男にはそれだけ自信があるということなのだろうか? 或いはその大変さが何も分かってないだけなのか、どっちなのだろう。
(あいつには悪いが、どう見ても……後者だろう?)
 こっちも伊達に上忍を十年以上もやってない。人の筋や技量を見抜く力は、それなりにあると自負している。
(こりゃ、少し尻を叩いてやる必要があるか…)
 そんなことを考えつつ、腰にタオルを巻いたただけの格好でわしわしと頭を拭きながら風呂から上がる。
 だがタオルの隙間からイルカの方をチラと見やった瞬間、思わず目を剥いた。
 男は、なけなしの金を出して買ったばかりの、真新しい虎の巻を枕に寝こけていた。
(こっ…、コイツ…!)
 ムッとして睨み付けたが、イルカはもうすっかり夢の中に旅立っていて、少々の殺気では起きそうにない。
 また雷切をお見舞いしてやろうかと右手を構えるも、書物にぺったりと頬を押しつけて寝こけている間抜けな顔を見ていると、その気すら失せていく。
「…………」
 傍まで近寄って、左目で男の体内を見渡してみた。すると、意外なほど余力が残っていないことが分かる。この男、今日一日筋肉痛を押して、一体どんな仕事をこなしていたのだろう。内勤と聞いていたが、案外気力も体力も使う任務なのだろうか。大体日々こんな状態では、解印も教えられないではないか。
(……つくづくしょうがない奴だな…)
 目元に影が出来そうな程よく生え揃った睫毛を、見るともなく見下ろす。
 とにかくこんな所で寝込んでは、明日にはまず間違いなく風邪をひく。そんな男の面倒まで看さされてはたまったものではない。何としても今ベッドに行って貰わねば。
「おい」
 肩を掴んで揺り動かそうとした、その時。
 伝わってきた穏やかな温もりに、何やらはっとして手が離れた。
(――はっ……馬鹿らしい)
 そんな当たり前のことに、オレは何を動揺してるんだか。昨日起こした時と同じだろう。どこが違うものか。驚くんなら冷たかった時だろうと鼻で嗤う。
「おい、起きろっ」
 つい揺すり方がぞんざいになり、声が荒っぽくなる。イルカは目を瞬かせながら、慌てた様子で目を覚ました。
「…ぇッ? …アレ?……寝てた…?」
「あぁ、それはもう見事な早業でな。――そっちで寝ろ」
 顎でベッドをしゃくって促した。だがイルカは欠伸を噛み殺しながら再び参考書に向かい、ページをめくろうとしている。
「今日はもう止めておけ。いいからさっさと寝ろ」
「だってー申し込み初日から寝てちゃ、カッコつかないよ〜」
「格好の問題じゃないだろうが。今日はもう無理だ、諦めろ。そんなにやる気があるんならな、明日の朝早く起きてやれ。その方がよっぽど能率が上がる」
「え〜、無理って言われると、なんかやりたくなるなぁ」
「っ…勝手にしろ。その代わりまた居眠りしても起こさないからな」
「いいよいいよー、カカシは先に寝てて」
「当たり前だ」
 何でオレがお前の試験勉強に付き合う必要があるんだ。
(冗談じゃない)
 オレは踵を返すと、だいぶ冷えてしまった体に乱暴に服を付けた。そのままイルカの方を見ないで毛布にくるまり、背を向けて目を閉じる。
(…まったく、どうしようもなく要領の悪い男だなー。人の指導も聞かずに、ただでさえ残り少ない時間と労力を無駄に費やして…)
 こっちはお前に一刻も早く解印を切らせて元の次元に帰りたいのに、我慢してお前の生活を優先させてやってるんだぞ?
(ちょっとはそこんとこも考えろよ?)
 後ろの男に向かい、心の中で悶々と不満をぶつける。
 背後からは、さらり、さらりとページをめくる音が聞こえてくる。
 だがふと気付くと、その静かな物音に全神経を集中する勢いで耳を澄ましている自分に気付いて、内心で思い切り舌打ちをした。
(…あぁ、くそっ……絶対机で寝るなよっ…!)
 これ以上子供のお守りは御免だからな!

(――…頑張れ…)


 結局イルカは、盛んに目を擦りながらも一時間ほど本と向かい合っていた。
 あの少ない余力で、よくもそんなに保ったものだと思う。案外意地っ張りなところもあるらしい。一言くらい褒めてやろうかとも思ったが、無駄に調子に乗りそうなので結局止めた。
 背後でイルカが部屋の電気を消して床に就いた気配に、オレは不覚にも安堵感のようなものを感じつつ眠りに落ちた。





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