あれから数日が経った。
 毎朝イルカが手渡そうとする金は、まだ昨日の分があるからと断っている。別に一食くらい抜いてもどうということはない。物資の乏しい過酷な環境での任務などよくあることだ。ましてや今は何もしていない。かえって一食抜くくらいで丁度いいというものだ。
 少し眠そうなイルカが玄関を出て行くと、オレは最近イチャパラの代わりに愛読書になりつつあるポケット地図をパタンと閉じる。

 ここのところ、オレは社会見学と称して街中にある賭博場を見学に行っている。勿論所持金はあの小額紙幣一枚だけだから、金は賭けない。ただ、この世界にはどういう仕組みの賭け事があるのか、それを見て回っていた。
 とりあえず、まとまった額の金を作りたかった。それをイルカに渡さないと、最近どうにも居心地が悪くていけない。

 一番最初に目についたのはパチンコ屋だ。
 だが例え上手い奴の技をコピーしたところで、実際に対峙する相手は一台一台仕様の異なる精密な機械だ。すぐには役に立ちそうもない。常に監視カメラに見張られている中、力ずくでどうにか出来るものでもない。
(んー、流石にこの所持金じゃ無理か…)
 オレは新手の幻術か何かかと思うような、凄まじい騒音と煙草の煙が満ちる店を後にした。

 次に目についたのは富くじ屋だ。何でも最高賞金は一等と前後賞を合わせて三十億両にもなるらしい。(まぁそれでも、この国の一日あたりの税の無駄遣い額に比べれば遙かに少ないのだが…)
 但し、幾つか種類のある富くじは、どれもその場で当落を決めるのではなく、後日に機械で抽選される事になっていた。
 五代目ではないが、オレも生まれてこの方さほど運がいい方ではないと自覚している。(この口寄せの一件からして、最悪の貧乏くじを引いているのがいい証拠だ)
 この仕組みでは、例え写輪眼を持ってしても、どうにか出来るようなものではないことが判明しただけだった。

 また、完全に非合法らしいが、六本木という所の飲み屋の地下室で賭博をやっていると聞き及び、真夜中イルカが寝入った後に出掛けたりもした。もうこうなると半ば意地だ。自分自身に課した、ちょっとした任務と言えなくもない。
(――しかしオレって、一体何やってんだろうねぇ…)
 完全会員制らしい秘密の地下室に入るため、変化をした上合い言葉まで探り出したオレは、るーれっととかいう円卓を前にして溜息をついた。
 わざと互いの顔がよく見えないよう照明が落とされた中、何食わぬ風を装いながらルールを学び取る。ちなみにるーれっと台というのは、色も形もどこか写輪眼のようだった。それがぐるぐると回転する様には、何やら親しみすら覚えてしまう。
 程なくして、あの銀色の玉が仕切り升に落ちる箇所を予測して賭けるのだということが分かった。だが、この賭博もまた、少額紙幣一枚程度では参加できないようになっていた。
 また絵数札を使ったばから賭博というやつの方では、桜と胴元がグルになっていて、公然と八百長が行われていた。
 だが不幸にもカモにされた者達はその事に全く気付いていない。ムキになって次々と大金をスッている。そしてまたそういう奴に限って、如何にも要領の悪そうな間抜け面の黒髪男だったりして、店を出た後もオレの胸の中は何故かムカムカし通しだった。
(どうしようもなく馬鹿な奴等だな…)
 皆非合法と知って通ってる。よってそもそも騙される方も騙される方なのだ。その手のイカサマなどあって当前の世界なのだから、例え忍でなくともこの場合は裏の裏を読まなくては、金など幾らあっても足りる訳がない。
(ま、いずれにせよ袖すら触れ合ったわけでもないオレが、アカの他人に同情すべきことじゃないけどね)
 そう思うのに、真昼のような夜の街中を歩きながら、どうにも胸の奥がすっきりしていかない。
 結局その夜、オレは近くの交番に、賭博場の住所と合い言葉、それにイカサマの手口を書いた投げ文をして帰った。
 その後、あの店がどうなったかなんて知らない。



「イルカ、今日は休みか?」
 日曜の朝。
 目覚めたと同時に問いかけられて、男は慣れない試験勉強続きで朦朧としているらしい頭を傾げた。
「…ぇと? 今日って……日曜…?」
「あぁ」
「うん、じゃあ休み。…なんで?」
「その…少し、出掛けないか? ここ一週間、お前もそれなりに根を詰めたし。たまにはいいだろう」
「ほんと?! ホントに遊びに行っていい?」
 眠そうだったイルカの顔が、ぱあっと輝いた。子供じゃあるまいし、勉強するしないの伺いをオレに立てる必要などないだろうに。
 大体今日ばかりは、成人として振る舞って貰わないと困るのだ。
「どこどこ? どこに行くのっ? 」
「――府中だ」
「え? ふちゅうー?」
「あぁ。……馬を、見に行く」
 みるみるうちに、イルカの目と口が大きく開かれた。





「うわー、うわぁーー! 見て見てあれ! ホントに馬走ってるよ! はっえぇー!!」
 東京競馬場の三階観覧席に立つと、イルカは興奮しきって子供のような歓声を上げた。
「馬を、見たことがないのか?」
 ゴール間近の大歓声の中、オレは少し声を張り上げる。
「昔、遠足で行った動物園で見たよ! でもずっと草食べてた!」
(あそ)
 まぁこの世界では馬は移動の手段ではないらしいから、そんなもんなんだろう。
 出走前に馬の仕上がりを見る、ぱどっくという所に行く。
 手すりから乗り出すようにして、物珍しそうに一生懸命馬を眺めているイルカを見るのはなかなか面白かった。その横顔は、試験勉強と本業に明け暮れていたここ一週間には見られなかった、とても生き生きしたものだ。その勢いにはこっちまで乗せられてしまい、ここに来た本来の目的までうっかり失念しそうになって苦笑う。
(は〜オレも困った奴だねぇ、どうも)
 本当ならこんなまとまった時間があるのなら、チャクラの練り方の一つでも教えた方がいいだろうに。
(…まっ、いいか)
 全てはこの賭けに勝ってからだ。
 何だかんだ言っているが、今日一日だけは自分も楽しんでしまいそうな気がしている。
 久し振りに味わう心地よい緊張感に、意識せず口端が上がった。



「――えっ、ちょっと、もしかしてお金賭けんの?」
 カカシがジーンズの尻ポケットから千円札を取り出したのを見て、俺は少し不安になって訊ねた。
「当たり前だろう。何のために来たと思ってる」
「だっ、ダメダメ! 悪いことは言わないから、止めときなって〜。相手は忍者でもCPUでもない、馬なんだよ? こないだのゲームみたいにはいかないんだよ?」
「分かってる。とりあえず最終的には幾ら稼げばいいんだ?」
「なっ、そんな…幾らって、そりゃ…かっ、帰りの交通費! …とあと弁当二つ!…とあとあともし出来たらビール二本分!」
「あぁもう違う違う。そんなんじゃなくて。当面の生活費だ! それ目標に賭けてかないと、ここに来た意味がないだろうが」
「ハァ?!」
 幾ら上忍でも、そんな簡単に稼げるはずないだろ! しかも元金千円ぽっちなのに!
「なに調子いいこと言ってんだよ、俺ホントーにお金持ってないんだよ?! 家に帰れなくなったらどうするんだよ〜。呑む・打つ・買うは忍の三禁だろ?」
 俺は青くなった。実はここの競馬場から幹線道路までは、オケラ街道と呼ばれる長い道路がある。一文無しになった者達が、そこを侘びしく歩いて家に帰る事から名付けられたものだが、今日が競馬場初体験である二人がそこを歩くのは、最早時間の問題と思われた。しかも自分は、一週間かけてようやっとあの酷い筋肉痛から解放されたばかりだというのに。またかと思うとそれだけで膝が砕けそうになる。
「分かってる。だから具体的には幾ら欲しいんだ?」
「だっ――」
 俺の忠告なんて、これっぽっちも聞いちゃいないって感じの返事に唖然とした。多分この男は、どんなに危険でも一旦やると決めたなら最後までやり遂げようとするタイプだ。俺みたいに一文無しが怖くてビビったり、途中で諦めて投げたりなんかしない。
 カカシの世界ならそれもアリなのかもだけど、この世界の、しかも賭け事を前にしたとなると、それは流石にちょっと…いやかなり怖い気がした。
「幾らって、そんなこと急に言われたって…」
「あぁ早くしないと投票所が閉まっちまう。じゃあ家賃だ。イルカ、あの家のひと月の家賃は幾らだ?」
「えっ? えと、その…5万…8千円…だけど…?」
「分かった。じゃあ行ってくる。お前はここで座って待ってろ」
「そんなぁ、ちょ、ちょっと待っ…」
 振り返った時、もうそこにカカシの姿はなかった。


「ね、ちょっとホントに…大丈夫ー?」
 椅子に座っているイルカが心配そうに見上げてきた。彼の手にはオレが買ってきた単勝の馬券が一枚、ちょこんと乗っかっている。
「おいおい、まだ百円分しか買ってないんだから、そんなに心配しなくてもいいだろう」
「カカシ、競馬やったことあるんだ?」
「いやない。だから今こうして勉強してる」
 先日、新宿の場外馬券場近くでたまたま拾った「競馬のしおり」を開いてみせると、イルカは急に空気が抜けたようにぐったりとなって体を椅子に凭れさせた。
「だっ…だめだこりゃ…」
 たった百円の馬券に、真剣に一喜一憂しているイルカが可笑しくてならない。俯いて小さく苦笑する。
 実は先程ぱどっくに行った時、左目をちょこっと使わせて貰って、最も持久力と瞬発力がある体調のいい一頭を選んだ。経絡を見れば、その辺は一目瞭然だった。当然これは富くじなどと違い、決して運や偶然任せといった類ではない。
 また前評判などの、ある意味不確実な要素を知らない代わりに、そういう雑音にも惑わされず、純粋に余力の高い馬だけを選んで賭けることが出来る。流石に騎手の善し悪しまでは分からないが、この方法が吉と出る可能性は高いと思われた。
 何とかなる、いや何とかしなくては。

「――んー、じゃこれって7番を付けた馬が1番になればいいってこと?」
「あぁ。あの見事な青鹿毛だな」
「青いのなんていないじゃん」
「向こうから七番目に居るだろう。真っ黒な毛色の馬のことだ」
「へぇー、じゃああの白いヤツは?」
「芦毛。焦茶色っぽいのは栃栗毛だな」
「ふーん。…おぉいクロ頼むぞ〜、頑張れよぉー!」

 分かっているのかいないのか。出走前にはとぼけたようなことを言っていたイルカだったが、いよいよ各馬が一斉にスタートすると、最初から大変な熱狂ぶりだった。両の拳を握り締め、ぴょんぴょんと跳ね跳び、足を踏み鳴らす。隣にいたオレなど何度他人のフリをしようとしたかしれない。
「よしよしヨシ! おーいいぞいいぞぉ〜! クーロ、くーろー! ガンバレーー!!」
 第4コーナーを曲がり、最後の直線に差し掛かると、スタンド中の観客達の歓声がイルカの声を掻き消さんばかりに地鳴りのように湧き上がる。流石のイルカもそれには驚いて目を丸くしていたが、すぐにその歓声に混じって声を張り上げだした。
 オレの選んだ馬は、その大歓声に押されるようにして、先頭切ってゴールに飛び込んだ。
「やたーっ、やったよ! カカシ凄い、本当に凄いよ! うわーい! バンザーイ、バンザーイ!!」
「喜ぶのはまだ早い」
「……ハ?」
「これじゃあたかだか100円が4百円になっただけだ。問題はここからだ」
「えっ? えっ? まだやるの? いやあのっ、俺も! 俺も一緒に行くっ!」

 その後の残り5レースを、オレ達は一般観覧席からだけでなく、地下道を通って行ける馬場の内側に作られた遊園地やバラ園、或いは遅い昼食を食べながらの大型画面など、敷地内のあらゆる所で観戦して回った。
 購入する馬券の種類も、左目を使って見た馬の様子によって、単勝、ワイド、枠番、馬番と様々に変えた。当然資金も力が拮抗している場合は分散させ、確実に勝てる場合は集中させる。そのさじ加減は、戦況を見て、戦術と戦力を最良の状態に練り上げる作業に似ていた。
 極めつけはやはり三連単だった。今日一番の倍率になり、当たれば100円が18万円に化けるという状況に、イルカは勿論、オレも体が熱くなる。が、流石にこれは3位の着順が外れ、あえなく真昼の夢と散ってしまった。
 それでもイルカは「2位までは当てたんだから大当たりだ!」と、オレの健闘を称えた。

 夕刻。
 最終レースが終わってみれば、以前イルカから昼飯代にと貰ったあの1枚の札は、十万円近くにまで膨らんでいた。
 かくして二人はオケラ街道を歩くことなく、意気揚々と電車に乗り込んだ。そして最寄りの街の飯屋で乾杯をし、腹一杯になるまで食事をする。更に大型百貨店に行き、当面の生活に必要なものを前が見えないほど大量に買い込むと、運転手の付いた車を止めて乗り込んだ。

 車の戸が自動で閉まり、自宅の住所を告げると、イルカは騒ぎすぎてすっかり掠れた嗄れ声でけらけらと笑った。
「あーマズイよー、俺って毎週、どっかしら体傷めて出勤してる〜」
「見境無くはしゃぐからだ」
 イルカが買いに買った、オレ用とおぼしき服やら雑貨やら、はたまた食料やらに半ば埋もれながら返す。しかしよくもまぁこんなに買ったものだ。家に着いた時、この車代は払えるのだろうか? 少し心配になる。

「だってさ、ホントに楽しかったんだ…。なんだか夢みたいでさ…」
 どこかうっとりとしたような表情で窓の外を見ながら、イルカが独り言のように呟く。
「――そうか」
 競馬場での彼は、確かに今日という日を目一杯、それこそ心から楽しんでいるようだった。当たったと言っては飛び上がり、凄い凄いと人の肩をバンバン叩き、しまいには力一杯抱きついてきて全身で喜びを表現していた。
 外れても案外くよくよしていない。残りの出馬表を睨みつけ、難しい顔をして予定を組み直しているオレの前で、子供達に混じって小さな汽車に乗って呑気に手を振ったりしていた。

 そして最終レースが終わった後。
 払戻の窓口から十数枚の高額紙幣が差し出されると、オレは元金にしていた千円札一枚だけを抜き取って、残りの全てをイルカに差し出した。自分は必要ならまたいつでも来ればいいのだ。
 思えば木ノ葉の上忍たるものが、五代目も顔負けの賭け事なんぞで生計を立てようとしている訳だが、オレの矜持はさほど抵抗なくこの状況を受け入れようとしていた。郷に入れば郷に従えだ。とりあえず今、この男に当面の借りを返せたことで満足だった。
「え、こんなに?」
「あぁ」
「カカシも取ってよ」
「オレはいい。場所とルールは分かったからまた来る」
「俺もっ、俺も一緒に行く!」
「お前は試験に受かったらだ」
 途端に男はしゅんとして俯いてしまった。どうやらあまり自信が無いらしい。困ったもんだ。

「あ、ちょっと待ってて」
 そのイルカは急に何を思ったか、投票所の一角にある小さな箱へと小走りに向かっていく。
(…?)
 一体何をするのかと見ているその目の前で、彼は自分の財布を逆さまにし、元から入っていた金を全て取り出した。そして何をどう勘違いしたのか、その箱の中に次々と投入しだした。
(なっ…?)
 先立つものが無くて、野菜一つ買うのにも悩みまくっていた男が、急に何を血迷ったのだろう。その間にも、幾つかの小銭と数枚の小額紙幣は白い箱の中へと消えていく。
「ちょっ…何やってんの?」
 堪らず声を掛けた。
「あ、いいのいいの。これはね、色んな理由から孤児になった子達を支援するための募金箱なんだ」
(募金、箱…)
「ほら、今日みたいな日じゃないと、募金したくてもできないからさ」
 イルカはそう言ってにこっと笑った。
 そしてオレの差し出していた金を「ありがとう、大切に使うよ」と言いながら、すっかり空になった古びた財布に大事そうにしまった。
 


 窓の外を景色が流れていく。
 外はかなり騒々しいようだが、車の中はとても静かだ。
 街の明かりが男の横顔を様々な色合いに染めるのを、オレはどこか不思議な気持ちで眺める。
「……馬、きれいだったね…」
 窓ガラスに頭を寄せてぽつりと呟いたその目元は、遙かな遠くを見ているようだった。
「あぁ」
 きれいだった。
 お前がそう言うのなら、きっとそうなんだろう。


 やがてはしゃぎ疲れたイルカは、オレのものらしい枕の包みを抱いたまま、うとうとしだした。やがてその格好のまま、幾らもしないうちに深い眠りの淵へと落ちていく。
(…おっと…)
 背もたれに預けていた男の体が、車が曲がった際にバランスを失ってこちらへと傾いてくるのを見ると、当然予想できた事態なのに少し焦った。
 仕方なく肩で支えてやると、確かな重みに訳もなく胸が高鳴りだす。
「…………」
 その鼓動は、さっき最後の最後で有り金全てを賭けていた時よりも、ずっと忙しないものだ。

 車は欅並木の下を止まったり進んだり、追い越したり追い越されたりしながら、少しずつ何処かへと進んでいく。
 前を向いている初老の運転手が、鏡越しにこちらを見る様子はない。
 かなり疲れているらしいイルカは、遠慮の欠片もなくずっしりとこちらに体重を預けてくる。なのに不思議と不快とは思わなかった。むしろその重さを、心地いいとすら感じる。
(温かい…)
 深く息を吸い、ほうと吐き出す。
 見下ろした肩口には、青鹿毛より余程見事な黒髪が揺れている。
 小さな鏡に映った運転手の様子を横目で意識しながらも、半ば吸い寄せられるようにしてそこに顔を埋めた。
 胸一杯に息を吸うと、今日一日イルカが浴びた陽の光と、はしゃいで転げ回った芝生の薫り、そして彼自身の匂いが否応なく鼻腔をくすぐる。
 頭の奥がじんと痺れるような、その甘やかなのに刺すような感覚は、今まで一度も感じたことのない未知のものだ。
(…イルカ……)
 無理矢理に人を呼び付けたくせに、今は一人であっさりと別の次元に飛んでしまっている男。
(…勝手な奴め…)
 深く息をするたび、頭のどこか深い所が麻痺していくような気がする。なのに危機感は微塵も感じられない。
 オレは運転手に払っていた注意を、男の傍で眠ることにのみ振り向けることにした。





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